小田原城址 ~三の丸・馬屋曲輪・御茶壺曲輪・小峯曲輪~
関東に一大勢力を築いた戦国大名北条氏の本拠だった小田原城。その前身は室町時代中期頃に西相模一帯を支配していた大森氏が八幡山(現 県立小田原高等学校付近)に築いた山城とされる。戦乱の世に台頭した北条早雲が伊豆平定を終えて小田原へ進出、謀略によって大森氏を退け、以来5代約100年にわたって北条氏の居城となり規模を拡大させた。戦国時代に豊臣秀吉の侵攻に備えて城下全体を全長約9kmにわたって空堀と土塁で囲む総構えの縄張りが完成、しかし天正18年(1590)秀吉による小田原征伐で北条氏は籠城して徹底抗戦するも、豊臣方の圧倒的な兵力の前についには落城して滅亡への運命を辿る。
戦後に徳川家譜代の大久保忠世が入城して小田原藩が立藩、規模を縮小して近世城郭に改修された。明治3年(1870)廃城以後に二の丸平櫓を残して建築物は解体、跡地は小田原・足柄県庁や神奈川県支庁に利用され、明治34年(1901)になって旧二の丸に御用邸が建てられた。大正12年(1923)関東大震災で御用邸や二の丸平櫓が倒壊、大部分の石垣も崩れて往時の姿を失うことになる。昭和9年(1934)二の丸平櫓が隅櫓として再建、同35年(1960)天守閣を再建、同46年(1971)に常盤木門、平成になって銅門や馬出門が復元された。

小田原城址の北側に位置する小田原駅から散策をはじめよう!

小田原駅付近、栄町2丁目にある北条氏政・氏照の墓所。

秀吉の小田原征伐により北条氏四代当主の氏政とその弟氏照は自刃、両人の遺体は当地にあった伝心庵に埋葬される。後に長らく放置されていたところ、稲葉氏が藩主のとき(1633~85)に北条氏を偲んで整備されたという。それから約250年を経て関東大震災(1923)の被害を受け埋没、翌年に地元有志によって復元された。五輪塔の前にある平たい石は、氏政・氏照がこの上で自刃したと伝わる。

三井住友銀行小田原支店前に”上幸田”の旧町名碑。この辺りは三の丸入口の幸田門北側に位置し、かつては隣の下幸田と共に武家町を形成した。町名の由来は北条氏家臣の幸田氏が居住していたことに由来があるとされる。

三の丸堀跡の東辺。現在は国道255号が通り、その西側(写真右手)が三の丸堀跡。

三の丸堀跡にある小田原郵便局の横から旧三の丸に入れる。

小田原郵便局裏手に残る三の丸堀の石垣と土塁。この辺りは市街化したにもかかわらず現存している。

三の丸北東角の土塁。かつては隅櫓が設けられていた。どんな経緯があったのかわからないが、こんな市街化した場所で土塁や石垣が良好に残っているのは奇跡。こういった遺構を見つけるのも城巡りの醍醐味でもある。

三の丸北東角から幸田口門跡に向かって延びる土塁。

幸田口門跡側から三の丸土塁。かつては右が三の丸で左に水堀があった。

幸田口門跡東側に残る三の丸土塁。

幸田口門跡でくつろぐネコ。

三の丸土塁から幸田口門跡。かつては正面の建物辺りに幸田口門と枡形が設けられていた。

幸田口門跡から三の丸方向。幸田口門は三の丸北側の出入口で、武田信玄や上杉謙信が小田原城を攻めた時、ここから攻め込んだと考えられている。

幸田口門跡から城外方向。

幸田口門跡に設置される解説板。

小田原城絵図(文久図)より、 幕末の幸田口はこんな感じだった。

ネコに別れを告げて次は大手門跡に向かう。

小田原市民会館前歩道橋より大手門跡。かつては道路の向こう正面辺りに枡形・冠木門・大手門を配置、小田原城で最大の門で、城内への正式な登城路の出入口だった。

小田原市民会館前歩道橋より北方向。手前が大手門跡で奥へ延びる道路左手沿道がが三の丸堀跡。

小田原城絵図(文久図)より、 幕末の大手口。南側(絵図左側)の三の丸堀沿いを東海道が通り、東海道から大手口へ至る道には浜手口門が設けられている。

大手口跡。かつて枡形を形成した石垣や土塁、水堀は失われ往時の面影はない。

ここが大手門跡で、奥方向が旧三の丸。現在は門跡の一角に鐘楼が設けられている。

大手門跡の鐘楼。江戸期に小田原町の”時の鐘”は浜手口門にあったが、明治期に移転、更に大正期になって現在地に移された。戦時に鐘が軍需資材として供出され、時報はサイレンやチャイムに代えられたが、昭和28年(1953)小田原寺院団により新しく鐘が作られた。

大手口枡形跡より大手門跡。往時の様子を想像し難い現況である。

大手門跡から旧三の丸に入り馬出門へ。二の丸堀は水を湛え、そこに架かる”めがね橋”の奥には復元された馬出門。城郭の面影を存分に感じよう。

めがね橋上から馬出門。

めがね橋上から二の丸堀北側。

三の丸から馬屋曲輪への出入口、馬出門。

小田原城絵図(文久図)より、 幕末の馬出門。三の丸から二の丸へ向かう大手筋の正規登城ルートに位置し、石垣と土塀で囲んだ枡形に馬出門と内冠木門を設けていた。

馬出門枡形。左が馬出門(三の丸方)、右が内冠木門(馬屋曲輪方)。

馬屋曲輪側より馬出口内冠木門。

馬屋曲輪の大腰掛跡。登城者の待機所や番所として使われた建物の跡地。

大腰掛跡より馬出口内冠木門と銅門を望む。

馬屋曲輪の切石敷井戸。

馬屋曲輪の馬屋跡。江戸時代初期の稲葉氏が藩主の時代には存在し、元禄16年(1703)に発生した地震により焼失したことがわかっている。

馬屋跡の一角には二の丸観光案内所。

馬屋曲輪より銅門(左手)と馬出口内冠木門(右手)。

馬屋曲輪と御茶壺曲輪を隔てる住吉堀。昭和58年から平成4年にかけての発掘調査に基づき復元された。

馬屋曲輪西隣にある御茶壺曲輪の御茶壺蔵跡。江戸期に宇治から徳川将軍家へ茶が献上されており、ここには運搬(茶壺道中)に使われる茶壺の保管蔵があった。茶壺道中の往路(江戸→宇治)は空の茶壺が東海道を通ってl運ばれ、復路(宇治→江戸)は茶が湿気の影響を受けないよう内陸部を通る中山道が使われた。

御茶壺曲輪の南門前にあった番所跡。

御茶壺曲輪の西側、南曲輪南堀。写真奥に見える石垣の上が南曲輪。

三の丸と御茶壺曲輪を繋いだ小峯橋。元々は木橋だったが、現在は石橋に架け替えられ”御茶壺橋”とも称している。

現地解説板より、明治後期から大正期頃の御用邸西御門と小峯橋。

小峯橋南詰、南曲輪南堀南側にある藤棚。

この藤棚は小田原藩主大久保氏の時代、二の丸御殿に植えられていたものを、明治維新後に小田原町の町民が引き取り育てられたものと伝わる。大正天皇が小田原御用邸の滞在中に、偶然にこの藤棚を見て「見事な花に心なきことよ」と簡単されたことから、”御感の藤”と呼ばれるようになった。

”御感の藤”より南曲輪南堀。

小峯橋南袂の藤棚交差点。かつての三の丸南側にあたり、奥に見える建物がその名も三の丸小学校。

三の丸小学校はかつての藩校集成館跡。

三の丸南側出入口の箱根口門跡。東櫓台の石垣が残存している。

現地解説板より、小田原城絵図(文久図)より、 幕末の箱根口。

箱根口門東櫓台。

箱根口門枡形土塁。

箱根口門枡形内より西側。かつての出入口が小路として残っている。かつては右手に箱根口門の西櫓台、小路の両脇に三の丸堀が設けられていた。

枡形出入口より箱根口。

箱根口付近、小田原スポーツ会館南側に残る三の丸土塁。
箱根口門跡から小峯曲輪へ↓

旧小峯曲輪に鎮座する報徳二宮神社。小峯曲輪は戦国期の北条氏時代に造成された古くからの曲輪で、江戸時代前期には雷曲輪と呼ばれていた。

報徳二宮神社は小田原出身の二宮尊徳(金次郎)を祭神に祀る。

小峯曲輪北堀(左が小峯曲輪)。石垣を用いない土塁と空堀で、戦国期に造成されたもの。往時は現状より2~3m深く、堀底は山中城で見られる畝堀や障子堀の形状だったと考えられている。

旧小峯曲輪南側にある報徳博物館。二宮尊徳の業績や思想に関する資料を展示する。近くには尊徳が若き頃に奉公していた小田原藩家老服部家の屋敷があった。

報徳博物館から海方向の天神山に向かって清閑亭に。ここは福岡藩主黒田長知の長男で、明治期に貴族院議員や貴族院副議長を務めた黒田長成の別邸。

清閑亭裏手に残る三の丸土塁と空堀跡。天神山丘陵の尾根が海側平地に接するところで、この地形を利用して土塁や空堀を巡らしていた。

清閑亭と三の丸土塁。

天神山丘陵の頂上部、天神山碑が路傍に置かれている。左は国際医療福祉大学の小田原キャンパス。天神山は南側中腹に天神社があることに地名の由来があると考えられている。

天神山という地名の由来になったとされる天神社。北条氏康が奉納したとされる菅原道真画像は、元々は三光寺の什宝で、戦国期北条氏時代の作品と推定されている。三光寺は永禄4年(1561年)に天神社の別当寺として秀山が中興したとされ、明治維新の神仏分離後に廃寺となった。

天神社の参道石段。突き当り、左右に通る道が国道1号で、かつての東海道。その道筋は小田原宿の町並みだった。

参道石段登り口にある瓜生外吉海軍大将之像。日露戦争の仁川沖、蔚山沖、日本海の海戦で活躍し、大正元年(1912)海軍大将に昇格する。ここから200m程西の高台に別邸を建て晩年を過ごした。

瓜生外吉の別邸(小田原市南町)に通じていた瓜生坂。

天神山台より小田原城天守閣を望む。

本丸西側を通る東海道本線と箱根登山鉄道。八幡山古曲輪(中世の小田原城)と近世小田原城を分断している。
撮影日:2019年5月1日(水)
戦後に徳川家譜代の大久保忠世が入城して小田原藩が立藩、規模を縮小して近世城郭に改修された。明治3年(1870)廃城以後に二の丸平櫓を残して建築物は解体、跡地は小田原・足柄県庁や神奈川県支庁に利用され、明治34年(1901)になって旧二の丸に御用邸が建てられた。大正12年(1923)関東大震災で御用邸や二の丸平櫓が倒壊、大部分の石垣も崩れて往時の姿を失うことになる。昭和9年(1934)二の丸平櫓が隅櫓として再建、同35年(1960)天守閣を再建、同46年(1971)に常盤木門、平成になって銅門や馬出門が復元された。

小田原城址の北側に位置する小田原駅から散策をはじめよう!

小田原駅付近、栄町2丁目にある北条氏政・氏照の墓所。

秀吉の小田原征伐により北条氏四代当主の氏政とその弟氏照は自刃、両人の遺体は当地にあった伝心庵に埋葬される。後に長らく放置されていたところ、稲葉氏が藩主のとき(1633~85)に北条氏を偲んで整備されたという。それから約250年を経て関東大震災(1923)の被害を受け埋没、翌年に地元有志によって復元された。五輪塔の前にある平たい石は、氏政・氏照がこの上で自刃したと伝わる。

三井住友銀行小田原支店前に”上幸田”の旧町名碑。この辺りは三の丸入口の幸田門北側に位置し、かつては隣の下幸田と共に武家町を形成した。町名の由来は北条氏家臣の幸田氏が居住していたことに由来があるとされる。

三の丸堀跡の東辺。現在は国道255号が通り、その西側(写真右手)が三の丸堀跡。

三の丸堀跡にある小田原郵便局の横から旧三の丸に入れる。

小田原郵便局裏手に残る三の丸堀の石垣と土塁。この辺りは市街化したにもかかわらず現存している。

三の丸北東角の土塁。かつては隅櫓が設けられていた。どんな経緯があったのかわからないが、こんな市街化した場所で土塁や石垣が良好に残っているのは奇跡。こういった遺構を見つけるのも城巡りの醍醐味でもある。

三の丸北東角から幸田口門跡に向かって延びる土塁。

幸田口門跡側から三の丸土塁。かつては右が三の丸で左に水堀があった。

幸田口門跡東側に残る三の丸土塁。

幸田口門跡でくつろぐネコ。

三の丸土塁から幸田口門跡。かつては正面の建物辺りに幸田口門と枡形が設けられていた。

幸田口門跡から三の丸方向。幸田口門は三の丸北側の出入口で、武田信玄や上杉謙信が小田原城を攻めた時、ここから攻め込んだと考えられている。

幸田口門跡から城外方向。

幸田口門跡に設置される解説板。

小田原城絵図(文久図)より、 幕末の幸田口はこんな感じだった。

ネコに別れを告げて次は大手門跡に向かう。

小田原市民会館前歩道橋より大手門跡。かつては道路の向こう正面辺りに枡形・冠木門・大手門を配置、小田原城で最大の門で、城内への正式な登城路の出入口だった。

小田原市民会館前歩道橋より北方向。手前が大手門跡で奥へ延びる道路左手沿道がが三の丸堀跡。

小田原城絵図(文久図)より、 幕末の大手口。南側(絵図左側)の三の丸堀沿いを東海道が通り、東海道から大手口へ至る道には浜手口門が設けられている。

大手口跡。かつて枡形を形成した石垣や土塁、水堀は失われ往時の面影はない。

ここが大手門跡で、奥方向が旧三の丸。現在は門跡の一角に鐘楼が設けられている。

大手門跡の鐘楼。江戸期に小田原町の”時の鐘”は浜手口門にあったが、明治期に移転、更に大正期になって現在地に移された。戦時に鐘が軍需資材として供出され、時報はサイレンやチャイムに代えられたが、昭和28年(1953)小田原寺院団により新しく鐘が作られた。

大手口枡形跡より大手門跡。往時の様子を想像し難い現況である。

大手門跡から旧三の丸に入り馬出門へ。二の丸堀は水を湛え、そこに架かる”めがね橋”の奥には復元された馬出門。城郭の面影を存分に感じよう。

めがね橋上から馬出門。

めがね橋上から二の丸堀北側。

三の丸から馬屋曲輪への出入口、馬出門。

小田原城絵図(文久図)より、 幕末の馬出門。三の丸から二の丸へ向かう大手筋の正規登城ルートに位置し、石垣と土塀で囲んだ枡形に馬出門と内冠木門を設けていた。

馬出門枡形。左が馬出門(三の丸方)、右が内冠木門(馬屋曲輪方)。

馬屋曲輪側より馬出口内冠木門。

馬屋曲輪の大腰掛跡。登城者の待機所や番所として使われた建物の跡地。

大腰掛跡より馬出口内冠木門と銅門を望む。

馬屋曲輪の切石敷井戸。

馬屋曲輪の馬屋跡。江戸時代初期の稲葉氏が藩主の時代には存在し、元禄16年(1703)に発生した地震により焼失したことがわかっている。

馬屋跡の一角には二の丸観光案内所。

馬屋曲輪より銅門(左手)と馬出口内冠木門(右手)。

馬屋曲輪と御茶壺曲輪を隔てる住吉堀。昭和58年から平成4年にかけての発掘調査に基づき復元された。

馬屋曲輪西隣にある御茶壺曲輪の御茶壺蔵跡。江戸期に宇治から徳川将軍家へ茶が献上されており、ここには運搬(茶壺道中)に使われる茶壺の保管蔵があった。茶壺道中の往路(江戸→宇治)は空の茶壺が東海道を通ってl運ばれ、復路(宇治→江戸)は茶が湿気の影響を受けないよう内陸部を通る中山道が使われた。

御茶壺曲輪の南門前にあった番所跡。

御茶壺曲輪の西側、南曲輪南堀。写真奥に見える石垣の上が南曲輪。

三の丸と御茶壺曲輪を繋いだ小峯橋。元々は木橋だったが、現在は石橋に架け替えられ”御茶壺橋”とも称している。

現地解説板より、明治後期から大正期頃の御用邸西御門と小峯橋。

小峯橋南詰、南曲輪南堀南側にある藤棚。

この藤棚は小田原藩主大久保氏の時代、二の丸御殿に植えられていたものを、明治維新後に小田原町の町民が引き取り育てられたものと伝わる。大正天皇が小田原御用邸の滞在中に、偶然にこの藤棚を見て「見事な花に心なきことよ」と簡単されたことから、”御感の藤”と呼ばれるようになった。

”御感の藤”より南曲輪南堀。

小峯橋南袂の藤棚交差点。かつての三の丸南側にあたり、奥に見える建物がその名も三の丸小学校。

三の丸小学校はかつての藩校集成館跡。

三の丸南側出入口の箱根口門跡。東櫓台の石垣が残存している。

現地解説板より、小田原城絵図(文久図)より、 幕末の箱根口。

箱根口門東櫓台。

箱根口門枡形土塁。

箱根口門枡形内より西側。かつての出入口が小路として残っている。かつては右手に箱根口門の西櫓台、小路の両脇に三の丸堀が設けられていた。

枡形出入口より箱根口。

箱根口付近、小田原スポーツ会館南側に残る三の丸土塁。
箱根口門跡から小峯曲輪へ↓

旧小峯曲輪に鎮座する報徳二宮神社。小峯曲輪は戦国期の北条氏時代に造成された古くからの曲輪で、江戸時代前期には雷曲輪と呼ばれていた。

報徳二宮神社は小田原出身の二宮尊徳(金次郎)を祭神に祀る。

小峯曲輪北堀(左が小峯曲輪)。石垣を用いない土塁と空堀で、戦国期に造成されたもの。往時は現状より2~3m深く、堀底は山中城で見られる畝堀や障子堀の形状だったと考えられている。

旧小峯曲輪南側にある報徳博物館。二宮尊徳の業績や思想に関する資料を展示する。近くには尊徳が若き頃に奉公していた小田原藩家老服部家の屋敷があった。

報徳博物館から海方向の天神山に向かって清閑亭に。ここは福岡藩主黒田長知の長男で、明治期に貴族院議員や貴族院副議長を務めた黒田長成の別邸。

清閑亭裏手に残る三の丸土塁と空堀跡。天神山丘陵の尾根が海側平地に接するところで、この地形を利用して土塁や空堀を巡らしていた。

清閑亭と三の丸土塁。

天神山丘陵の頂上部、天神山碑が路傍に置かれている。左は国際医療福祉大学の小田原キャンパス。天神山は南側中腹に天神社があることに地名の由来があると考えられている。

天神山という地名の由来になったとされる天神社。北条氏康が奉納したとされる菅原道真画像は、元々は三光寺の什宝で、戦国期北条氏時代の作品と推定されている。三光寺は永禄4年(1561年)に天神社の別当寺として秀山が中興したとされ、明治維新の神仏分離後に廃寺となった。

天神社の参道石段。突き当り、左右に通る道が国道1号で、かつての東海道。その道筋は小田原宿の町並みだった。

参道石段登り口にある瓜生外吉海軍大将之像。日露戦争の仁川沖、蔚山沖、日本海の海戦で活躍し、大正元年(1912)海軍大将に昇格する。ここから200m程西の高台に別邸を建て晩年を過ごした。

瓜生外吉の別邸(小田原市南町)に通じていた瓜生坂。

天神山台より小田原城天守閣を望む。

本丸西側を通る東海道本線と箱根登山鉄道。八幡山古曲輪(中世の小田原城)と近世小田原城を分断している。
撮影日:2019年5月1日(水)

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