佐久駅(宗谷本線) ~駅舎は佐久ふるさと伝承館~
宗谷本線の起点旭川駅から北へ約154km、中川郡中川町の中央部に佐久駅がある。東西を山々に挟まれるわずかな平地に南北を縦断して天塩川が流れ、その右岸沿いに佐久駅を中心として佐久市街が形成される。市街から天塩川対岸に佐久橋を架けて安川地区と国道40号を繋ぎ、かつて安川地区には佐久中学校(1999年廃校)と佐久小学校(2006年廃校)があった。駅前には農業倉庫や旧佐久郵便局をはじめ藤田旅館、桐畑呉服店などの建物が残り、木材搬出で賑わった往時の町並みを僅かに残す。
長野県に同地名の佐久市があり何らかの関係があるのかと思ったが、特に歴史的に関係は無かったようで、地名の起源は市街北外れを流れるサツコタン川にあるという。アイヌ語の「サッ・コタン・ナイ(sak-kotan-nay、夏・部落・川)が地名の由来とされ、夏を意味する「サッ(sak)」が”さく”に転訛したものらしい。サツコタン川はアイヌ人が魚を多く獲ることができる夏場だけ川岸に部落を作り生活する場だったと伝わる。
佐久駅は大正11年(1922)鉄道省天塩線音威子府駅~誉平駅(後の天塩中川駅)間の開通に伴い一般駅として開業。昭和40年代初期には年間7万人以上もの乗車客があったが、過疎化から利用者減少が急激に進み同57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)2月に荷物取扱いが廃止され11月には旅客業務を行う駅員配置も取り止めになり無人化。平成2年(1990)現駅舎の「佐久ふるさと伝承館」完成、同12年(2000)ダイヤ改正で急行宗谷の停車が終了し、今は1日に下り(幌延・稚内方面)3本と上り(音威子府・名寄方面)3本の普通列車が発着するのみ。JR北海道の調査で乗車人員1日平均3名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされて廃止の危機にあったが、2021年4月より自治体管理に移行され当面は存続するもよう。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C5A-5を基に作成
昭和52年(1977)撮影、佐久駅周辺の空中写真。青緑屋根の木造駅舎、駅裏手に貨物ストックヤードが見える。駅前通りは天塩川に架かる瀬尾橋を経て国道40号につながる。瀬尾橋南側に架かるのが佐久橋で旧橋もまだ残存。

昭和60年(1985)頃に撮影した木造駅舎時代の佐久駅。

平成2年(1990)に完成した現在の佐久駅。

「佐久ふるさと伝承館」を併設する近代的な駅舎に変化を遂げた。

しかし利用者減少から駅としての機能が失われる日はそう遠くないのかもしれない。

稚内方面乗車口。

駅名標の行き先表記に”てしおなかがわ”が上貼りされているのは、平成2年(1990)に隣駅だった琴平駅が廃止されたため。

稚内方面乗車口付近より駅構内。ホームは2面2線。

駅舎側1番線ホームと2番線ホームを繋ぐ構内踏切。

構内踏切より音威子府・名寄方面。

2番線ホームより駅舎。

2番線ホームの外側(東側)には今は使用していないと思われる側線が残る。かつて写真左手には貨物ストックヤードが広がっていた。

2番線ホームより音威子府・名寄方面。

2番線ホーム外側の線路。錆びてはいるがまだ使えそう。

ホーム側より駅舎の中へ。

ソーシャルディスタンスとは無縁な誰もいない駅舎内。現役を引退した赤ポストに目が留まったが、その上の壁面には木材搬出で賑わった過去を偲ぶかのように木材運搬する馬ぞりの様子を描く。

駅舎内ホーム側。

駅舎内に展示する昔の農耕器具。

佐久で発見されたアンモナイト。

駅舎内には昔使われていた生活用具が多く展示され、駅と郷土資料館のコラボはとても興味深い施設となっているのだが…。

上り下りとも1日に3本の列車が発着で、鉄道を使ってここを訪れるにはハードルが高い。

きっぷ運賃表。

水彩画に描かれた前駅舎の正面。

こちらは構内側。

近い将来に廃止されるかもしれないが、伝承館としてここは残るだろう。

駅より駅前通り。

佐久駅前には農業倉庫や赤屋根黒壁の旧佐久郵便局が残り往時を偲ばせる。

駅前通りより佐久駅。

駅前通りと道道218号・541号の交差点。駅前通りを直進すると天塩川の土手に突き当たるが、一昔前まで瀬尾橋が架けられ国道40号と繋いでいた。

旧佐久郵便局と佐久駅。

駅前の道道沿いにある藤田旅館。

玄関に老舗感が漂う。今も宿泊できるのかなあ。

藤田旅館と旧佐久郵便局。町並みに往時の賑わいを留めている。

藤田旅館向かいにあるレンガ造りの農業倉庫。

佐久市街の道道218号沿いには桐畑呉服店の屋号を掲げる建物も。

昨年(2021)11月撮影、佐久駅を通過する特急サロベツ1号(稚内行)。かつては急行宗谷の停車駅だった佐久駅、駅舎は新しく佐久ふるさと伝承館に生まれ変わったが、今や1日に数本の普通列車が発着するのみ。駅としての存在意義を失いつつあり、少しでも長く存続してほしいと願うばかりだ。
訪問日:2022年5月3日(火)
長野県に同地名の佐久市があり何らかの関係があるのかと思ったが、特に歴史的に関係は無かったようで、地名の起源は市街北外れを流れるサツコタン川にあるという。アイヌ語の「サッ・コタン・ナイ(sak-kotan-nay、夏・部落・川)が地名の由来とされ、夏を意味する「サッ(sak)」が”さく”に転訛したものらしい。サツコタン川はアイヌ人が魚を多く獲ることができる夏場だけ川岸に部落を作り生活する場だったと伝わる。
佐久駅は大正11年(1922)鉄道省天塩線音威子府駅~誉平駅(後の天塩中川駅)間の開通に伴い一般駅として開業。昭和40年代初期には年間7万人以上もの乗車客があったが、過疎化から利用者減少が急激に進み同57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)2月に荷物取扱いが廃止され11月には旅客業務を行う駅員配置も取り止めになり無人化。平成2年(1990)現駅舎の「佐久ふるさと伝承館」完成、同12年(2000)ダイヤ改正で急行宗谷の停車が終了し、今は1日に下り(幌延・稚内方面)3本と上り(音威子府・名寄方面)3本の普通列車が発着するのみ。JR北海道の調査で乗車人員1日平均3名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされて廃止の危機にあったが、2021年4月より自治体管理に移行され当面は存続するもよう。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C5A-5を基に作成
昭和52年(1977)撮影、佐久駅周辺の空中写真。青緑屋根の木造駅舎、駅裏手に貨物ストックヤードが見える。駅前通りは天塩川に架かる瀬尾橋を経て国道40号につながる。瀬尾橋南側に架かるのが佐久橋で旧橋もまだ残存。

昭和60年(1985)頃に撮影した木造駅舎時代の佐久駅。

平成2年(1990)に完成した現在の佐久駅。

「佐久ふるさと伝承館」を併設する近代的な駅舎に変化を遂げた。

しかし利用者減少から駅としての機能が失われる日はそう遠くないのかもしれない。

稚内方面乗車口。

駅名標の行き先表記に”てしおなかがわ”が上貼りされているのは、平成2年(1990)に隣駅だった琴平駅が廃止されたため。

稚内方面乗車口付近より駅構内。ホームは2面2線。

駅舎側1番線ホームと2番線ホームを繋ぐ構内踏切。

構内踏切より音威子府・名寄方面。

2番線ホームより駅舎。

2番線ホームの外側(東側)には今は使用していないと思われる側線が残る。かつて写真左手には貨物ストックヤードが広がっていた。

2番線ホームより音威子府・名寄方面。

2番線ホーム外側の線路。錆びてはいるがまだ使えそう。

ホーム側より駅舎の中へ。

ソーシャルディスタンスとは無縁な誰もいない駅舎内。現役を引退した赤ポストに目が留まったが、その上の壁面には木材搬出で賑わった過去を偲ぶかのように木材運搬する馬ぞりの様子を描く。

駅舎内ホーム側。

駅舎内に展示する昔の農耕器具。

佐久で発見されたアンモナイト。

駅舎内には昔使われていた生活用具が多く展示され、駅と郷土資料館のコラボはとても興味深い施設となっているのだが…。

上り下りとも1日に3本の列車が発着で、鉄道を使ってここを訪れるにはハードルが高い。

きっぷ運賃表。

水彩画に描かれた前駅舎の正面。

こちらは構内側。

近い将来に廃止されるかもしれないが、伝承館としてここは残るだろう。

駅より駅前通り。

佐久駅前には農業倉庫や赤屋根黒壁の旧佐久郵便局が残り往時を偲ばせる。

駅前通りより佐久駅。

駅前通りと道道218号・541号の交差点。駅前通りを直進すると天塩川の土手に突き当たるが、一昔前まで瀬尾橋が架けられ国道40号と繋いでいた。

旧佐久郵便局と佐久駅。

駅前の道道沿いにある藤田旅館。

玄関に老舗感が漂う。今も宿泊できるのかなあ。

藤田旅館と旧佐久郵便局。町並みに往時の賑わいを留めている。

藤田旅館向かいにあるレンガ造りの農業倉庫。

佐久市街の道道218号沿いには桐畑呉服店の屋号を掲げる建物も。

昨年(2021)11月撮影、佐久駅を通過する特急サロベツ1号(稚内行)。かつては急行宗谷の停車駅だった佐久駅、駅舎は新しく佐久ふるさと伝承館に生まれ変わったが、今や1日に数本の普通列車が発着するのみ。駅としての存在意義を失いつつあり、少しでも長く存続してほしいと願うばかりだ。
訪問日:2022年5月3日(火)

- 関連記事
-
- 筬島駅(宗谷本線) ~砂澤ビッキ記念館への最寄り駅~
- 神路駅跡(宗谷本線) ~伝説の秘境駅と、北海道命名の伝説と~
- 佐久駅(宗谷本線) ~駅舎は佐久ふるさと伝承館~
- 士別駅(宗谷本線) ~木材集散地として賑わったのも今は昔~
- 剣淵駅(宗谷本線) ~絵本の里の無人駅~
スポンサーサイト