神路駅跡(宗谷本線) ~伝説の秘境駅と、北海道命名の伝説と~
宗谷本線の佐久駅から音威子府・名寄方面に向かう列車は、天塩山地を分断するかの如く渓谷を流れる天塩川の右岸を通って筬島駅に至る。18kmもの距離があるこの区間の天塩川右岸はまともな道すらない無人地帯となっているが、かつては途中に神路駅という有人の一般駅があり、周辺に農家や鉄道職員が住み小学校もあって小さな集落を形成していた。
天塩川右岸の神路地区について角川地名辞典より引用して紹介。
『地名はアイヌ語のカモイルウサンから転訛したもので、「神の天下る道」を意味する(中川町史)。大正11年国鉄天塩線が開通したとき駅名を神路と名付けた。 〔中略〕 天塩川の右岸は植民地で現在北海道大学演習林となっているが、林業労務者の確保と山火事予防の整備を目的として、大正8年(1919)から貸付けが始まり、大正末期には7戸が入植。この間大正11年(1922)国鉄天塩線が開通したことによって神路駅ができ官舎も建って、ホロモイ地区の住民が全戸駅周辺に転居した。』
なお文中にあるホロモイとは国道40号が通る天塩川左岸一帯を指す旧通称地名。昭和29年(1954)無人地区になっていたホロモイに開拓者5戸が入植、同38年(1963)5月神路大橋が開通し神路と国道40号が通るホロモイは陸路で繋がったが、開通から7ヶ月後の12月に突風により落橋した。住民の失望は大きく同40年(1965)に離農撤退を決め神路小学校が廃校、同42年(1967)最後の農家が撤退し後に鉄道官舎も消滅、駅だけが残る無人地区となった。
その後の神路駅は旅客駅としての使命を終え昭和49年(1974)貨物取扱い廃止、同52年(1977)信号場となり鉄道職員を運送する関係から仮乗降場として旅客扱いを継続しつつも、事実上列車交換の役割を担うだけとなった。昭和60年(1985)その使命すらも終えて廃止。現在神路の集落跡へアクセスする道も無ければ渡船も無く、駅が無くなったことで完全に陸の孤島と化している。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-R327-86を基に作成
昭和23年(1948)撮影、神路駅周辺の空中写真。天塩川右岸の平坦地は大部分が農地で、駅西側の南北に道を通し小さな集落を形成していたことがわかる。左岸に国道はまだ通されていない。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO779-C5B-2を基に作成
昭和52年(1977)撮影、神路駅周辺の空中写真。住民の離農撤退から10年以上が経ち、駅舎と信号場関係の建物が残るだけで集落や農地は消え失せている。

1977年の神路駅(北海道)|NHKアーカイブス
信号場時代の貴重な映像が見られます。

天塩川左岸の国道40号より神路大橋跡を望む。対岸に橋脚が残されている。昭和38年(1963)に落橋して以来、再びここに橋が架けられることは無かった。
GooGleマップの航空写真から神路大橋跡。橋脚が崩落した状態で残っていることが確認できる。

神路地区、天塩川上流方面。

対岸は神路の集落があった場所だが、今は訪れることが困難な無人地帯。宗谷本線を使って車窓から眺めるしかない。

神路地区、天塩川下流方面。

神路地区から天塩川上流の筬島方面へ約6Km、左岸にある北海道命名之地碑。

安政4年(1857)蝦夷地に渡った松浦武四郎はアイヌ人の人たちと共に天塩川を探査し「天塩日誌」を書き残す。その途次にオニサッペ(筬島の鬼刺川付近)でアイヌのアエトモ長老から聞いた話をヒントに”北加伊道”(ほくかいどう)を発想。明治期になって道名に関する意見書を提出し、幾つかあった候補から”北加伊道”が採用され、”加伊”の字に”海”をあて”北海道”という名が生まれた。

北海道命名之地とされるこの場所は探査5日目に宿泊したと推定されている”トンベツホ”(音威子府村頓別坊)。解説板では「天塩日誌」より6月11日(調査5日目)の日記を意訳して紹介する。

天塩日誌マップ:宿営地推定箇所

カムイルウサン。神路の地名由来となった渓谷。

北海道命名之地碑から天塩川を望む。対岸に宗谷本線が通されている。

天塩川下流方面。安政4年(1857)6月6日天塩川河口の”テシホ”に着いた松浦武四郎は、翌日からアイヌ人男性4名を案内役にして2艘の丸木舟を使って天塩川の探査を開始。ここに到達したのは調査5日目の6月11日だった。

天塩川上流方面。”トンベツホ”に宿泊した武四郎は次の”オクルマトマナイ”(美深町恩根内)に向けて川を遡る。

川べりには黒く大きな二枚貝の貝殻がたくさん。なんでだろう…。

水辺にも。

中にはまだ身が入っているものも。おそらく”カワシンジュガイ”。

そして白骨化したエゾシカ。ヒグマの仕業なのか…、いったいこの場所で何が起きたのだろう。
訪問日:2022年5月3日(火)
天塩川右岸の神路地区について角川地名辞典より引用して紹介。
『地名はアイヌ語のカモイルウサンから転訛したもので、「神の天下る道」を意味する(中川町史)。大正11年国鉄天塩線が開通したとき駅名を神路と名付けた。 〔中略〕 天塩川の右岸は植民地で現在北海道大学演習林となっているが、林業労務者の確保と山火事予防の整備を目的として、大正8年(1919)から貸付けが始まり、大正末期には7戸が入植。この間大正11年(1922)国鉄天塩線が開通したことによって神路駅ができ官舎も建って、ホロモイ地区の住民が全戸駅周辺に転居した。』
なお文中にあるホロモイとは国道40号が通る天塩川左岸一帯を指す旧通称地名。昭和29年(1954)無人地区になっていたホロモイに開拓者5戸が入植、同38年(1963)5月神路大橋が開通し神路と国道40号が通るホロモイは陸路で繋がったが、開通から7ヶ月後の12月に突風により落橋した。住民の失望は大きく同40年(1965)に離農撤退を決め神路小学校が廃校、同42年(1967)最後の農家が撤退し後に鉄道官舎も消滅、駅だけが残る無人地区となった。
その後の神路駅は旅客駅としての使命を終え昭和49年(1974)貨物取扱い廃止、同52年(1977)信号場となり鉄道職員を運送する関係から仮乗降場として旅客扱いを継続しつつも、事実上列車交換の役割を担うだけとなった。昭和60年(1985)その使命すらも終えて廃止。現在神路の集落跡へアクセスする道も無ければ渡船も無く、駅が無くなったことで完全に陸の孤島と化している。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-R327-86を基に作成
昭和23年(1948)撮影、神路駅周辺の空中写真。天塩川右岸の平坦地は大部分が農地で、駅西側の南北に道を通し小さな集落を形成していたことがわかる。左岸に国道はまだ通されていない。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO779-C5B-2を基に作成
昭和52年(1977)撮影、神路駅周辺の空中写真。住民の離農撤退から10年以上が経ち、駅舎と信号場関係の建物が残るだけで集落や農地は消え失せている。

1977年の神路駅(北海道)|NHKアーカイブス
信号場時代の貴重な映像が見られます。

天塩川左岸の国道40号より神路大橋跡を望む。対岸に橋脚が残されている。昭和38年(1963)に落橋して以来、再びここに橋が架けられることは無かった。
GooGleマップの航空写真から神路大橋跡。橋脚が崩落した状態で残っていることが確認できる。

神路地区、天塩川上流方面。

対岸は神路の集落があった場所だが、今は訪れることが困難な無人地帯。宗谷本線を使って車窓から眺めるしかない。

神路地区、天塩川下流方面。

神路地区から天塩川上流の筬島方面へ約6Km、左岸にある北海道命名之地碑。

安政4年(1857)蝦夷地に渡った松浦武四郎はアイヌ人の人たちと共に天塩川を探査し「天塩日誌」を書き残す。その途次にオニサッペ(筬島の鬼刺川付近)でアイヌのアエトモ長老から聞いた話をヒントに”北加伊道”(ほくかいどう)を発想。明治期になって道名に関する意見書を提出し、幾つかあった候補から”北加伊道”が採用され、”加伊”の字に”海”をあて”北海道”という名が生まれた。

北海道命名之地とされるこの場所は探査5日目に宿泊したと推定されている”トンベツホ”(音威子府村頓別坊)。解説板では「天塩日誌」より6月11日(調査5日目)の日記を意訳して紹介する。

天塩日誌マップ:宿営地推定箇所

カムイルウサン。神路の地名由来となった渓谷。

北海道命名之地碑から天塩川を望む。対岸に宗谷本線が通されている。

天塩川下流方面。安政4年(1857)6月6日天塩川河口の”テシホ”に着いた松浦武四郎は、翌日からアイヌ人男性4名を案内役にして2艘の丸木舟を使って天塩川の探査を開始。ここに到達したのは調査5日目の6月11日だった。

天塩川上流方面。”トンベツホ”に宿泊した武四郎は次の”オクルマトマナイ”(美深町恩根内)に向けて川を遡る。

川べりには黒く大きな二枚貝の貝殻がたくさん。なんでだろう…。

水辺にも。

中にはまだ身が入っているものも。おそらく”カワシンジュガイ”。

そして白骨化したエゾシカ。ヒグマの仕業なのか…、いったいこの場所で何が起きたのだろう。
訪問日:2022年5月3日(火)

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