上音威子府駅跡(天北線) ~今はホームだけを残す無人地帯~
かつて天北線の起点だった音威子府駅から5.4km、天北線の一駅目として上音威子府駅が存在していた。大正3年(1914)鉄道院宗谷線(後の天北線)音威子府駅~小頓別駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業、当初は千鳥式に配置された相対式ホーム2面2線を持ち、駅裏手には搬出木材を野積みするストックヤードを設けていた。
上音威子府の成り立ちについて角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『地名は音威子府川の上流にあることにちなむ。かつては全域が東北帝国大学農科大学(現 北海道大学)付属演習林。大正3年上音威子府駅駅開業に伴い、東北帝国大学農科大学付属天塩第1演習林派出所を咲来(さっくる)から移転。大正2年から林内植民制度を実施し、農耕地1戸に付5町歩を標準として林内に入地させ、営農させる一方林業労務者を確保した。大正2年1戸、同3年3戸、同4年1戸、同5年7戸と漸次入植者が増加。大正末期には演習林の小作人は40戸に達し、農用地は200町歩を超えた。 〔中略〕 大正6年上音威子府特別教育所開設、児童数37。同11年上音威子府尋常小学校となり、児童数68、昭和27年校舎新築、児童数74。同27年北海道大学演習林派出所庁舎改築。』
昭和10年(1935)に世帯68・人口445を数えたが、同39年(1964)前後から離農者が多くなり、昭和48年(1973)上音威子府駅の貨物・荷物取扱いと共に交換設備も廃止、旅客扱いする駅員も無配置となり無人駅に。同49年(1974)北海道大学演習林派出所庁舎を音威子府市街地へ移転したことで更に過疎化が進行し、同50年(1975)上音威子府小学校が閉校。同62年(1987)には駅の利用客がほぼいなくなったのだろう、冬場は停車しない臨時駅になった。駅開業から75年の時が流れた平成元年(1989)、天北線の廃線に伴い上音威子府駅廃止。現在は駅跡の周辺一帯が無人地帯と化している。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-M545 1-52を基に作成
昭和22年(1947)撮影、上音威子府駅周辺の空中写真。駅付近の国道沿いに建物が並んでいたことがわかり、駅から少し離れた南側に上音威子府小学校の校舎と校庭がみえる。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO779-C4-19を基に作成
昭和52年(1977)撮影、上音威子府駅周辺の空中写真。駅正面の国道沿いに1軒だけ農家と思われる建物を残す。上音威子府小学校はこの空中写真が撮影された2年前に廃校しており、既に校舎が撤去されている。校舎跡付近に新道となる現在の国道275号が通されている。

天北線資料館の展示写真より、上音威子府駅。

ホームを残す上音威子府駅跡。かつてはホーム横に駅舎があった。

国道275号に向かって延びる駅前通り。

駅跡より浜頓別・南稚内方面。何やら建造物が。

音威子府高感度地震観測施設との表記があった。

かつては写真右手前に駅舎があったはず。

廃止から30年以上の月日が流れ。

朽ちつつあるホーム上には駅名標。

近年に復元されたものだろう。

ホームより浜頓別・南稚内方面。

かつて音威子府駅へ延びていた線路は自然に還った。

木材搬出で賑わったのも今は昔。

ホームより駅舎跡。

駅前の国道沿い(写真正面)に農家があったはずだが、建物は何も見当たらない。

農家跡の近くに行ってみると、倒壊した建物の残骸を確認。

旧駅前通りより上音威子府駅跡。

上音威子府駅跡から浜頓別方面へ約850m、国道の三日月橋に並んで残る旧天北線の嘉平川橋梁。

嘉平川橋梁の下を流れる天北川。

嘉平川橋梁の塗装歴標。

嘉平川橋梁の手前に倒れた河川名標識。おそらく天北川のものだろう。
訪問日:2022年5月3日(火)
上音威子府の成り立ちについて角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『地名は音威子府川の上流にあることにちなむ。かつては全域が東北帝国大学農科大学(現 北海道大学)付属演習林。大正3年上音威子府駅駅開業に伴い、東北帝国大学農科大学付属天塩第1演習林派出所を咲来(さっくる)から移転。大正2年から林内植民制度を実施し、農耕地1戸に付5町歩を標準として林内に入地させ、営農させる一方林業労務者を確保した。大正2年1戸、同3年3戸、同4年1戸、同5年7戸と漸次入植者が増加。大正末期には演習林の小作人は40戸に達し、農用地は200町歩を超えた。 〔中略〕 大正6年上音威子府特別教育所開設、児童数37。同11年上音威子府尋常小学校となり、児童数68、昭和27年校舎新築、児童数74。同27年北海道大学演習林派出所庁舎改築。』
昭和10年(1935)に世帯68・人口445を数えたが、同39年(1964)前後から離農者が多くなり、昭和48年(1973)上音威子府駅の貨物・荷物取扱いと共に交換設備も廃止、旅客扱いする駅員も無配置となり無人駅に。同49年(1974)北海道大学演習林派出所庁舎を音威子府市街地へ移転したことで更に過疎化が進行し、同50年(1975)上音威子府小学校が閉校。同62年(1987)には駅の利用客がほぼいなくなったのだろう、冬場は停車しない臨時駅になった。駅開業から75年の時が流れた平成元年(1989)、天北線の廃線に伴い上音威子府駅廃止。現在は駅跡の周辺一帯が無人地帯と化している。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-M545 1-52を基に作成
昭和22年(1947)撮影、上音威子府駅周辺の空中写真。駅付近の国道沿いに建物が並んでいたことがわかり、駅から少し離れた南側に上音威子府小学校の校舎と校庭がみえる。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO779-C4-19を基に作成
昭和52年(1977)撮影、上音威子府駅周辺の空中写真。駅正面の国道沿いに1軒だけ農家と思われる建物を残す。上音威子府小学校はこの空中写真が撮影された2年前に廃校しており、既に校舎が撤去されている。校舎跡付近に新道となる現在の国道275号が通されている。

天北線資料館の展示写真より、上音威子府駅。

ホームを残す上音威子府駅跡。かつてはホーム横に駅舎があった。

国道275号に向かって延びる駅前通り。

駅跡より浜頓別・南稚内方面。何やら建造物が。

音威子府高感度地震観測施設との表記があった。

かつては写真右手前に駅舎があったはず。

廃止から30年以上の月日が流れ。

朽ちつつあるホーム上には駅名標。

近年に復元されたものだろう。

ホームより浜頓別・南稚内方面。

かつて音威子府駅へ延びていた線路は自然に還った。

木材搬出で賑わったのも今は昔。

ホームより駅舎跡。

駅前の国道沿い(写真正面)に農家があったはずだが、建物は何も見当たらない。

農家跡の近くに行ってみると、倒壊した建物の残骸を確認。

旧駅前通りより上音威子府駅跡。

上音威子府駅跡から浜頓別方面へ約850m、国道の三日月橋に並んで残る旧天北線の嘉平川橋梁。

嘉平川橋梁の下を流れる天北川。

嘉平川橋梁の塗装歴標。

嘉平川橋梁の手前に倒れた河川名標識。おそらく天北川のものだろう。
訪問日:2022年5月3日(火)

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