望月宿

路傍の馬頭観世音や道祖神の石造物群を見ながら、コンクリート路面の長坂を下っていく。道が平坦になると長坂橋で鹿曲川を渡り、再び段丘を上る。旅館島田屋前で旧道は鉤形の道筋を辿り、望月宿へと入っていく。すると「倍駆商処 清水」の屋号が掲げられたバイク店に出くわし、向かいには格子窓の旧家が建つ、いかにも宿場町跡の様相となる。

望月宿は江戸日本橋から25番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口360人、家数82軒、本陣1、脇本陣1、旅籠9軒、信州の小さな宿場町。望月の地は蓼科山北側の緩斜面に位置し、一帯は奈良時代末期頃に牧(馬の牧場)が開かれ、ここで育てられた馬が朝廷に献上された。その所以で御牧ヶ原と呼ばれるようになったわけだが、信濃には全部で16もの牧が置かれ、中でもここ御牧ヶ原は「望月の駒」と呼ばれる名馬・月毛(淡いクリーム色)の駒を産する地であった。

そもそも望月とは満月の別称である。信濃16牧で年間80頭の貢馬を朝廷へ献上していたわけだが、中でも御牧ヶ原で育てられた望月の駒は20頭にものぼり、毎年旧暦8月15日の満月の夜に献上されたという。望月の名はこれが由来であるとの説もある。いずれにせよ、満月にちなんでつけられた地名であることは間違いなさそうだ。

本陣を務めた大森家の一部は望月歴史民族資料館となり、周辺で発掘された縄文時代から室町時代の遺跡や遺物を展示、紹介している。中でも原寸大で復元されている縄文時代の住居跡は、柄の付いた手鏡のような形をしており、望月周辺でのみ見られる珍しい形だという。もちろん望月宿に関する展示も豊富にされており、街道歩きで訪れた際には立ち寄りたい場所だ。

資料館の隣、大森小児科医院の敷地も本陣跡。斜向かいには旅籠と問屋を兼ねた大和屋こと、真山家が出桁造りの貴重な建物を残している。明和2年(1765年)の大火後に再建されたもので、重要文化財に指定されている。宿内には大和屋呉服店や井出野屋旅館、山城屋旅館、呉服・寝具・洋品ますや等の古い建築も残り、そこはかとなく宿場情緒を漂わせている。
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