声問駅跡(天北線) ~声問海水浴場と駅跡は今~
特急宗谷に乗車したいがため8月朔日の月曜日、羽田空港で抗原定量検査を受けてコロナ陰性を確認し12:25発ANA573便稚内行に搭乗、約2時間のフライトを経て稚内空港へ。空港からフェリーターミナル行きのバスに乗車。南稚内駅から乗車するつもりの特急宗谷発車まで3時間あったので、天北線の声問駅跡を見ておこうと途中の声問局前停留所で下車することに。6~7分の乗車時間だったが運賃は一律料金のため700円、これならタクシーで移動してもよかったかなと少々後悔。
声問駅は大正11年(1922)鉄道省宗谷本線(後の天北線)鬼志別駅~稚内駅(現 南稚内駅)間延伸開通に伴い開業、昭和36年(1961)路線名が天北線に改称された。同48年(1973)荷物取扱い廃止、旅客扱いの駅員を配置しない無人駅となり切符販売を簡易委託化。同53年(1978)接続専用線車扱貨物のみ続けられていた貨物取扱いも廃止。平成元年(1989)天北線の廃線に伴い廃止された。
稚内市声問5丁目(旧 稚内市大字声問村字声問)に所在していたが、現在の駅跡地を含む線路跡は国道238号の新道に転用され遺構が何も残っておらず、旧駅前通りがわずかに駅が存在したことを物語っている。かつて駅北側の浜辺には声問海水浴場があり、夏でも寒々しいこんな海で誰が海水浴をするのだろうと思った記憶が残っている。
駅名となっていた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『古くはコイトイともいった。宗谷地方北部、宗谷湾に面した声問川下流域。西側は声問岬が宗谷湾に突き出ており、南には大沼(シユブントウ)があり、声問川沿いに平地が広がる。地名はアイヌ語のコイトゥイエに由来し、波のため河口の砂場が切られた所を意味する(北海道蝦夷語地名解)。』

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C8B-4を基に作成
昭和52年(1977)撮影、声問駅周辺の空中写真。千鳥式に配された相対式ホーム2面2線、駅舎東側横に貨物用引込線、駅裏側に貨物用の副本線を有していた。

1980年代に撮影した声問駅。昭和時代を感じる木造駅舎に車。3ドアのハッチバック、後輪のタイヤハウスが特徴的なこの車、何という車種なんだろう。

国道238号より現在の声問駅跡。写真中央奥に延びる道が旧駅前通りで、その手前の歩道から車道にかけて駅舎が設けられていた。

駅構内跡より浜頓別・音威子府方面。駅をはじめ線路跡は国道に転用され完全に消え失せている。

駅構内跡より南稚内方面。

駅舎跡より旧駅前通り。

旧駅前通りより駅舎跡。1980年代撮影の写真に近いアングル。かつては写真正面に駅舎があったが、想像しにくい現況なのでGoogleマップに駅舎跡を記しておく。

駅に向かって左手にある倉庫。昭和52年(1977)撮影の空中写真にも見える建物。

旧駅前通り沿いに数軒の民家があるが、簡易委託で切符販売をしていた目時商店は見当たらない。

駅跡を起点に延びる旧駅前通りは交差点を経て突き当りで海岸線の旧国道に突き当たる。この交差点で旧駅前通りと交差する道は旧国道以前の国道で、ここでは古国道として表記しておく。

空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-R3134-2を基に作成
昭和24年(1949)撮影、声問駅周辺の空中写真。駅前通りは国道に突き当たり丁字路を形成していた。

旧駅前通りと古国道の交差点より駅跡方向。

交差点角にはガソリンスタンドの廃墟。国道が付け替えられて車の往来が少なくなり廃業したのだろう。

旧国道沿いにある声問停留所。

運行予定時刻表。鬼志別・中頓別・音威子府方面へ1日4本のバスが発着。

声問停留所と声問海岸。

声問海岸にはかつて声問海水浴場を設けていたが、平成10年(1998)に閉鎖されたらしい。例え海水浴場が開設されても真夏に30℃を超えることがほぼない地域だけに、ここで泳ごうという猛者はそういないだろう。もしこの砂j浜にテントを設置するならテントサウナだな。海が水風呂の天然塩サウナになるだろう。

旧国道から声問駅方面に延びる古国道。

声問橋東詰、旧国道沿いに声問橋停留所。

声問橋より声問川上流方向、声問ふれあい橋を望む。かつては声問ふれあい橋が架かっている地点に天北線の声問川橋梁が架けられていた。

声問小学校。ホームページによれば明治25年(1892)開校、現在の生徒数13名。

声問小学校から道道1133号を挟んで向かいにある曹洞宗の大徳寺。

大徳寺の北側には真宗大谷派の大成寺。

大徳寺前を通る道は天北線が現役だった頃の旧道で、ここが天北線と交差していた踏切跡。旧道は国道に分断されるが、国道向こうの声問郵便局横に現れ続いている。

道道1133号旧道より国道方向。サニーマート志和があったのだが廃業しているようだ。

踏切跡より旧道(声問小学校方面)。

踏切跡より天北線跡(南稚内方面)。路盤の名残りが見られる。

道道1133号旧道の踏切跡より天北線を120m程南稚内方面へ行ったところ。国道から神社へ延びる参道。

参道と天北線が交差していた地点。ここに簡易な踏切が設けていたのだろう。

上写真の神社より更に天北線を150m程行くと声問神社がある。写真は天北線跡より参道を望む。

山田采麿翁顕彰碑。山田采麿は明治25年(1892)富山県より当地へ移住し、同31年(1898)声問神社を創設、初代神官に就いて声問の発展に尽力する。昭和23年(1948)逝去、平成4年(1992)この顕彰碑が建立された。

声問神社鳥居。

鳥居より参道石段と社殿。奥に境内社の相馬神社を祀る。

ひっそりと小社殿が佇む相馬神社。

声問神社から国道を挟んで斜向かいに営業中の幟がはためく”食事・喫茶ハビィ”。ここで遅めの昼食とすることに。

”食事・喫茶ハビィ”のメニュー。

メニューを見て真っ先に目に飛び込んできて注文した”カレーラーメン”。

日本人が大好きなカレーとラーメンが合体。当然ながら忖度なく美味しい。しかもライスまで出てきて締めのカレーライスを堪能できるという秀逸な一品。満腹で満足でした。

声問から歩いて天北線跡を辿りながら南稚内駅へ。駅前のツルハドラッグで缶ビールを買って鉄道旅の準備を整え。

17:48発札幌行特急宗谷の改札待ち。

特急宗谷はキハ261系特急気動車の「はまなす」編成。

改札が始まり1番ホームへ。南稚内駅は開駅100周年を迎えていた。

2番ホームに停車するキハ54形気動車。

ピンクの特急宗谷が1番ホームに入線。

旭川まで約3時間40分の鉄道旅。

南稚内を出発し次は豊富。

途中、鹿にぶつかって緊急停車したがほぼ定刻通りに旭川駅着。お疲れさまでしたー。
訪問日:2022年8月1日(月)
声問駅は大正11年(1922)鉄道省宗谷本線(後の天北線)鬼志別駅~稚内駅(現 南稚内駅)間延伸開通に伴い開業、昭和36年(1961)路線名が天北線に改称された。同48年(1973)荷物取扱い廃止、旅客扱いの駅員を配置しない無人駅となり切符販売を簡易委託化。同53年(1978)接続専用線車扱貨物のみ続けられていた貨物取扱いも廃止。平成元年(1989)天北線の廃線に伴い廃止された。
稚内市声問5丁目(旧 稚内市大字声問村字声問)に所在していたが、現在の駅跡地を含む線路跡は国道238号の新道に転用され遺構が何も残っておらず、旧駅前通りがわずかに駅が存在したことを物語っている。かつて駅北側の浜辺には声問海水浴場があり、夏でも寒々しいこんな海で誰が海水浴をするのだろうと思った記憶が残っている。
駅名となっていた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『古くはコイトイともいった。宗谷地方北部、宗谷湾に面した声問川下流域。西側は声問岬が宗谷湾に突き出ており、南には大沼(シユブントウ)があり、声問川沿いに平地が広がる。地名はアイヌ語のコイトゥイエに由来し、波のため河口の砂場が切られた所を意味する(北海道蝦夷語地名解)。』

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C8B-4を基に作成
昭和52年(1977)撮影、声問駅周辺の空中写真。千鳥式に配された相対式ホーム2面2線、駅舎東側横に貨物用引込線、駅裏側に貨物用の副本線を有していた。

1980年代に撮影した声問駅。昭和時代を感じる木造駅舎に車。3ドアのハッチバック、後輪のタイヤハウスが特徴的なこの車、何という車種なんだろう。

国道238号より現在の声問駅跡。写真中央奥に延びる道が旧駅前通りで、その手前の歩道から車道にかけて駅舎が設けられていた。

駅構内跡より浜頓別・音威子府方面。駅をはじめ線路跡は国道に転用され完全に消え失せている。

駅構内跡より南稚内方面。

駅舎跡より旧駅前通り。

旧駅前通りより駅舎跡。1980年代撮影の写真に近いアングル。かつては写真正面に駅舎があったが、想像しにくい現況なのでGoogleマップに駅舎跡を記しておく。

駅に向かって左手にある倉庫。昭和52年(1977)撮影の空中写真にも見える建物。

旧駅前通り沿いに数軒の民家があるが、簡易委託で切符販売をしていた目時商店は見当たらない。

駅跡を起点に延びる旧駅前通りは交差点を経て突き当りで海岸線の旧国道に突き当たる。この交差点で旧駅前通りと交差する道は旧国道以前の国道で、ここでは古国道として表記しておく。

空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-R3134-2を基に作成
昭和24年(1949)撮影、声問駅周辺の空中写真。駅前通りは国道に突き当たり丁字路を形成していた。

旧駅前通りと古国道の交差点より駅跡方向。

交差点角にはガソリンスタンドの廃墟。国道が付け替えられて車の往来が少なくなり廃業したのだろう。

旧国道沿いにある声問停留所。

運行予定時刻表。鬼志別・中頓別・音威子府方面へ1日4本のバスが発着。

声問停留所と声問海岸。

声問海岸にはかつて声問海水浴場を設けていたが、平成10年(1998)に閉鎖されたらしい。例え海水浴場が開設されても真夏に30℃を超えることがほぼない地域だけに、ここで泳ごうという猛者はそういないだろう。もしこの砂j浜にテントを設置するならテントサウナだな。海が水風呂の天然塩サウナになるだろう。

旧国道から声問駅方面に延びる古国道。

声問橋東詰、旧国道沿いに声問橋停留所。

声問橋より声問川上流方向、声問ふれあい橋を望む。かつては声問ふれあい橋が架かっている地点に天北線の声問川橋梁が架けられていた。

声問小学校。ホームページによれば明治25年(1892)開校、現在の生徒数13名。

声問小学校から道道1133号を挟んで向かいにある曹洞宗の大徳寺。

大徳寺の北側には真宗大谷派の大成寺。

大徳寺前を通る道は天北線が現役だった頃の旧道で、ここが天北線と交差していた踏切跡。旧道は国道に分断されるが、国道向こうの声問郵便局横に現れ続いている。

道道1133号旧道より国道方向。サニーマート志和があったのだが廃業しているようだ。

踏切跡より旧道(声問小学校方面)。

踏切跡より天北線跡(南稚内方面)。路盤の名残りが見られる。

道道1133号旧道の踏切跡より天北線を120m程南稚内方面へ行ったところ。国道から神社へ延びる参道。

参道と天北線が交差していた地点。ここに簡易な踏切が設けていたのだろう。

上写真の神社より更に天北線を150m程行くと声問神社がある。写真は天北線跡より参道を望む。

山田采麿翁顕彰碑。山田采麿は明治25年(1892)富山県より当地へ移住し、同31年(1898)声問神社を創設、初代神官に就いて声問の発展に尽力する。昭和23年(1948)逝去、平成4年(1992)この顕彰碑が建立された。

声問神社鳥居。

鳥居より参道石段と社殿。奥に境内社の相馬神社を祀る。

ひっそりと小社殿が佇む相馬神社。

声問神社から国道を挟んで斜向かいに営業中の幟がはためく”食事・喫茶ハビィ”。ここで遅めの昼食とすることに。

”食事・喫茶ハビィ”のメニュー。

メニューを見て真っ先に目に飛び込んできて注文した”カレーラーメン”。

日本人が大好きなカレーとラーメンが合体。当然ながら忖度なく美味しい。しかもライスまで出てきて締めのカレーライスを堪能できるという秀逸な一品。満腹で満足でした。

声問から歩いて天北線跡を辿りながら南稚内駅へ。駅前のツルハドラッグで缶ビールを買って鉄道旅の準備を整え。

17:48発札幌行特急宗谷の改札待ち。

特急宗谷はキハ261系特急気動車の「はまなす」編成。

改札が始まり1番ホームへ。南稚内駅は開駅100周年を迎えていた。

2番ホームに停車するキハ54形気動車。

ピンクの特急宗谷が1番ホームに入線。

旭川まで約3時間40分の鉄道旅。

南稚内を出発し次は豊富。

途中、鹿にぶつかって緊急停車したがほぼ定刻通りに旭川駅着。お疲れさまでしたー。
訪問日:2022年8月1日(月)

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