風連駅(宗谷本線) ~樺太犬、風連のクマの出生地~
平成18年(2006)まで地方自治体として存在していた風連町。現在は名寄市と合併し自治体としての風連町は消滅したが、地名や駅名にその名をしっかり残している。その風連市街の中心に風連駅があり、風連の玄関口として長きに渡りその役割を果たしてきた。風連は稲作が盛んでもち米の産地として知られるが、私としては風連と言えば”風連のクマ”。クマと言ってもヒグマのことではない、風連生まれの犬に名付けられた名前である。
”風連のクマ”は私が小学生の時に映画館で見た南極物語(1983年公開)に登場し、初めてその名を知った樺太犬。昭和31年(1957)南極観測隊第1次越冬隊に同行し、南極で使役された後に悪天候による様々なトラブルから昭和基地に鎖で繋がれたまま置き去りにされた19頭のうちの1頭。1年後に派遣された第3次越冬隊が奇跡的に生存していたタロとジロの2頭に再会するという感動の実話を基に映画”南極物語”は制作された。そのタロとジロの父親が”風連のクマ”で、鎖を外して脱出はできたようだが、その行方は知れずで死体も見つからなかったらしい。
風連駅は名寄市風連町本町に所在、明治36年(1903)北海道官設鉄道天塩線(現 宗谷本線)士別駅~名寄駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)荷物取扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され切符販売を簡易委託化、同61年(1986)閉塞が自動化されて運転要員もいなくなり完全に無人化する。平成元年(1989)駅舎改築、同15年(2003)駅前の商店に簡易委託していた切符販売を廃止した。
駅名に付けれた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『上川地方北部、天塩川上流流域。アイヌ語のフーレベツ(赤い川の意)に由来する(アイヌ語地名辞解)。』
ちなみに風連駅が所在する地は駅開業当時の明治後期に多寄村に所属し、風連市街に多寄村役場が移転したことから駅名を”下多寄”へ改称する動きもあったようだが、昭和13年(1938)多寄村と風連村に分かれたことで風連駅の名は残り今に至っている。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C16A-20を基に作成
昭和52年(1977)撮影、風連駅周辺の空中写真。緑屋根の駅舎と構内跨線橋が見え、千鳥式に配された2面のホームは今と変わらない。島式ホームの右側に貨物車両が待避しているようようだ。

1980年代前半に撮影、有人駅時代の風連駅。改札する駅員が見える。

1985年頃に撮影した風連駅。柱にしがみついている人物は中学生の私。駅舎の佇まいや自動販売機に昭和を感じる。

そして2022年8月の風連駅。

平成元年(1989)あの木造駅舎を撤去して現駅舎に建て替えられた。駅舎横に”さわやかトイレ”を設ける。

駅舎内に入ればカラフルな4連ベンチが目に留まる。

駅前側出入口。

駅前側出入口を入って左側に掃除用具入と保線要員の控室らしき扉あり。

ホーム側出入口。

駅舎内が仕切られているのは何ゆえなのか…。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「風連駅」によれば、「1989年(平成元年):駅舎改築。風連町により開基90周年記念事業の一環で駅舎に展示室を合築し、水洗トイレを隣に新設」と書かれており、向こうは展示室を目的にしたスペースらしい。

発車時刻表。1日に名寄・稚内方面12本、旭川・札幌方面12本の快速と普通列車が発着。名寄・稚内方面12本のうち11本が名寄行で、7:29発の普通だけが稚内行。

きっぷ運賃表。名寄・稚内方面の運賃は名寄までしか記載が無く、ここから名寄の先へ行く旅客はほとんどいないのだろう。

東風連駅を移設して名寄高校駅を設置する案内。

展示室だったはずのスペースには新橋色のベンチが置かれ待合室として利用されている。

結構広々とした展示室に特に展示は無いかな。

駅構内は2面2線のホームと構内跨線橋を有し、駅舎と構内跨線橋の間に歩行者横断用の跨線橋が設けられている。

真新しい1番ホームの駅名標。今年(2022年)3月に行き先表記が”ひがしふうれん”から”なよろこうこう”に変わった。

1番ホーム駅名標より名寄・稚内方面。

だいぶ年季が入った構内跨線橋。

構内跨線橋内部。

構内跨線橋より2番ホーム(名寄・稚内方面)。

雑草に浸食されつつある2番ホーム(旭川方面)。

風連駅前。国道40号に向かって駅前通りが延びる。左手にある特徴的な建物、現在は民家のようだが佇まいから想像するに昔は駅前旅館だったのではないだろうか。
訪問日:2022年8月2日(火)
”風連のクマ”は私が小学生の時に映画館で見た南極物語(1983年公開)に登場し、初めてその名を知った樺太犬。昭和31年(1957)南極観測隊第1次越冬隊に同行し、南極で使役された後に悪天候による様々なトラブルから昭和基地に鎖で繋がれたまま置き去りにされた19頭のうちの1頭。1年後に派遣された第3次越冬隊が奇跡的に生存していたタロとジロの2頭に再会するという感動の実話を基に映画”南極物語”は制作された。そのタロとジロの父親が”風連のクマ”で、鎖を外して脱出はできたようだが、その行方は知れずで死体も見つからなかったらしい。
風連駅は名寄市風連町本町に所在、明治36年(1903)北海道官設鉄道天塩線(現 宗谷本線)士別駅~名寄駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)荷物取扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され切符販売を簡易委託化、同61年(1986)閉塞が自動化されて運転要員もいなくなり完全に無人化する。平成元年(1989)駅舎改築、同15年(2003)駅前の商店に簡易委託していた切符販売を廃止した。
駅名に付けれた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『上川地方北部、天塩川上流流域。アイヌ語のフーレベツ(赤い川の意)に由来する(アイヌ語地名辞解)。』
ちなみに風連駅が所在する地は駅開業当時の明治後期に多寄村に所属し、風連市街に多寄村役場が移転したことから駅名を”下多寄”へ改称する動きもあったようだが、昭和13年(1938)多寄村と風連村に分かれたことで風連駅の名は残り今に至っている。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C16A-20を基に作成
昭和52年(1977)撮影、風連駅周辺の空中写真。緑屋根の駅舎と構内跨線橋が見え、千鳥式に配された2面のホームは今と変わらない。島式ホームの右側に貨物車両が待避しているようようだ。

1980年代前半に撮影、有人駅時代の風連駅。改札する駅員が見える。

1985年頃に撮影した風連駅。柱にしがみついている人物は中学生の私。駅舎の佇まいや自動販売機に昭和を感じる。

そして2022年8月の風連駅。

平成元年(1989)あの木造駅舎を撤去して現駅舎に建て替えられた。駅舎横に”さわやかトイレ”を設ける。

駅舎内に入ればカラフルな4連ベンチが目に留まる。

駅前側出入口。

駅前側出入口を入って左側に掃除用具入と保線要員の控室らしき扉あり。

ホーム側出入口。

駅舎内が仕切られているのは何ゆえなのか…。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「風連駅」によれば、「1989年(平成元年):駅舎改築。風連町により開基90周年記念事業の一環で駅舎に展示室を合築し、水洗トイレを隣に新設」と書かれており、向こうは展示室を目的にしたスペースらしい。

発車時刻表。1日に名寄・稚内方面12本、旭川・札幌方面12本の快速と普通列車が発着。名寄・稚内方面12本のうち11本が名寄行で、7:29発の普通だけが稚内行。

きっぷ運賃表。名寄・稚内方面の運賃は名寄までしか記載が無く、ここから名寄の先へ行く旅客はほとんどいないのだろう。

東風連駅を移設して名寄高校駅を設置する案内。

展示室だったはずのスペースには新橋色のベンチが置かれ待合室として利用されている。

結構広々とした展示室に特に展示は無いかな。

駅構内は2面2線のホームと構内跨線橋を有し、駅舎と構内跨線橋の間に歩行者横断用の跨線橋が設けられている。

真新しい1番ホームの駅名標。今年(2022年)3月に行き先表記が”ひがしふうれん”から”なよろこうこう”に変わった。

1番ホーム駅名標より名寄・稚内方面。

だいぶ年季が入った構内跨線橋。

構内跨線橋内部。

構内跨線橋より2番ホーム(名寄・稚内方面)。

雑草に浸食されつつある2番ホーム(旭川方面)。

風連駅前。国道40号に向かって駅前通りが延びる。左手にある特徴的な建物、現在は民家のようだが佇まいから想像するに昔は駅前旅館だったのではないだろうか。
訪問日:2022年8月2日(火)

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