名寄駅(宗谷本線) ~かつては3路線が乗り入れたターミナル駅~
大関”名寄岩”を生んだ町、名寄市。名寄岩は昭和前期に活躍した立浪部屋所属の力士で、大関6場所と関脇15場所を務めた。”右四つ”や”つり”、”すくい投”といった技を得意として”怒り金時”の異名を持つ。力士が懸賞金を受け取るときに行う”手刀”は名寄岩”が始めたとされる。当時の立浪部屋には横綱へ上り詰めた兄弟子の双葉山を筆頭に、弟弟子で大関争いでライバル関係にあった羽黒山がおり、この3力士は”立浪三羽烏”と称えられて相撲界を大いに盛り上げ、横綱双葉山が土俵入りする際に太刀持ちを名寄岩、露払いに羽黒山が付き添えられた。昭和29年(1954)名寄岩は幕内在位44場所の40歳で引退、名寄市の北国博物館で名寄岩の功績を伝える常設展示があり、化粧まわしや板番付をはじめ愛用品などを展示している。
旭川から北へ約70km、名寄盆地に人口約2万6千人を有する名寄市。道北の中心都市であり、その市街中心に宗谷本線の名寄駅があり玄関口としてその役目を果たす。明治36年(1903)北海道官設鉄道天塩線(現 宗谷本線)が士別駅から名寄方面へ延伸開通、名寄駅はその終着駅として開業する。同44年(1911)天塩線は更に延伸して恩根内駅まで開通、大正8年(1919)名寄西線(後の名寄本線)名寄駅~下川駅間 が開通、同12年(1937)名雨線(後の深名線)名寄駅~初茶志内駅(後の天塩弥生駅)間が開通し、3路線が乗り入れるターミナル駅に発展した。昭和30年(1955)構内売店(後のキヨスク)開店、同43年(1968)みどりの窓口設置、同53年(1978)旅行センターが設置され、この頃に全盛時代を迎えたと言っていいだろう。
1980年代から斜陽の時代を迎える。昭和61年(1986)荷物取扱い廃止、平成元年(1989)名寄本線廃止、同7年(1995)深名線廃止、同21年(2009)駅弁販売終了、同28年(2016)旅行センター(ツインクルプラザ)が営業終了しキヨスクも閉店した。現在は昭和2年(1927)改築の2代目駅舎が改修されて残り、みどりの窓口は健在だが駅そば屋や売店が無く少々寂しい感じながらも、サロベツや宗谷の特急列車が発着する宗谷本線の主要駅である。JR北海道が公表する資料によれば名寄駅から先、稚内駅までの宗谷本線は輸送密度(旅客営業キロ1kmあたりの1日平均旅客輸送人員)500人未満の利用客が少ない線区であり、近い将来に名寄駅が終着駅になるかもれしれない。
地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『アイヌ語のナイ・オロ・プト(川の・所の・口の意)に由来し、名寄川の川口を指す地名である(北海道の地名)。古くは名寄川をナヨロと称し、天塩川と名寄川の合流点はナイブトと呼んだ。』

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C12B-12を基に作成
昭和52年(1977)撮影、名寄駅周辺の空中写真。今も現存する駅舎と跨線橋があり、駅裏手に扇型機関庫と転車台が見える。駅南側で宗谷本線・名寄本線・深名線が三つ又に分岐していた。

1985年頃に撮影した名寄駅。

上写真から約30年後、2015年8月撮影の名寄駅。駅も人も時の流れを感じます。

名寄駅(2015年8月撮影)。

名寄駅(2015年8月撮影)。当時は屋根の色が緑系だった。

名寄駅構内(2015年8月撮影)。

そして現在(2022年8月)の名寄駅。

昭和2年(1927)改築の木造駅舎を残す。平成30年(2018)に改修工事を終え、屋根がえんじ色に塗り替えられた。

駅前側出入口。

みどりの窓口と改札口。

人がいないので広々と感じる駅舎内。奥が待合室。

改札口に掲げられる発車時刻表。

待合室には到着時刻表。

多目的ルームに掲示していた”名寄駅のあゆみ”。

名寄駅乗換跨線橋の紹介。現存する構内跨線橋は大正8年(1919)に供用を開始、100年以上使われていきた歴史的建造物で、現役の構内跨線橋としては北海道最古のもの。。

名寄駅の”北の大地の入場券”。

駅前にある三星食堂。

大正3年(1914)創業。北海道にあっては老舗中の老舗である。

ラーメン、そば、様々な定食に丼物、そしてカレーとチャーハン。昼飯に食べたくなるメニューがずらりと並ぶ。

三星食堂より名寄駅。

昼どきのピークを過ぎた13時過ぎながら店内はお客さんでいっぱい。

私は野菜ラーメンを昼飯にしました。

名寄駅前広場。

公園通り跨線橋より名寄駅構内。かつては宗谷本線・名寄本線・深名線の3路線が乗り入れた。広々とした構内にターミナル駅の面影を残す。

線路を跨ぐ構内跨線橋が美しい、名寄駅は。
訪問日:2022年8月2日(火)
旭川から北へ約70km、名寄盆地に人口約2万6千人を有する名寄市。道北の中心都市であり、その市街中心に宗谷本線の名寄駅があり玄関口としてその役目を果たす。明治36年(1903)北海道官設鉄道天塩線(現 宗谷本線)が士別駅から名寄方面へ延伸開通、名寄駅はその終着駅として開業する。同44年(1911)天塩線は更に延伸して恩根内駅まで開通、大正8年(1919)名寄西線(後の名寄本線)名寄駅~下川駅間 が開通、同12年(1937)名雨線(後の深名線)名寄駅~初茶志内駅(後の天塩弥生駅)間が開通し、3路線が乗り入れるターミナル駅に発展した。昭和30年(1955)構内売店(後のキヨスク)開店、同43年(1968)みどりの窓口設置、同53年(1978)旅行センターが設置され、この頃に全盛時代を迎えたと言っていいだろう。
1980年代から斜陽の時代を迎える。昭和61年(1986)荷物取扱い廃止、平成元年(1989)名寄本線廃止、同7年(1995)深名線廃止、同21年(2009)駅弁販売終了、同28年(2016)旅行センター(ツインクルプラザ)が営業終了しキヨスクも閉店した。現在は昭和2年(1927)改築の2代目駅舎が改修されて残り、みどりの窓口は健在だが駅そば屋や売店が無く少々寂しい感じながらも、サロベツや宗谷の特急列車が発着する宗谷本線の主要駅である。JR北海道が公表する資料によれば名寄駅から先、稚内駅までの宗谷本線は輸送密度(旅客営業キロ1kmあたりの1日平均旅客輸送人員)500人未満の利用客が少ない線区であり、近い将来に名寄駅が終着駅になるかもれしれない。
地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『アイヌ語のナイ・オロ・プト(川の・所の・口の意)に由来し、名寄川の川口を指す地名である(北海道の地名)。古くは名寄川をナヨロと称し、天塩川と名寄川の合流点はナイブトと呼んだ。』

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C12B-12を基に作成
昭和52年(1977)撮影、名寄駅周辺の空中写真。今も現存する駅舎と跨線橋があり、駅裏手に扇型機関庫と転車台が見える。駅南側で宗谷本線・名寄本線・深名線が三つ又に分岐していた。

1985年頃に撮影した名寄駅。

上写真から約30年後、2015年8月撮影の名寄駅。駅も人も時の流れを感じます。

名寄駅(2015年8月撮影)。

名寄駅(2015年8月撮影)。当時は屋根の色が緑系だった。

名寄駅構内(2015年8月撮影)。

そして現在(2022年8月)の名寄駅。

昭和2年(1927)改築の木造駅舎を残す。平成30年(2018)に改修工事を終え、屋根がえんじ色に塗り替えられた。

駅前側出入口。

みどりの窓口と改札口。

人がいないので広々と感じる駅舎内。奥が待合室。

改札口に掲げられる発車時刻表。

待合室には到着時刻表。

多目的ルームに掲示していた”名寄駅のあゆみ”。

名寄駅乗換跨線橋の紹介。現存する構内跨線橋は大正8年(1919)に供用を開始、100年以上使われていきた歴史的建造物で、現役の構内跨線橋としては北海道最古のもの。。

名寄駅の”北の大地の入場券”。

駅前にある三星食堂。

大正3年(1914)創業。北海道にあっては老舗中の老舗である。

ラーメン、そば、様々な定食に丼物、そしてカレーとチャーハン。昼飯に食べたくなるメニューがずらりと並ぶ。

三星食堂より名寄駅。

昼どきのピークを過ぎた13時過ぎながら店内はお客さんでいっぱい。

私は野菜ラーメンを昼飯にしました。

名寄駅前広場。

公園通り跨線橋より名寄駅構内。かつては宗谷本線・名寄本線・深名線の3路線が乗り入れた。広々とした構内にターミナル駅の面影を残す。

線路を跨ぐ構内跨線橋が美しい、名寄駅は。
訪問日:2022年8月2日(火)

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