砂澤ビッキ記念館 ~オトイネップタワーがここに眠る~
かつて音威子府駅前に聳え立っていたオトイネップタワー。彫刻家の砂澤ビッキ氏(1931-89)が制作し昭和55年(1980)駅前に建立されたトーテムポールのことである。以前に書いた記事”音威子府駅(宗谷本線) ~長い歴史に幕を下ろした名物駅そば~”で少し触れたが、私にとって音威子府駅と言えば駅の象徴的な存在だったこのトーテムポールと、黒々とした麺の音威子府そば。トーテムポールはいつしか撤去され、音威子府そばを使って駅そば屋を90年近くやってきた常盤軒は昨年(2021)2月に店主が亡くなり廃業した。追い打ちをかけるように音威子府そばの製造元である畠山製麺が社長の高齢を理由に今年(2022年)8月末をもって廃業することが報じられた。音威子府には芸術と食、人を惹きつけるに十分な素材を持ってiいるのだが、食の方で素晴らしい素材が失われようとている。
3ヶ月前の2022年5月、筬島を訪れて”エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア(通称:砂澤ビッキ記念館)”の存在を知り、今夏に再訪する機会を得て見学してきた。ここは砂澤ビッキ氏がアトリエとした旧筬島小学校校舎を改装し、多くの作品や道具を展示、砂澤ビッキ氏の足跡と人柄を感じる素敵な空間だった。私が特に注目せざるを得なかったのは解体されたオトイネップタワーの保存展示、パーツとなって変わり果てた姿ながら約40年ぶりの再会を果たしたのだから。オトイネップタワーは音威子府駅の現駅舎(1990年完成))設置に伴い撤去保管され、平成14年(2002)に筬島へ里帰りしたらしい。木霊と化していたオトイネップタワー、かつて駅前に聳え立ち行く人来る人を出迎えた往時を偲び。

昭和60年(1985)頃に撮影したオトイネップタワー。

音威子府駅の天北線資料室に展示する写真から。前駅舎とオトイネップタワー。

3ヶ月ぶりに訪れた砂澤ビッキ記念館。

筬島小学校時代の正面入口。

雪の結晶とフクロウをモチーフにする校章が残されていた。

旧校舎左端のここが記念館入口。

砂澤ビッキ記念館の正式名称は”エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ 3モア”。

入口で入場料を払い、展示を見学しながら通路を歩く。ウッドチップを敷き詰めた床、天井や壁にも木材をふんだんに取り入れ心地よい雰囲気だ。

そして通路の奥、薄暗い一室に眠っていた木造の牛。眠っているという表現は適切ではないと思うほどに目が見開いており、牛の木霊を見ているような感覚だ。オトイネップタワーの最下部にいた牛で酪農を表現していた。

トーテムポールの聳える音威子府。再び聳え立ってほしいなと思う。

牛の隣にあるオトイネップタワーの模型。

砂澤ビッキ氏の写真とデスマスク。今を生きる人々にメッセージを送る。

砂澤ビッキ氏の作品をはじめ制作道具や写真などを展示、音威子府が特産品とする木工芸の原点を見る思い。来てよかった。

記念館前にあるアトリエ。

ここにオトイネップタワーが部品となって保管されていた。

オトイネップタワーは音威子府村の産業を表現していた。

昭和55年(1980)9月6日、ビッキアトリエから音威子府駅へ向けてオトイネップタワーが搬送されているときの様子。

右写真の先頭中央を歩いているのが砂澤ビッキ氏。

竣工式と餅まきの様子。今から42年前、こうやってオトイネップタワーは建立された。当時の村民のフィーバーぶりがよく伝わってくる。

タワー上部に掲げられていた木製看板。

左から国鉄・商工会・農協のシンボルマーク。

タワー上部にいたキツツキ。林業を表していた。

昭和53年(1978)に廃校した筬島小学校の校門が残存する。

砂澤ビッキ記念館と筬島駅を繋ぐ駅前通り(駅方面)。

筬島から”道の駅おといねっぷ”へ移動。

”音威子府そば”は音威子府駅で食べることはできなくなったが、道の駅にある天北龍がその後を継ぐ。

黒々とした麺の音威子府そばに黄色が映える月見そば。麺の製造元である畠山製麵も常盤軒の後を追うように今年8月で廃業予定。本当に残念でならない。

道の駅で購入した生蕎麦の音威子府そば。

こちらは鉄道の駅。

みどりの窓口が開いていたので先ずは北の大地の入場券をゲット。

駅併設の天北線資料館に展示される昭和30年代の音威子府駅。オトイネップタワーが駅前に立てられたのは昭和55年(1980)なので、ここには無い。

天北線資料室にあるクレーンゲーム。3ヶ月前にチャレンジしたが失敗。

中身は音威子府村番号札キーホルダー。

リベンジのプレー3回目でついにゲット!

中身は鉄分撮り過ぎ注意。オトイネップかオサシマが欲しかったのだが…、達成感は得たので次の機会にとっておこう。

後日談。道の駅で手に入れた音威子府そばを”もりそば”にして頂きました。
訪問日:2022年8月3日(水)
3ヶ月前の2022年5月、筬島を訪れて”エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア(通称:砂澤ビッキ記念館)”の存在を知り、今夏に再訪する機会を得て見学してきた。ここは砂澤ビッキ氏がアトリエとした旧筬島小学校校舎を改装し、多くの作品や道具を展示、砂澤ビッキ氏の足跡と人柄を感じる素敵な空間だった。私が特に注目せざるを得なかったのは解体されたオトイネップタワーの保存展示、パーツとなって変わり果てた姿ながら約40年ぶりの再会を果たしたのだから。オトイネップタワーは音威子府駅の現駅舎(1990年完成))設置に伴い撤去保管され、平成14年(2002)に筬島へ里帰りしたらしい。木霊と化していたオトイネップタワー、かつて駅前に聳え立ち行く人来る人を出迎えた往時を偲び。

昭和60年(1985)頃に撮影したオトイネップタワー。

音威子府駅の天北線資料室に展示する写真から。前駅舎とオトイネップタワー。

3ヶ月ぶりに訪れた砂澤ビッキ記念館。

筬島小学校時代の正面入口。

雪の結晶とフクロウをモチーフにする校章が残されていた。

旧校舎左端のここが記念館入口。

砂澤ビッキ記念館の正式名称は”エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ 3モア”。

入口で入場料を払い、展示を見学しながら通路を歩く。ウッドチップを敷き詰めた床、天井や壁にも木材をふんだんに取り入れ心地よい雰囲気だ。

そして通路の奥、薄暗い一室に眠っていた木造の牛。眠っているという表現は適切ではないと思うほどに目が見開いており、牛の木霊を見ているような感覚だ。オトイネップタワーの最下部にいた牛で酪農を表現していた。

トーテムポールの聳える音威子府。再び聳え立ってほしいなと思う。

牛の隣にあるオトイネップタワーの模型。

砂澤ビッキ氏の写真とデスマスク。今を生きる人々にメッセージを送る。

砂澤ビッキ氏の作品をはじめ制作道具や写真などを展示、音威子府が特産品とする木工芸の原点を見る思い。来てよかった。

記念館前にあるアトリエ。

ここにオトイネップタワーが部品となって保管されていた。

オトイネップタワーは音威子府村の産業を表現していた。

昭和55年(1980)9月6日、ビッキアトリエから音威子府駅へ向けてオトイネップタワーが搬送されているときの様子。

右写真の先頭中央を歩いているのが砂澤ビッキ氏。

竣工式と餅まきの様子。今から42年前、こうやってオトイネップタワーは建立された。当時の村民のフィーバーぶりがよく伝わってくる。

タワー上部に掲げられていた木製看板。

左から国鉄・商工会・農協のシンボルマーク。

タワー上部にいたキツツキ。林業を表していた。

昭和53年(1978)に廃校した筬島小学校の校門が残存する。

砂澤ビッキ記念館と筬島駅を繋ぐ駅前通り(駅方面)。

筬島から”道の駅おといねっぷ”へ移動。

”音威子府そば”は音威子府駅で食べることはできなくなったが、道の駅にある天北龍がその後を継ぐ。

黒々とした麺の音威子府そばに黄色が映える月見そば。麺の製造元である畠山製麵も常盤軒の後を追うように今年8月で廃業予定。本当に残念でならない。

道の駅で購入した生蕎麦の音威子府そば。

こちらは鉄道の駅。

みどりの窓口が開いていたので先ずは北の大地の入場券をゲット。

駅併設の天北線資料館に展示される昭和30年代の音威子府駅。オトイネップタワーが駅前に立てられたのは昭和55年(1980)なので、ここには無い。

天北線資料室にあるクレーンゲーム。3ヶ月前にチャレンジしたが失敗。

中身は音威子府村番号札キーホルダー。

リベンジのプレー3回目でついにゲット!

中身は鉄分撮り過ぎ注意。オトイネップかオサシマが欲しかったのだが…、達成感は得たので次の機会にとっておこう。

後日談。道の駅で手に入れた音威子府そばを”もりそば”にして頂きました。
訪問日:2022年8月3日(水)

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