上頓別駅跡(天北線) ~上頓別原野開拓の足となった駅は消え~
せっかく音威子府まで来たので、かつてオホーツク海側回りで音威子府と稚内を繋いだ天北線の廃線跡を訪ねてみよう。3ヶ月前の5月に上音威子府駅跡と小頓別駅跡を見てきたので、次の上頓別駅跡を目的地とし音威子府から国道275号を浜頓別方面に向けて車を走らせた。
先ずは上頓別の歴史について角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『明治45年橋本正利ら4戸が、福島県田村郡から入植。大正2~3年福島県三春の移民52戸が大挙入植。同5年国鉄宗谷線上頓別駅が開駅すると古谷彦市の古谷農場が開設され、小作16戸が入って炭焼に従事。また平野農場も開かれ、平野右左衛門を長に管理人を船越宗太郎とし、小作人28戸が入地。同年上頓別神社創建。同7年上頓別小学校開校。昭和9年上頓別原野に福島・秋田両県から6戸が入植。当時の移民小作人は、木材伐採や炭焼にも従事したが次第に原木が払底したため、小作地を放棄して帰郷または転職する者が続出。この方面の造材は美深の宇野左衛門が行った。世帯数・人口は、同30年92・530、同40年73・376、同50年40・148。』
開拓期の上頓別について中頓別町勢要覧「なかとんべつの歩み」5頁にある「上頓別、小頓別の開拓 (1)上頓別地方」にも詳しく書かれているのでご参照ください。
上頓別駅は廃止時に天北線起点の音威子府から3駅目(20.6km地点)、枝幸郡中頓別町字上頓別に所在。大正5年(1916)鉄道院宗谷線小頓別駅~中頓別駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。昭和36年(1961)路線名を天北線に改称、同48年(1973)貨物・荷物取扱いが廃止されると同時に旅客扱いも廃止され無人化した。平成元年(1989)、天北線の廃線に伴い廃駅、同年に上頓別小学校も廃校となった。その後、駅舎がライダーハウスに再利用される時期もあったようだが、老朽化により平成14年(2002)頃に撤去された。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO776-C17B-2を基に作成
昭和52年(1977)撮影、上頓別駅周辺の空中写真。この時は既に無人化していたが、有人駅時代の駅舎を残し1面1線の単式ホームを有していた。

上頓別バス待合室に車を停めて上頓別を散策することに。

ここは宗谷バスの鬼志別・稚内方面の上頓別停留所。

天北宗谷岬線バス時刻表。1日に上り音威子府方面2本、下り稚内方面2本のバスが発着。

待合室内には上頓別の風景を描いた水彩画が掲げられていた。

往時の上頓別駅も。

上頓別停留所旅ノート。ここが上頓別駅の役目を引き継いでいるようだ。

待合室の裏手にある獣魂碑。

待合所の向かいに上頓別会館と上頓別神社。

上頓別会館と上頓別神社の前に音威子府方面の上頓別停留所が立つ。

大正5年(1916)建立の上頓別神社。100年以上にわたって上頓別の住民を見守ってきた。

上頓別神社より駅跡前の国道275号(音威子府方面)。

上頓別駅跡前。右に入る道が旧駅前通り。左手に旧商店らしき建物がある。

駅前通りより駅跡。かつてはこの道の先に駅舎があった。

この辺りが駅舎跡。遺構は何も発見できなかった。

駅跡より旧駅前通り。

駅跡より音威子府方面。

駅跡より浜頓別・南稚内方面。ここにかつて鉄路が通されたとは想像できない状態。

駅跡前より浜頓別方面の国道275号。右手に見える建物が上頓別会館。

駅跡より国道275号を浜頓別方面へ約600m、左折の道に入れば頓別川に平野橋が架かる。橋上から右岸の上頓別小学校跡(1989年廃校)を望む。

廃校から30年以上経ち、その跡地には体育館だけが残っていた。
訪問日:2022年8月3日(水)
先ずは上頓別の歴史について角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『明治45年橋本正利ら4戸が、福島県田村郡から入植。大正2~3年福島県三春の移民52戸が大挙入植。同5年国鉄宗谷線上頓別駅が開駅すると古谷彦市の古谷農場が開設され、小作16戸が入って炭焼に従事。また平野農場も開かれ、平野右左衛門を長に管理人を船越宗太郎とし、小作人28戸が入地。同年上頓別神社創建。同7年上頓別小学校開校。昭和9年上頓別原野に福島・秋田両県から6戸が入植。当時の移民小作人は、木材伐採や炭焼にも従事したが次第に原木が払底したため、小作地を放棄して帰郷または転職する者が続出。この方面の造材は美深の宇野左衛門が行った。世帯数・人口は、同30年92・530、同40年73・376、同50年40・148。』
開拓期の上頓別について中頓別町勢要覧「なかとんべつの歩み」5頁にある「上頓別、小頓別の開拓 (1)上頓別地方」にも詳しく書かれているのでご参照ください。
上頓別駅は廃止時に天北線起点の音威子府から3駅目(20.6km地点)、枝幸郡中頓別町字上頓別に所在。大正5年(1916)鉄道院宗谷線小頓別駅~中頓別駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。昭和36年(1961)路線名を天北線に改称、同48年(1973)貨物・荷物取扱いが廃止されると同時に旅客扱いも廃止され無人化した。平成元年(1989)、天北線の廃線に伴い廃駅、同年に上頓別小学校も廃校となった。その後、駅舎がライダーハウスに再利用される時期もあったようだが、老朽化により平成14年(2002)頃に撤去された。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO776-C17B-2を基に作成
昭和52年(1977)撮影、上頓別駅周辺の空中写真。この時は既に無人化していたが、有人駅時代の駅舎を残し1面1線の単式ホームを有していた。

上頓別バス待合室に車を停めて上頓別を散策することに。

ここは宗谷バスの鬼志別・稚内方面の上頓別停留所。

天北宗谷岬線バス時刻表。1日に上り音威子府方面2本、下り稚内方面2本のバスが発着。

待合室内には上頓別の風景を描いた水彩画が掲げられていた。

往時の上頓別駅も。

上頓別停留所旅ノート。ここが上頓別駅の役目を引き継いでいるようだ。

待合室の裏手にある獣魂碑。

待合所の向かいに上頓別会館と上頓別神社。

上頓別会館と上頓別神社の前に音威子府方面の上頓別停留所が立つ。

大正5年(1916)建立の上頓別神社。100年以上にわたって上頓別の住民を見守ってきた。

上頓別神社より駅跡前の国道275号(音威子府方面)。

上頓別駅跡前。右に入る道が旧駅前通り。左手に旧商店らしき建物がある。

駅前通りより駅跡。かつてはこの道の先に駅舎があった。

この辺りが駅舎跡。遺構は何も発見できなかった。

駅跡より旧駅前通り。

駅跡より音威子府方面。

駅跡より浜頓別・南稚内方面。ここにかつて鉄路が通されたとは想像できない状態。

駅跡前より浜頓別方面の国道275号。右手に見える建物が上頓別会館。

駅跡より国道275号を浜頓別方面へ約600m、左折の道に入れば頓別川に平野橋が架かる。橋上から右岸の上頓別小学校跡(1989年廃校)を望む。

廃校から30年以上経ち、その跡地には体育館だけが残っていた。
訪問日:2022年8月3日(水)

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