松音知駅跡(天北線) ~天北線廃線跡に残る唯一の旧駅舎~
アイヌ語で男(夫)の山を意味する敏音知(ぴんねしり)に対し、女(妻)の山を意味する松音知(まつねしり)。標高703mを有する敏音知岳の北東方に標高531mの松音知岳があり、先人はこれを夫婦に見立てて山名にしたようだ。角川日本地名大辞典「松音知」によれば『地名はアイヌ語のマッネシルにより「妻である山」の意(地名アイヌ語小辞典)。近在の敏音知(ぴんねしり)岳が高く男山とされているのに対し、なだらかな山体に名付けられたもの。』と地名の由来を説明する。
松音知における歴史の始まりは明治後期のことで、角川日本地名大辞典から再び引用させていただく。
『明治40年頃当地一帯の始祖と呼ばれる松山丈之助は2つの鉱区を持ち、金・白金を採取。同41年村上専太郎が、天塩から山越えして枝幸(えさし)に向かう途中、当地が農耕適地であることを認め、鹿児島県人鮫島慶彦ほか2人とともに薩摩農場を開設。規模は松音知の全域と敏音知の一部および上駒と藤井にまたがり、500町歩に及んだ。 〔中略〕 大正4年砂金密採取者取締りのため、巡査部長1・巡査2を配置。同5年国鉄宗谷線松音知駅が開駅したが、その前後に薩摩農場に10人が入植。同8年には松音知小学校開校。 〔以下略〕』
大正7年(1918)に薩摩農場は小樽の藤山要吉に売却され藤山農場と改称する。藤山要吉については留萌本線の藤山駅について書いた記事「藤山駅(留萌本線) ~駅名の由来は藤山さん~」で紹介した。留萌市の藤山と松音知は藤山要吉による繋がりを持っており、これを知れただけでもここに来た甲斐があったというものだ。当地では藤山農場と並行して森林伐採も盛んになったことで造材も大規模に行われ、駅裏手には搬出木材を溜め置く大きなストックヤードを設けていた。昭和22年(1947)の農地解放により藤山農場は解散、後に木材生産も下火となり松音知は衰退の一途を辿ってゆく。
松音知駅は大正5年(1916) 鉄道院宗谷線小頓別駅~中頓別駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。大正7年(1918)所属路線名が宗谷本線に改称され、更に昭和5年(1930)に北見線、同36年(1961)天北線に改称した。同48年(1973) 貨物及び荷物取扱いを廃止、同時に旅客扱いも廃止となり無人化。平成元年(1989)天北線の全線廃止に伴い廃駅となる。現在は駅舎やホームが現存しているが、個人所有となっており敷地内には立入りできない。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO776-C13B-6を基に作成
昭和52年(1977)撮影、松音知駅周辺の空中写真。撮影時は無人化されて4年が経過しているが、1面1線の単式ホームと駅舎を有し、現存する旧駅構造物と同じ状態。天北線左側に沿って通される道は国道275号、駅から国道に向かって駅前通りが延び、その道沿い右手に農業倉庫らしき大きな建物が見える。駅近くの山腹に松音知神社が鎮座、駅から南西方向約1kmの辺りに松音知小学校があった。

旧松音知駅を構内側より遠望。

駅舎をはじめホームや駅名標の枠を残している。

旧松音知駅の構造物は個人所有のようで、旧駅舎に撮影禁止や立入禁止を掲示しており、敷地内に入ることは控えたほうがよさそうだ。

浜頓別・稚内側の踏切跡より旧松音知駅。

踏切跡より浜頓別・稚内方面。路盤は完全に消失している。

廃止から30年以上経っているが、駅の保存状態は良く往時を偲ばせる。

国道275号沿いにある松音知停留所。

停留所にはそこそこ立派な待合室を設ける。

待合所前にあるバス停。

バス停の時刻表。

国道より松音知駅跡。

駅から国道へ延びていた駅前通りは見ての通りの状況。

国道から参道を延ばす松音知の鎮守、松音知神社。昭和52年(1977)撮影の空中写真を見ると、当時は社殿の位置が現在地とは違い、ここから更に山側にあったことがわかる。

松音知小学校跡に残る閉校記念碑。

閉校記念碑には校歌を刻む。松音知小学校は平成11年(1999)閉校し校舎を残していない。跡地には”食彩工房もうもう”という観光施設が設けられている。
訪問日:2022年8月3日(水)
松音知における歴史の始まりは明治後期のことで、角川日本地名大辞典から再び引用させていただく。
『明治40年頃当地一帯の始祖と呼ばれる松山丈之助は2つの鉱区を持ち、金・白金を採取。同41年村上専太郎が、天塩から山越えして枝幸(えさし)に向かう途中、当地が農耕適地であることを認め、鹿児島県人鮫島慶彦ほか2人とともに薩摩農場を開設。規模は松音知の全域と敏音知の一部および上駒と藤井にまたがり、500町歩に及んだ。 〔中略〕 大正4年砂金密採取者取締りのため、巡査部長1・巡査2を配置。同5年国鉄宗谷線松音知駅が開駅したが、その前後に薩摩農場に10人が入植。同8年には松音知小学校開校。 〔以下略〕』
大正7年(1918)に薩摩農場は小樽の藤山要吉に売却され藤山農場と改称する。藤山要吉については留萌本線の藤山駅について書いた記事「藤山駅(留萌本線) ~駅名の由来は藤山さん~」で紹介した。留萌市の藤山と松音知は藤山要吉による繋がりを持っており、これを知れただけでもここに来た甲斐があったというものだ。当地では藤山農場と並行して森林伐採も盛んになったことで造材も大規模に行われ、駅裏手には搬出木材を溜め置く大きなストックヤードを設けていた。昭和22年(1947)の農地解放により藤山農場は解散、後に木材生産も下火となり松音知は衰退の一途を辿ってゆく。
松音知駅は大正5年(1916) 鉄道院宗谷線小頓別駅~中頓別駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。大正7年(1918)所属路線名が宗谷本線に改称され、更に昭和5年(1930)に北見線、同36年(1961)天北線に改称した。同48年(1973) 貨物及び荷物取扱いを廃止、同時に旅客扱いも廃止となり無人化。平成元年(1989)天北線の全線廃止に伴い廃駅となる。現在は駅舎やホームが現存しているが、個人所有となっており敷地内には立入りできない。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO776-C13B-6を基に作成
昭和52年(1977)撮影、松音知駅周辺の空中写真。撮影時は無人化されて4年が経過しているが、1面1線の単式ホームと駅舎を有し、現存する旧駅構造物と同じ状態。天北線左側に沿って通される道は国道275号、駅から国道に向かって駅前通りが延び、その道沿い右手に農業倉庫らしき大きな建物が見える。駅近くの山腹に松音知神社が鎮座、駅から南西方向約1kmの辺りに松音知小学校があった。

旧松音知駅を構内側より遠望。

駅舎をはじめホームや駅名標の枠を残している。

旧松音知駅の構造物は個人所有のようで、旧駅舎に撮影禁止や立入禁止を掲示しており、敷地内に入ることは控えたほうがよさそうだ。

浜頓別・稚内側の踏切跡より旧松音知駅。

踏切跡より浜頓別・稚内方面。路盤は完全に消失している。

廃止から30年以上経っているが、駅の保存状態は良く往時を偲ばせる。

国道275号沿いにある松音知停留所。

停留所にはそこそこ立派な待合室を設ける。

待合所前にあるバス停。

バス停の時刻表。

国道より松音知駅跡。

駅から国道へ延びていた駅前通りは見ての通りの状況。

国道から参道を延ばす松音知の鎮守、松音知神社。昭和52年(1977)撮影の空中写真を見ると、当時は社殿の位置が現在地とは違い、ここから更に山側にあったことがわかる。

松音知小学校跡に残る閉校記念碑。

閉校記念碑には校歌を刻む。松音知小学校は平成11年(1999)閉校し校舎を残していない。跡地には”食彩工房もうもう”という観光施設が設けられている。
訪問日:2022年8月3日(水)

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