恩根内駅(宗谷本線) 地元自治体や住民の協力によって生き残った駅~
宗谷本線の音威子府駅と美深駅間の中間地点、美深町北部の恩根内に所在する恩根内駅。明治44年(1911)鉄道院天塩線名寄駅~当駅間の開通に伴い終着の一般駅として開業、翌年に音威子府駅まで延伸開通しその途中駅となる。それから時が流れて約70年後の昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)2月荷物取扱い廃止、11月に旅客扱いが廃止され、同61年(1986)閉塞が自動化されて運転要員もいなくなり完全に無人化。後に木造駅舎が解体され貨車駅舎に置き換えられたが、平成5年(1993)に現駅舎が完成した。JR北海道の調査(H28~R2の5ヶ年平均)で乗車人員1日平均1名以下の「極端にご利用の少ない駅」に指定され、令和3年(2021)3月で廃止される予定だったが、地元自治体が維持管理費を負担のうえ地元住民が除雪や清掃に協力することで当面は存続することになっている。
駅名に付けられた地名の由来について角川日本地名大辞典「恩根内」より引用して紹介。
『地名はアイヌ語のオンネナイ(老川、昔からなじんで来た川の意)に由来し、開拓当初から恩根内の漢字をあてはめていた(美深町会議事録)という。更科源蔵「アイヌ語地名解」ではポロナイと同様に道内各地にみられる地名で、親川を意味するとしている。江戸期の松浦武四郎「丁巳日誌」にはヲン子ナイと見える。この頃のヲン子ナイは現恩根内市街地より北方の天塩川支流を指している。』
恩根内の開拓が始まったのは明治34年(1901)、その翌年に仮定県道が開削されオンネナイ駅逓所(後に森内駅逓所)と渡船場を設置、同44年(1911)恩根内駅が開業し駅前には宿屋や運送業、雑貨店などが軒を連ねて50戸の家を数える。大正期に入ると馬鈴薯澱粉や茎から繊維がとれる亜麻茎の生産地として駅は集出荷で賑わいをみせ、天塩川に永久橋となる恩根内橋が架けられ昭和初期にかけて全盛期を迎えた。昭和50年代に天塩川築堤工事により農地が半減、離農者が続出して昭和56年(1981)恩根内中学校が美深中学校に統合、恩根内小学校は開校から105年を迎えた平成20年(2008)に廃校となった。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7710-C5B-5を基に作成
昭和52年(1977)撮影、恩根内駅周辺の空中写真。千鳥式に配置された相対式ホーム2面2線を持ち、西側に木造駅舎を設ける構造。駅裏手の線路沿いに国道40号が通り、線路と国道の間の細長い敷地内にストックヤードが設けられている。駅西側一帯に市街地を形成。駅前通りの突き当たり、南北に延びる道が旧国道。

1980年代に撮影、木造駅舎時代の恩根内駅改札口。

日没直前、夕陽を浴びる現在の恩根内駅。

駅より駅前通り。

駅前にある民家は廃墟となりつつ。

斜陽に照らされる駅舎内。

6人掛けぐらいのベンチを設置する。

ベンチ上に掲げられる発車時刻表。

ベンチ上に駅ノート。

駅前側の出入口。左の扉は物品庫。

ホーム側の出入口。

待合ベンチの対面、御手洗いと物品庫の扉の間に”きっぷ運賃表”を掲げる。

きっぷ運賃表。

洗面所付きのトイレを設置。

駅舎内より駅前通り。

駅舎から出てホームに。

左が稚内方面乗車口、右が名寄方面乗車口。

ホーム側より駅舎裏側。駅舎正面を左右反転させて同じ顔。

稚内側隣の豊清水駅は信号場となり、名寄側隣の紋穂内駅が昨年(2021)廃止されたため、駅名標の行き先表記を上貼りし改めている。

駅名標より稚内方面。

18:16発名寄行普通が到着。

一人の乗降客も無く、

列車の扉が閉じ、

そして次の初野駅へ向けて発車。

列車の到着に合わせて駅前にバスが到着。やはり乗降客はいない。

斜陽に照らされる恩根内駅。次は市街地を少し回ってみよう。

恩根内駅から徒歩約11分、市街北西端に旧恩根内小学校がある。旧校舎は”アートヴィレッジ恩根内 ”として再活用されている。
美深町観光協会「アートヴィレッジ恩根内」

今も小学校名を残す校門。

恩根内小学校は明治36年(1903)恩根内簡易教育所として開校、平成20年(2008)に閉校した。

旧体育館。

旧体育館と校舎。

2003年8月に埋蔵したタイムカプセル。現在で19年の年月を経ているが、掘り返されるのはいつになるのだろう。

二宮さん。

校舎から少し離れた所に恩根内小学校プール。

こんな立派な屋内プールを併設していたことに驚き。

最後に恩根内郵便局を見て。だいぶ暗くなってきたので旭川へ帰ろう。
訪問日:2022年8月3日(水)
駅名に付けられた地名の由来について角川日本地名大辞典「恩根内」より引用して紹介。
『地名はアイヌ語のオンネナイ(老川、昔からなじんで来た川の意)に由来し、開拓当初から恩根内の漢字をあてはめていた(美深町会議事録)という。更科源蔵「アイヌ語地名解」ではポロナイと同様に道内各地にみられる地名で、親川を意味するとしている。江戸期の松浦武四郎「丁巳日誌」にはヲン子ナイと見える。この頃のヲン子ナイは現恩根内市街地より北方の天塩川支流を指している。』
恩根内の開拓が始まったのは明治34年(1901)、その翌年に仮定県道が開削されオンネナイ駅逓所(後に森内駅逓所)と渡船場を設置、同44年(1911)恩根内駅が開業し駅前には宿屋や運送業、雑貨店などが軒を連ねて50戸の家を数える。大正期に入ると馬鈴薯澱粉や茎から繊維がとれる亜麻茎の生産地として駅は集出荷で賑わいをみせ、天塩川に永久橋となる恩根内橋が架けられ昭和初期にかけて全盛期を迎えた。昭和50年代に天塩川築堤工事により農地が半減、離農者が続出して昭和56年(1981)恩根内中学校が美深中学校に統合、恩根内小学校は開校から105年を迎えた平成20年(2008)に廃校となった。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7710-C5B-5を基に作成
昭和52年(1977)撮影、恩根内駅周辺の空中写真。千鳥式に配置された相対式ホーム2面2線を持ち、西側に木造駅舎を設ける構造。駅裏手の線路沿いに国道40号が通り、線路と国道の間の細長い敷地内にストックヤードが設けられている。駅西側一帯に市街地を形成。駅前通りの突き当たり、南北に延びる道が旧国道。

1980年代に撮影、木造駅舎時代の恩根内駅改札口。

日没直前、夕陽を浴びる現在の恩根内駅。

駅より駅前通り。

駅前にある民家は廃墟となりつつ。

斜陽に照らされる駅舎内。

6人掛けぐらいのベンチを設置する。

ベンチ上に掲げられる発車時刻表。

ベンチ上に駅ノート。

駅前側の出入口。左の扉は物品庫。

ホーム側の出入口。

待合ベンチの対面、御手洗いと物品庫の扉の間に”きっぷ運賃表”を掲げる。

きっぷ運賃表。

洗面所付きのトイレを設置。

駅舎内より駅前通り。

駅舎から出てホームに。

左が稚内方面乗車口、右が名寄方面乗車口。

ホーム側より駅舎裏側。駅舎正面を左右反転させて同じ顔。

稚内側隣の豊清水駅は信号場となり、名寄側隣の紋穂内駅が昨年(2021)廃止されたため、駅名標の行き先表記を上貼りし改めている。

駅名標より稚内方面。

18:16発名寄行普通が到着。

一人の乗降客も無く、

列車の扉が閉じ、

そして次の初野駅へ向けて発車。

列車の到着に合わせて駅前にバスが到着。やはり乗降客はいない。

斜陽に照らされる恩根内駅。次は市街地を少し回ってみよう。

恩根内駅から徒歩約11分、市街北西端に旧恩根内小学校がある。旧校舎は”アートヴィレッジ恩根内 ”として再活用されている。
美深町観光協会「アートヴィレッジ恩根内」

今も小学校名を残す校門。

恩根内小学校は明治36年(1903)恩根内簡易教育所として開校、平成20年(2008)に閉校した。

旧体育館。

旧体育館と校舎。

2003年8月に埋蔵したタイムカプセル。現在で19年の年月を経ているが、掘り返されるのはいつになるのだろう。

二宮さん。

校舎から少し離れた所に恩根内小学校プール。

こんな立派な屋内プールを併設していたことに驚き。

最後に恩根内郵便局を見て。だいぶ暗くなってきたので旭川へ帰ろう。
訪問日:2022年8月3日(水)

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