間の宿・茂田井


茂田井の町は地図を見ると茂田井宿と表記さてれているが、正確には宿場ではない。正式に宿場とは幕府によって指定されたもののみを言い、茂田井は宿場として認められていなかった。望月宿と芦田宿の中間地点に位置し、自然発生的に町を形成していった茂田井は、旅人の休憩場所として繁栄し、間の宿と称される。以前に通過した鴻巣宿と熊谷宿の中間に位置する吹上も同じような扱いだ。江戸時代、幕府は宿場以外で旅人の宿泊を原則禁じていたので、茂田井の町並みは、やはり宿場町とは趣を異にしている。2軒の造り酒屋を中心に古い家屋が軒を連ね、すばらしい景観を残している。

神明社から茂田井の町並みの中を歩く。旧道の道幅は昔ながらのままで狭く、脇には用水路がコポコポと静かに流れている。どっしりと腰を下ろして町並みを描く人も散見される。こちらはパチパチ写真を撮りまくり。それほどここの景観は美しい。そして右手門の入口に酒林を吊るす重厚な建物は、明治元年(1868年)創業の武重本家酒造。酒造蔵内に浮遊する天然の乳酸菌を利用して、酵母を育てる昔ながらの酒造法が特徴で、「生もと造り」と呼ばれる。これは非常に手間のかかる酒造法であるが、独特の風味を醸し出し生き生きしたおいしい酒ができるという。

坂道を上っていくと、こちらにも立派な酒林が吊るされている。ここは元禄2年(1688年)創業の老舗大澤酒造。明鏡止水や善光寺秘蔵酒が代表的な銘柄。秘蔵酒は善光寺貫主の宿を務めた縁により命名された。門を潜ると時代劇のセットに入り込んだような気分だ。敷地内には民俗資料館や名主の館書道館、しなの山林美術館が併設され、無料で公開されている。大澤家は元文2年(1737年)より明治4年(1871年)まで茂田井村の名主を務めた家柄で、高札場も設けられていた。また、元治元年(1864年)水戸浪士の天狗党が挙兵し中山道を通過すると、これを追ってきた小諸藩兵500人の宿となった場所でもある。

集落の西端にあたる石原坂の急坂を上りきると、茂田井の一里塚跡がある。日本橋から46里目(約181km)の一里塚で、数からすると42番目。痕跡は残されていないが、説明板が立てられている。立科ゴルフ倶楽部前で対向2車線道に合流すると、田園地帯の様相となり、後方には随分と小さくなった浅間山の頂が姿を現している。上州から連れ添った浅間山の眺望も、ここら辺が最後となりそうだ。
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