贄川宿


贄川(にえかわ)宿は江戸日本橋から33番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口545人、家数124軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。古くは温泉が湧き出していたことから熱川(にえかわ)と称したが、後に温泉が枯渇したため現在の贄川に改められたとの伝承が残る。宿場近郊にある麻衣廼(あさぎぬの)神社の本社である諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。ちなみに贄とは神仏に捧げる土地の産物のことで、生贄(いけにえ)という言葉が最もわかりやすいだろう。
昭和5年(1930年)の大火で宿場の大半が焼けてしまい、現在宿場の面影はほとんど残されていないが、かつて加納屋という屋号で商家を営んでいた深澤家住宅が僅かに切妻・出桁造りの建物を残している。深澤家は行商を中心に販路を京都や大阪にまで拡げる贄川屈指の商家であった。主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建。主屋・北蔵・南蔵の三棟が国重要文化財に指定される。


宿内には漆器を扱う店がちらほらと見える。宿場を外れた場所に国道19号が通っているため、車の通行も少なく静かな町である。宿場内から中山道を外れ十一面観音を本尊に祀る観音寺へ向かう。この寺の山門は寛政4年(1792年)に再建され、楢川村有形文化財に指定される。そして寺の西側に麻衣廼神社が鎮座する。天慶年間(938~947年)の創建で、文禄年間(1592~1596年)現在地に再建。諏訪大社と同じく建御名方命を祭神に祀り、6年目毎の寅年と申年に御柱祭りが行われる。境内には4本の御柱が立てられている。

ひのきや漆器店の先で右折し枡形の道筋を辿る。ここが宿場の京側外れで、贄川宿は終わり。跨線橋を渡って国道に出ると「贄川のトチ」の看板があったので寄ってみる。国道を右に入った山裾にトチの大木が見事な太い幹と枝ぶりを見せている。元文5年(1740年)の文献に「栃の大木」と記述されているらしく、相当の老木であることは確かある。しかし樹勢は全く衰えを感じさせず、なおも成長しているのではないだろうか。昭和44年(1969年)長野県天然記念物に指定。

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