野尻宿
野尻宿は左右にくねくねとうねる街道筋に家々が軒を連ねる町並み。この宿場を貫く道は「七曲がり」と呼ばれ、先を見通せないようにすることで外敵の進入を防ぐ目的があった。本陣は問屋を兼ねて森家が務め、脇本陣の木戸家も問屋を兼ねていた。しかし両建築とも明治27年(1894年)の火災により焼失し、遺構は残っていない。
天保14年(1843年)当時の宿場は東西六町三尺(約655m)の長さで、人口986人、家数108軒、本陣1、脇本陣1、旅籠19軒。東(江戸より)から上町、中町(本町)、横町、荒田(新田)と続く。東と西のはずれに「はずれ」という屋号の家があった。江戸日本橋から40番目の宿場。

野尻宿上町の町並み。

野尻宿中町の町並み。この辺りに本陣、脇本陣が構えていた。

かつての旅籠だろうか、旅館庭田屋は宿場の雰囲気が漂う建物。

野尻宿横町の町並み。こじんまりとした出桁造りの二階屋が軒を連ね、宿場情緒を残している。

与川道の分岐点。左折する道が与川道で、ここから根の上峠を越えて三留野宿へ至る。実はこちらの道も中山道。野尻宿と三留野宿間には木曽川の断崖が迫る木曽路最大の難所があり、これを避けるために享保年間(1716~1736年)与川道の迂回路が造られた。

西の宿はずれにある家は、その屋号も「はずれ」。宿場の東はずれにも同じ屋号の家があった。

二反田橋を渡れば野尻宿は終わり。
天保14年(1843年)当時の宿場は東西六町三尺(約655m)の長さで、人口986人、家数108軒、本陣1、脇本陣1、旅籠19軒。東(江戸より)から上町、中町(本町)、横町、荒田(新田)と続く。東と西のはずれに「はずれ」という屋号の家があった。江戸日本橋から40番目の宿場。

野尻宿上町の町並み。

野尻宿中町の町並み。この辺りに本陣、脇本陣が構えていた。

かつての旅籠だろうか、旅館庭田屋は宿場の雰囲気が漂う建物。

野尻宿横町の町並み。こじんまりとした出桁造りの二階屋が軒を連ね、宿場情緒を残している。

与川道の分岐点。左折する道が与川道で、ここから根の上峠を越えて三留野宿へ至る。実はこちらの道も中山道。野尻宿と三留野宿間には木曽川の断崖が迫る木曽路最大の難所があり、これを避けるために享保年間(1716~1736年)与川道の迂回路が造られた。

西の宿はずれにある家は、その屋号も「はずれ」。宿場の東はずれにも同じ屋号の家があった。

二反田橋を渡れば野尻宿は終わり。

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