大井宿 横町・本町
【第31日目】12月29日(土) 大井宿→大湫宿→細久手宿
恵那市の中心部に位置する大井宿。市街地にあるにもかかわらず、宿場の面影をよく留めている。宿内を貫く中山道は枡形の曲折が6ヶ所も設けられ、現在も右に左に折れ曲がりながらの道筋を残している。その特徴ある街道筋には本陣の門をはじめ、商家、町役人の家、庄屋等の建築が情緒ある佇まいを見せてくれ、訪れる人々にその歴史を物語ろう。
大井宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西6町半(約708m)、人口466人、家数110軒、本陣1、脇本陣1、旅籠41軒。江戸方から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場と続き、それぞれの町境に枡形の曲がり角が設けられていた。本陣は横町と本町の境、枡形の角にあり代々林家が務めてきた。西に十三峠を控え旅装を解く旅人も多かったのであろうか、美濃16宿中旅籠の数が最も多い。

大井宿江戸方外れ、五妙坂の坂下にある高札場。もちろん復元されたもので、元々は現在地とは違い、この坂上にあったようだ。

五妙坂から上横橋を渡り、最初の枡形を左折すれば横町である。枡形の角には延寿院横薬師という寺がある。

二つ目の枡形角にある大井宿本陣。枡形を右折すると本町の町並み。本陣の母屋部分は昭和22年(1947年)の火災で焼失してしまったが、表門周辺だけは不幸中の幸いにも焼け残った。門の傍らに見える松は樹齢300年を越えるという老松。

本陣の写真をもう1枚。どちらもいい感じで撮れていたので。

古山家は大井村の庄屋を務める傍ら、「菱屋」の屋号で酒造と商家を営んでいた。現在の建物は明治初期に上宿から移築されたもので、中山道ひし屋資料館として一般公開されている。

「宿役人の家」として説明板を掲げている林家は、文化2年(1805年)本陣家より分家した家柄で、明治に至るまでの60余年間、旅籠屋を営みながら上問屋を務めてきた。今更ながらではあるが、ここで言う問屋とは道中奉行の指図のもと、荷物や人の輸送、飛脚などの継立事務を行う責任者の立場にある宿役人のことである。

大井宿本町の町並み。上問屋の林家(写真左手前から2軒目)とその隣に明治天皇行在所となった岩井家(写真左手前)が見える。中山道を挟んで岩井家の向かいが下問屋だった。

本町と竪町の境、3つ目の枡形角にある旅館いち川。もとは「角屋」という旅籠だった。
恵那市の中心部に位置する大井宿。市街地にあるにもかかわらず、宿場の面影をよく留めている。宿内を貫く中山道は枡形の曲折が6ヶ所も設けられ、現在も右に左に折れ曲がりながらの道筋を残している。その特徴ある街道筋には本陣の門をはじめ、商家、町役人の家、庄屋等の建築が情緒ある佇まいを見せてくれ、訪れる人々にその歴史を物語ろう。
大井宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西6町半(約708m)、人口466人、家数110軒、本陣1、脇本陣1、旅籠41軒。江戸方から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場と続き、それぞれの町境に枡形の曲がり角が設けられていた。本陣は横町と本町の境、枡形の角にあり代々林家が務めてきた。西に十三峠を控え旅装を解く旅人も多かったのであろうか、美濃16宿中旅籠の数が最も多い。

大井宿江戸方外れ、五妙坂の坂下にある高札場。もちろん復元されたもので、元々は現在地とは違い、この坂上にあったようだ。

五妙坂から上横橋を渡り、最初の枡形を左折すれば横町である。枡形の角には延寿院横薬師という寺がある。

二つ目の枡形角にある大井宿本陣。枡形を右折すると本町の町並み。本陣の母屋部分は昭和22年(1947年)の火災で焼失してしまったが、表門周辺だけは不幸中の幸いにも焼け残った。門の傍らに見える松は樹齢300年を越えるという老松。

本陣の写真をもう1枚。どちらもいい感じで撮れていたので。

古山家は大井村の庄屋を務める傍ら、「菱屋」の屋号で酒造と商家を営んでいた。現在の建物は明治初期に上宿から移築されたもので、中山道ひし屋資料館として一般公開されている。

「宿役人の家」として説明板を掲げている林家は、文化2年(1805年)本陣家より分家した家柄で、明治に至るまでの60余年間、旅籠屋を営みながら上問屋を務めてきた。今更ながらではあるが、ここで言う問屋とは道中奉行の指図のもと、荷物や人の輸送、飛脚などの継立事務を行う責任者の立場にある宿役人のことである。

大井宿本町の町並み。上問屋の林家(写真左手前から2軒目)とその隣に明治天皇行在所となった岩井家(写真左手前)が見える。中山道を挟んで岩井家の向かいが下問屋だった。

本町と竪町の境、3つ目の枡形角にある旅館いち川。もとは「角屋」という旅籠だった。

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