太田宿・上町
【第34日目】2008年2月11日(月) 太田宿→鵜沼宿→加納宿
建国記念日を迎えた月曜日の早朝、部屋のカーテンから漏れる陽光に目を覚ますと、まずは窓から空模様を確認する。歩き旅は何はともあれ天気が一番気になるのであるが、幸いなことに空は雲と晴れ間が半々といったところでまずまずな感じ。しかし厳しい寒さであることは街の佇まいにうかがえ、これで雨でも降ろうものなら旅というより修行以外の何物でもない。できるだけの厚着に身支度を整えてルートイン美濃加茂を出立。白じむ息に手を温めながら太田宿へ。
飛騨街道や群上街道が分岐し、東へ向かう中山道は難所・太田の渡しが控える。そんな交通の要衝に位置する太田宿は、かつて東へ西へと行き交う旅人で賑わったのだろうが、今は静かな佇まいの町並み。宿場跡は美濃加茂市中心部からやや外れた位置にあるうえ、国道21号のルートからも外れているため、家並みや道筋に宿場の雰囲気を良く残している。
太田宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西6町32間(約679m)、人口505人、家数118軒、本陣1、脇本陣1、旅籠20軒。江戸方から上町、仲町、下町と続き、宿場外れのそれぞれに枡形が設けられている。宿場中心の中町に本陣・脇本陣と問屋場2軒があり、上町にも問屋場が1軒置かれていた。

美濃加茂市街の早朝。ホテルからの眺め。

太田宿の東側(江戸方)入口に位置する祐泉寺が今日のスタート地点。祐泉寺は寺伝によると文明6年(1474年)湧泉庵という庵が結ばれたことにはじまるという。この寺の裏手に中山道が通っている。

祐泉寺裏手の中山道。鉤の手の道筋はかつての枡形跡で、ここが太田宿東の入口だった。

東の枡形から先は太田宿上町である。旧旅籠小松屋の吉田家住宅が江戸時代末期という建築を残している。休憩所として内部公開されており、明治時代に活躍した小説家で翻訳家の坪内逍遥について展示がある。坪内逍遥はここ太田宿で尾張藩士の子として生まれた。

旧旅籠小松屋・吉田家住宅の内部。吉田家は江戸時代には伊勢参りの旅籠だったが、大正時代から戦前にかけて煙草の元売りを営んでいた。そのため内部は商家の色合いも残している。

整然と並ぶ和室に旅籠だった頃の面影を感じさせる。

太田宿上町の町並み。仲町付近から江戸方面を望む。
建国記念日を迎えた月曜日の早朝、部屋のカーテンから漏れる陽光に目を覚ますと、まずは窓から空模様を確認する。歩き旅は何はともあれ天気が一番気になるのであるが、幸いなことに空は雲と晴れ間が半々といったところでまずまずな感じ。しかし厳しい寒さであることは街の佇まいにうかがえ、これで雨でも降ろうものなら旅というより修行以外の何物でもない。できるだけの厚着に身支度を整えてルートイン美濃加茂を出立。白じむ息に手を温めながら太田宿へ。
飛騨街道や群上街道が分岐し、東へ向かう中山道は難所・太田の渡しが控える。そんな交通の要衝に位置する太田宿は、かつて東へ西へと行き交う旅人で賑わったのだろうが、今は静かな佇まいの町並み。宿場跡は美濃加茂市中心部からやや外れた位置にあるうえ、国道21号のルートからも外れているため、家並みや道筋に宿場の雰囲気を良く残している。
太田宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西6町32間(約679m)、人口505人、家数118軒、本陣1、脇本陣1、旅籠20軒。江戸方から上町、仲町、下町と続き、宿場外れのそれぞれに枡形が設けられている。宿場中心の中町に本陣・脇本陣と問屋場2軒があり、上町にも問屋場が1軒置かれていた。

美濃加茂市街の早朝。ホテルからの眺め。

太田宿の東側(江戸方)入口に位置する祐泉寺が今日のスタート地点。祐泉寺は寺伝によると文明6年(1474年)湧泉庵という庵が結ばれたことにはじまるという。この寺の裏手に中山道が通っている。

祐泉寺裏手の中山道。鉤の手の道筋はかつての枡形跡で、ここが太田宿東の入口だった。

東の枡形から先は太田宿上町である。旧旅籠小松屋の吉田家住宅が江戸時代末期という建築を残している。休憩所として内部公開されており、明治時代に活躍した小説家で翻訳家の坪内逍遥について展示がある。坪内逍遥はここ太田宿で尾張藩士の子として生まれた。

旧旅籠小松屋・吉田家住宅の内部。吉田家は江戸時代には伊勢参りの旅籠だったが、大正時代から戦前にかけて煙草の元売りを営んでいた。そのため内部は商家の色合いも残している。

整然と並ぶ和室に旅籠だった頃の面影を感じさせる。

太田宿上町の町並み。仲町付近から江戸方面を望む。





