垂井一里塚
垂井宿から垂井一里塚を経て日守の集落へ。この道中で特筆すべき垂井一里塚は久々に見る遺構を残した一里塚。たとえ路面がアスファルトに舗装されようとも、一里塚は旧街道の情緒をひき立ててくれる。また、付近は関ヶ原の戦いで東軍に属する浅野幸長が陣を敷いた場所でもある。幸長は豊臣五奉行の一人、浅野長政の嫡男であるが、石田三成と色々確執があって徳川方についた。いよいよ関ヶ原が近い。

垂井宿を出ると、左手に朱色の鳥居を並べる松島稲荷神社がある。

松島稲荷神社は天保10年(1839年)に五穀豊穣を願って伏見稲荷を勧請し創建された。この年は天保の大飢饉がようやく沈静化に向かう頃で、神社の由来には飢饉と何らかの関係がありそうだ。昔、この辺りの中山道は松並木で、その沿道に松島と呼ばれる小村があった。

旧中山道は出屋敷踏切で東海道本線を渡り、日守交差点で国道21号を横切る。

「南宮江近道八町」と刻まれた道標を見つける。ここから南宮大社への近道があったようだ。
中山道沿いに旧街道の風情を残す日守の茶所。もともとは江戸末期に美濃獅子門化月坊という僧侶が建てた庵で、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)にあった。明治になって現在地に移され中山道を通行する旅人の休み場として利用された。この茶所の裏手が垂井一里塚である。

垂井一里塚は南側の一基だけがほぼ完全な形で残っている貴重なもの。中山道ではここと東京都板橋区にある志村一里塚だけが国指定史跡となっている。

旧中山道は垂井町の日守から関ヶ原町の野上へ。その沿道に喫茶・軽食店の中仙道 好(このみ)という店がある。気にはなったが、時間がおしていたので寄らず・・・。

野上の中仙道沿道にて。

美濃国二の宮であった伊富岐神社の鳥居。一の宮の南宮大社と同じように、旧中山道に面して鳥居を構えている。

野上の集落を流れる平木川。小さな流れであるが土石流危険渓流である。

野上の集落を行く旧中山道。付近には関ヶ原の戦いで徳川家康が最初に陣を構えた桃配山がある。いよいよ天下分け目の関ヶ原が近い。

垂井宿を出ると、左手に朱色の鳥居を並べる松島稲荷神社がある。

松島稲荷神社は天保10年(1839年)に五穀豊穣を願って伏見稲荷を勧請し創建された。この年は天保の大飢饉がようやく沈静化に向かう頃で、神社の由来には飢饉と何らかの関係がありそうだ。昔、この辺りの中山道は松並木で、その沿道に松島と呼ばれる小村があった。

旧中山道は出屋敷踏切で東海道本線を渡り、日守交差点で国道21号を横切る。

「南宮江近道八町」と刻まれた道標を見つける。ここから南宮大社への近道があったようだ。
中山道沿いに旧街道の風情を残す日守の茶所。もともとは江戸末期に美濃獅子門化月坊という僧侶が建てた庵で、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)にあった。明治になって現在地に移され中山道を通行する旅人の休み場として利用された。この茶所の裏手が垂井一里塚である。
垂井一里塚は南側の一基だけがほぼ完全な形で残っている貴重なもの。中山道ではここと東京都板橋区にある志村一里塚だけが国指定史跡となっている。

旧中山道は垂井町の日守から関ヶ原町の野上へ。その沿道に喫茶・軽食店の中仙道 好(このみ)という店がある。気にはなったが、時間がおしていたので寄らず・・・。

野上の中仙道沿道にて。

美濃国二の宮であった伊富岐神社の鳥居。一の宮の南宮大社と同じように、旧中山道に面して鳥居を構えている。

野上の集落を流れる平木川。小さな流れであるが土石流危険渓流である。

野上の集落を行く旧中山道。付近には関ヶ原の戦いで徳川家康が最初に陣を構えた桃配山がある。いよいよ天下分け目の関ヶ原が近い。





