壬申の乱
今から1300年以上も昔の645年、中大兄皇子こと後の天智天皇と中臣鎌足が、政治の中枢を牛耳っていた豪族蘇我入鹿を暗殺し、天皇中心の政治に転換させた出来事は大化の改新と呼ばれ、『蒸し米食べて、大化の改新』とその年号を暗記している方も多いことだろう。それから27年後の672年に天智天皇が死去すると、天皇第一皇子である大友皇子と天皇弟の大海人皇子との間で有力豪族を巻き込んだ後継者争いが勃発した。これを壬申の乱という。
壬申の乱は琵琶湖周辺の近畿地方を舞台とし、その方々で数々の合戦を巻き起こした。ここ東山道の美濃不破関跡付近でも藤古川を挟んで両軍が対峙し激突。周辺には当時の壮絶な戦いを伝える史跡が点在し、旧中山道を歩きながらにして壬申の乱の舞台を探ることができるという歴史好きにはたまらないコースとなっている。壬申の乱は最終的に大海人皇子が勝利して天武天皇となり、敗者の大友皇子は自害という結末を辿る。しかし一説に、大友皇子は后や僅かな配下を伴って密かに東国へ逃れたともあり、千葉県君津市や神奈川県伊勢原市に大友皇子に関する史跡が残っている。

不破関跡から西へ向かうと間もなく藤古川にさしかかる。不破関近くを流れることから、古くは関の藤川と呼ばれた。壬申の乱ではこの川を挟んで西側に大友皇子の軍勢、東側に大海人皇子の軍勢が陣を敷いて対峙し、壮絶な合戦が繰り広げられた。

藤古川の西側は藤下の集落で、矢尻の池と呼ばれる窪みが残っている。これは壬申の乱の際、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと伝わる。しかし池といっても水溜りのような小さなもので、ほとんど水気もなく落葉で埋め尽くされていた。何せ1300年以上も前のことだからねぇ・・・。

藤下の集落にて。
俺「タ・・・タヌキ?」
猫「だ・・・誰がタヌキやねん!」
みたいな雰囲気。

藤下から国道21号を越えると旧中山道は山中へ。

山中の集落にある若宮八幡神社は、参道が東海道本線の線路に阻まれ、踏切も無いという珍しい神社で、参拝するには電車の往来に注意が必要。この神社の祭神は壬申の乱に敗れた大友皇子。関ヶ原合戦の戦災に遭い焼失したが、後に徳川家康によって再建された。

山中の集落を行く旧中山道。山中は古代東山道の宿駅だった集落で、壬申の乱では合戦の舞台ともなった。

山中の集落に流れる黒血川。壬申の乱の激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから黒血川と呼ばれるようになったという。今は静かで穏やかに小川が流れる。

山中集落を流れる黒血川には鶯の滝と呼ばれる滝がある。落差約5m程度の滝であるが、水量豊富で年中鶯が鳴く風光明媚な場所だったらしい。この辺りでは珍しい平坦地にある滝だったことから、中山道を往来する旅人には憩いの場所として重宝されたようだ。

東海道新幹線の下を潜り抜けて。右へ分岐するの道が旧中山道。

山中の集落の西外れまで来ると、常盤御前のものと伝わる墓がある。都随一の美女と言われた常盤御前は源義朝の愛妾となり、3人の男児をもうけた。その三男が牛若丸(後の源義経)である。義朝が平治の乱で平清盛に敗れ、牛若丸らが捕らえられると、母の必死の命乞いによって助命されたことは有名な話しだ。晩年、異母兄の頼朝と対立し奥州平泉へ都落ちした義経の後を追うのだが、その途中土賊に襲われこの付近で息を引き取ったという。しかし、晩年の常盤御前に関する記録は無く、あくまで伝説の話なのだが・・・。
壬申の乱は琵琶湖周辺の近畿地方を舞台とし、その方々で数々の合戦を巻き起こした。ここ東山道の美濃不破関跡付近でも藤古川を挟んで両軍が対峙し激突。周辺には当時の壮絶な戦いを伝える史跡が点在し、旧中山道を歩きながらにして壬申の乱の舞台を探ることができるという歴史好きにはたまらないコースとなっている。壬申の乱は最終的に大海人皇子が勝利して天武天皇となり、敗者の大友皇子は自害という結末を辿る。しかし一説に、大友皇子は后や僅かな配下を伴って密かに東国へ逃れたともあり、千葉県君津市や神奈川県伊勢原市に大友皇子に関する史跡が残っている。

不破関跡から西へ向かうと間もなく藤古川にさしかかる。不破関近くを流れることから、古くは関の藤川と呼ばれた。壬申の乱ではこの川を挟んで西側に大友皇子の軍勢、東側に大海人皇子の軍勢が陣を敷いて対峙し、壮絶な合戦が繰り広げられた。

藤古川の西側は藤下の集落で、矢尻の池と呼ばれる窪みが残っている。これは壬申の乱の際、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと伝わる。しかし池といっても水溜りのような小さなもので、ほとんど水気もなく落葉で埋め尽くされていた。何せ1300年以上も前のことだからねぇ・・・。

藤下の集落にて。
俺「タ・・・タヌキ?」
猫「だ・・・誰がタヌキやねん!」
みたいな雰囲気。

藤下から国道21号を越えると旧中山道は山中へ。

山中の集落にある若宮八幡神社は、参道が東海道本線の線路に阻まれ、踏切も無いという珍しい神社で、参拝するには電車の往来に注意が必要。この神社の祭神は壬申の乱に敗れた大友皇子。関ヶ原合戦の戦災に遭い焼失したが、後に徳川家康によって再建された。

山中の集落を行く旧中山道。山中は古代東山道の宿駅だった集落で、壬申の乱では合戦の舞台ともなった。

山中の集落に流れる黒血川。壬申の乱の激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから黒血川と呼ばれるようになったという。今は静かで穏やかに小川が流れる。

山中集落を流れる黒血川には鶯の滝と呼ばれる滝がある。落差約5m程度の滝であるが、水量豊富で年中鶯が鳴く風光明媚な場所だったらしい。この辺りでは珍しい平坦地にある滝だったことから、中山道を往来する旅人には憩いの場所として重宝されたようだ。

東海道新幹線の下を潜り抜けて。右へ分岐するの道が旧中山道。

山中の集落の西外れまで来ると、常盤御前のものと伝わる墓がある。都随一の美女と言われた常盤御前は源義朝の愛妾となり、3人の男児をもうけた。その三男が牛若丸(後の源義経)である。義朝が平治の乱で平清盛に敗れ、牛若丸らが捕らえられると、母の必死の命乞いによって助命されたことは有名な話しだ。晩年、異母兄の頼朝と対立し奥州平泉へ都落ちした義経の後を追うのだが、その途中土賊に襲われこの付近で息を引き取ったという。しかし、晩年の常盤御前に関する記録は無く、あくまで伝説の話なのだが・・・。





