源義経元服の地
平治元年(1159年)源義朝の九男で常盤御前の子として生まれる。幼名を牛若丸、後に父の義朝が平治の乱で平清盛に敗死すると、京の鞍馬寺に預けられ遮那王(しゃなおう)を名乗った。さて、誰でしょう?
人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!と怒られそうな気もするが、そう、正解は判官贔屓の日本人が誰もが好きな源義経。鏡の宿は遮那王こと源義経が奥州平泉の藤原秀衡の元へ下る途次、元服を果たした地として知られる。中世東山道の宿駅として古くから家々を連ねた鏡の宿は、中山道が整備された江戸時代に宿場にはならなかったが、武佐宿と守山宿間の距離が約16kmと長かったため、間の宿として賑わった。
日野川から西横関を経て鏡の宿へ。

日野川土手から鏡山を望む。旧中山道は日野川から鏡山の麓へ向かって延びる。

西横関の集落に鎮座する若宮神社。

西横関町を行く旧中山道。

旧道は国道8号へ合流し鏡の集落へ向かう。

旧中山道は国道8号をいったん離れ鏡の集落へ。

かつて間の宿として賑わった鏡の中心は、国道8号が貫いてしまった。写真は旅籠の吉田屋跡。

万葉の女流歌人額田王(ぬかたのおおきみ)の父、鏡王(かがみのおお)が葬られる真照寺。

中世東山道の時代、旅籠”白木屋”があった所。さすがに当時のものではないだろうが、近年まで茅葺屋根の建物が残っていたという。現在はその跡地に”源義経宿泊の館跡”の石碑が建てられている。義経はここで源氏の象徴である左折れの烏帽子を作り元服したと伝わる。

鏡の宿本陣跡付近の町並み。写真右手前がその本陣跡。東山道であり中山道だった街道は、国道8号へと変貌してしまったため、町並みに往時の面影は残っていない。

本殿は南北朝時代の建築という鏡神社。源義経が元服に際して参拝したと伝わる。

源義経が参拝したときに烏帽子を掛けたと伝わる”烏帽子掛けの松”。明治6年(1873年)の台風で折れてしまったため、幹の一部分だけが保存されている。

鏡の宿の町並み。鏡神社付近から江戸方面を望む。

義経元服の地の最後を飾るのはその名も元服の池。義経はこの池の水を使い元服したと伝わる。小さな池ではあるが今も水を湛え、義経伝説を今に語る。

道の駅・竜王かがみの里。灼熱のアスファルト砂漠を歩いている最中、まさにここはオアシスだった。昼食を取り1時間程休憩。屋外で焼き栗を煎っていたが、さすがにこの暑さでは・・・。
人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!と怒られそうな気もするが、そう、正解は判官贔屓の日本人が誰もが好きな源義経。鏡の宿は遮那王こと源義経が奥州平泉の藤原秀衡の元へ下る途次、元服を果たした地として知られる。中世東山道の宿駅として古くから家々を連ねた鏡の宿は、中山道が整備された江戸時代に宿場にはならなかったが、武佐宿と守山宿間の距離が約16kmと長かったため、間の宿として賑わった。
日野川から西横関を経て鏡の宿へ。

日野川土手から鏡山を望む。旧中山道は日野川から鏡山の麓へ向かって延びる。

西横関の集落に鎮座する若宮神社。

西横関町を行く旧中山道。

旧道は国道8号へ合流し鏡の集落へ向かう。

旧中山道は国道8号をいったん離れ鏡の集落へ。

かつて間の宿として賑わった鏡の中心は、国道8号が貫いてしまった。写真は旅籠の吉田屋跡。

万葉の女流歌人額田王(ぬかたのおおきみ)の父、鏡王(かがみのおお)が葬られる真照寺。

中世東山道の時代、旅籠”白木屋”があった所。さすがに当時のものではないだろうが、近年まで茅葺屋根の建物が残っていたという。現在はその跡地に”源義経宿泊の館跡”の石碑が建てられている。義経はここで源氏の象徴である左折れの烏帽子を作り元服したと伝わる。

鏡の宿本陣跡付近の町並み。写真右手前がその本陣跡。東山道であり中山道だった街道は、国道8号へと変貌してしまったため、町並みに往時の面影は残っていない。

本殿は南北朝時代の建築という鏡神社。源義経が元服に際して参拝したと伝わる。

源義経が参拝したときに烏帽子を掛けたと伝わる”烏帽子掛けの松”。明治6年(1873年)の台風で折れてしまったため、幹の一部分だけが保存されている。

鏡の宿の町並み。鏡神社付近から江戸方面を望む。

義経元服の地の最後を飾るのはその名も元服の池。義経はこの池の水を使い元服したと伝わる。小さな池ではあるが今も水を湛え、義経伝説を今に語る。

道の駅・竜王かがみの里。灼熱のアスファルト砂漠を歩いている最中、まさにここはオアシスだった。昼食を取り1時間程休憩。屋外で焼き栗を煎っていたが、さすがにこの暑さでは・・・。





