中田宿
【2009年7月25日(土) 旧日光街道 中田宿】
中田宿は利根川を挟んだ栗橋宿の対岸にあった宿場町であるが、現在は河川敷と化し、当然ながら往時を偲ぶものどころか、宿内の街道がどこを通っていたのかも正確にわからない。宿場は川岸から船戸・山の内・仲宿(中町)・上宿(上町)と約530mに渡って続いていたが、大正期から昭和期にかけての利根川改修によって移転を余儀なくされ、今となっては全く往時を偲ぶことができなくなってしまった。天保14年(1843年)当時の中田宿は人口403人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠6軒という小規模な宿場町。


利根川の河川敷に消えた中田宿。この河川敷の中に本陣や脇本陣、問屋場があったと言われても、今や想像することすら難しい。中田宿の跡地と書く意外に言葉が無い。

堤防上から中田の町並みを望む。この堤防上に立ち、だだっ広い河川敷と今の中田の町を眺めるとと、宿場や家を守ってきた先人たちの苦労や悲哀を感じてしまうのだ。

中田の町並み。

養和元年(1181)年創建と伝わる中田の鎮守、鶴峯八幡神社。源頼朝が奥州征伐の際に戦勝祈願し、宿願果たされた後に相模国の鶴岡八幡宮から分霊を勧請して現社名となった。新田義貞も北条高時追討の際に祈願に訪れ、戦勝を得たという。明治44年(1911年)利根川改修によって現在地へ移転した。

一風変わった佇まいの古河中田郵便局。建物は現代的な和風建築であるが、中田が宿場町だったことを考慮してデザインされたんでしょうね。

静御前ゆかりと伝わる光了寺。当初は高柳寺と称して栗橋宿近辺にあったが、後に現在地へ移転し光了寺と称した。奥州に逃れた源義経を追って栗橋まで来た静御前が高柳寺に宿泊したと伝わり、光了寺には後白河院から賜ったという静御前の舞衣「蛙蟆龍(あまりょう)の御衣」が保管されている。静御前は栗橋から奥州へ向かう途中に義経の死を知り病死したという説をここでは採るが、静御前終焉の地は全国各地に伝わっており、その最期も諸説あって定かではない。
中田宿は利根川を挟んだ栗橋宿の対岸にあった宿場町であるが、現在は河川敷と化し、当然ながら往時を偲ぶものどころか、宿内の街道がどこを通っていたのかも正確にわからない。宿場は川岸から船戸・山の内・仲宿(中町)・上宿(上町)と約530mに渡って続いていたが、大正期から昭和期にかけての利根川改修によって移転を余儀なくされ、今となっては全く往時を偲ぶことができなくなってしまった。天保14年(1843年)当時の中田宿は人口403人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠6軒という小規模な宿場町。


利根川の河川敷に消えた中田宿。この河川敷の中に本陣や脇本陣、問屋場があったと言われても、今や想像することすら難しい。中田宿の跡地と書く意外に言葉が無い。

堤防上から中田の町並みを望む。この堤防上に立ち、だだっ広い河川敷と今の中田の町を眺めるとと、宿場や家を守ってきた先人たちの苦労や悲哀を感じてしまうのだ。

中田の町並み。

養和元年(1181)年創建と伝わる中田の鎮守、鶴峯八幡神社。源頼朝が奥州征伐の際に戦勝祈願し、宿願果たされた後に相模国の鶴岡八幡宮から分霊を勧請して現社名となった。新田義貞も北条高時追討の際に祈願に訪れ、戦勝を得たという。明治44年(1911年)利根川改修によって現在地へ移転した。

一風変わった佇まいの古河中田郵便局。建物は現代的な和風建築であるが、中田が宿場町だったことを考慮してデザインされたんでしょうね。

静御前ゆかりと伝わる光了寺。当初は高柳寺と称して栗橋宿近辺にあったが、後に現在地へ移転し光了寺と称した。奥州に逃れた源義経を追って栗橋まで来た静御前が高柳寺に宿泊したと伝わり、光了寺には後白河院から賜ったという静御前の舞衣「蛙蟆龍(あまりょう)の御衣」が保管されている。静御前は栗橋から奥州へ向かう途中に義経の死を知り病死したという説をここでは採るが、静御前終焉の地は全国各地に伝わっており、その最期も諸説あって定かではない。

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