古河宿
【旧日光街道歩き 第4日目】古河宿→野木宿→間々田宿→小山宿
【2009年8月22日(土) 旧日光街道 古河宿】
古河宿は江戸時代に近代城郭として整備された古河城の下で発展してきた宿場町。しかしながらその歴史は古く、平安時代には渡良瀬川沿岸を中心に古河の町が開け、奥州方面を往来する旅人を相手にする宿場が存在していたようだ。奈良時代編纂の「万葉集」巻十四の東歌に、”許我”(こが)と記述されて二首に登場していることから、その歴史の古さは折り紙つきなのである。そのうちの一首が古河駅前にある「万葉の歌碑」に記されている。
逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我こぐ船に 君も逢はぬかも
男が読んだのか、女が読んだのかわからないが、いずれにしても淡い恋心を存分に感じさせてくれるいい歌である。この歌を送られた相手はどうしたのだろうと、今から約1300年も前のことながら余計な心配をしてしまう。日光街道・奥州街道の第九宿となる古河宿は、天保14年(1843年)当時の記録によると人口3865人、家数1105軒、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒。城下町にあっただけに隣の中田宿や野木宿とは比べものにならないくらいにデカい。

古河宿は近代化した町並みの中を幅広な県道が通り、往時の様子をうかがい知ることはできない。

旧日光街道に面する古河城御茶屋口門跡。歴代徳川将軍の日光社参の折、古河城内への入城に利用されたのがここ御茶屋口である。江戸初期のごく僅かな期間、将軍をもてなす茶屋があったことからこの名が付けられた。百聞は一見にしかず、古河市教育委員会設置の案内板に載っていた古河城御成道の推定図を参照してほしい。

古河宿にて。こういった配慮はとても好感がもてます。

古河宿・中央町付近の町並み。”古河名物 八萬石最中 釜屋”今になり気になったので写真を載せてみました・・・。

古河宿本陣跡は足利銀行の隣にあるジョイパティオという複合型店舗に化している。本陣跡がフィリピンパブやキャバクラになってしまっていることが、ちょっとだけ悲しい・・・。

県道261号 野木古河線と県道294号の分岐点が、かつての日光街道・筑波道の追分である。写真奥から交差点を右折する道筋が旧日光街道で、左折すると筑波山へ向かう道である。

日光街道と筑波道の追分道標。元々あった場所から少し離れた旧日光街道沿いに置かれている。この道標は太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって文久元年(1861年)に建立された。

かつて花街を形成していた”よこまち柳通り”。古河宿内の宿場らしさを最も残している。

よこまち柳通りの中心にある武蔵屋本店。かつては遊女屋か芸妓屋を営んでいたのだろうと思わせる佇まいであるが、現在は老舗の川魚料理店となっている。この日は店前を通り過ぎるだけになってしまったが、ここ武蔵屋本店と越谷にあった温鈍屋の鰻は他日を期して必ず食べたい。

よこまち柳通りの町並み。

初代古河藩主小笠原氏によって創建されたという正麟寺。”大塩平八郎の乱”の鎮圧に大きな功があった土井利位(どいとしつら)が藩主の時、古河藩家老を務めた鷹見泉石の墓があることで知られる。古河を語るうえで絶対に外せない鷹見泉石なのだが、詳細は次の記事に譲ることにする。

よこまち柳通りの北端、つまり古河宿の北外れにあたる本成寺。古河藩五代藩主土井利益の生母(法清院殿)の墓がある。また、土井家の藩医を務め、明和9年(1772年)に解剖学の先駆となる「解屍編」を著した河口信任もここに眠っている。
【2009年8月22日(土) 旧日光街道 古河宿】
古河宿は江戸時代に近代城郭として整備された古河城の下で発展してきた宿場町。しかしながらその歴史は古く、平安時代には渡良瀬川沿岸を中心に古河の町が開け、奥州方面を往来する旅人を相手にする宿場が存在していたようだ。奈良時代編纂の「万葉集」巻十四の東歌に、”許我”(こが)と記述されて二首に登場していることから、その歴史の古さは折り紙つきなのである。そのうちの一首が古河駅前にある「万葉の歌碑」に記されている。
逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我こぐ船に 君も逢はぬかも
男が読んだのか、女が読んだのかわからないが、いずれにしても淡い恋心を存分に感じさせてくれるいい歌である。この歌を送られた相手はどうしたのだろうと、今から約1300年も前のことながら余計な心配をしてしまう。日光街道・奥州街道の第九宿となる古河宿は、天保14年(1843年)当時の記録によると人口3865人、家数1105軒、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒。城下町にあっただけに隣の中田宿や野木宿とは比べものにならないくらいにデカい。

古河宿は近代化した町並みの中を幅広な県道が通り、往時の様子をうかがい知ることはできない。


旧日光街道に面する古河城御茶屋口門跡。歴代徳川将軍の日光社参の折、古河城内への入城に利用されたのがここ御茶屋口である。江戸初期のごく僅かな期間、将軍をもてなす茶屋があったことからこの名が付けられた。百聞は一見にしかず、古河市教育委員会設置の案内板に載っていた古河城御成道の推定図を参照してほしい。

古河宿にて。こういった配慮はとても好感がもてます。

古河宿・中央町付近の町並み。”古河名物 八萬石最中 釜屋”今になり気になったので写真を載せてみました・・・。


古河宿本陣跡は足利銀行の隣にあるジョイパティオという複合型店舗に化している。本陣跡がフィリピンパブやキャバクラになってしまっていることが、ちょっとだけ悲しい・・・。


県道261号 野木古河線と県道294号の分岐点が、かつての日光街道・筑波道の追分である。写真奥から交差点を右折する道筋が旧日光街道で、左折すると筑波山へ向かう道である。

日光街道と筑波道の追分道標。元々あった場所から少し離れた旧日光街道沿いに置かれている。この道標は太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって文久元年(1861年)に建立された。

かつて花街を形成していた”よこまち柳通り”。古河宿内の宿場らしさを最も残している。

よこまち柳通りの中心にある武蔵屋本店。かつては遊女屋か芸妓屋を営んでいたのだろうと思わせる佇まいであるが、現在は老舗の川魚料理店となっている。この日は店前を通り過ぎるだけになってしまったが、ここ武蔵屋本店と越谷にあった温鈍屋の鰻は他日を期して必ず食べたい。

よこまち柳通りの町並み。

初代古河藩主小笠原氏によって創建されたという正麟寺。”大塩平八郎の乱”の鎮圧に大きな功があった土井利位(どいとしつら)が藩主の時、古河藩家老を務めた鷹見泉石の墓があることで知られる。古河を語るうえで絶対に外せない鷹見泉石なのだが、詳細は次の記事に譲ることにする。

よこまち柳通りの北端、つまり古河宿の北外れにあたる本成寺。古河藩五代藩主土井利益の生母(法清院殿)の墓がある。また、土井家の藩医を務め、明和9年(1772年)に解剖学の先駆となる「解屍編」を著した河口信任もここに眠っている。

- 関連記事
-
- いざ下野国こと、栃木県へ
- 古河城と古河藩
- 古河宿
- 中田の松原
- 中田宿
スポンサーサイト