小山城址
【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小山宿】
小山城の正式な名称は祇園城という。現在では小山城と呼んだほうが一般的なので、ここではこの名称に従う。小山城の起源は平安時代にまで溯り、藤原秀郷が築いたとも、その後裔の小山政光によって築かれたとも言われ、築城時に守り神として祇園社(現 須賀神社)を祀ったことから祇園城と名付けられたという。しかし、記録に見えるのは小山氏が居城としていた14世紀後半頃からで、正確な築城者や築造年代については不明である。小山城は鎌倉・室町時代の中世に渡って幾多の戦乱を潜り抜けながら小山氏が居城としてきたが、戦国乱世の時代になると上杉謙信や北条氏政といった有力大名に攻略され、終には天正18年(1590年)の豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすに至る小田原征伐に参陣しなかったため、小山城は豊臣方の結城氏に攻め落とされ小山氏は追放された。

時代は戦国時代終末期となる慶長5年(1600年)、秀吉の死後に国政の実権を握った徳川家康が、会津の上杉景勝討伐に向かう途次、石田三成挙兵の報を受けて急遽開かれた軍議が小山評定である。その場所は小山城内だった現在の市役所辺りと言われている。小山評定から関ヶ原合戦へと向かう歴史の動きについては、ここで語るべくもないだろう。江戸幕府が成立してからは本多正純が小山城に3万石で入封したが、元和5年(1619年)宇都宮へ移封と同時に小山城は廃城となる。後に将軍休泊用の小山御殿が城内に設けられたのだが、その御殿も天和元年(1681年)の台風で一部倒壊し、翌年には解体された。幕末には完全に城跡と化していたようで、当時の様子を再び清河八郎の言を借りて紹介することにしよう。
『千駄塚村を過、粟の宮をとふり、一里半にて小山宿にいたる。至てよろしき宿なり。西に小山判官朝政の城跡あり。東西五丁、南北四丁、全城郭構なり。惣堀、土手、井戸共にあり。土居に松杉の大木有。切岸高く、屏風の如くにて、人馬通行相成がたく、深さ壱丈余、巾五、六尺あらざるとぞ。』清河八郎「西遊草」より。
小山城址を敢えて小山判官朝政の城跡と書いているところが気になった。江戸時代の人なら、同時代人として馴染み深い本多正純の城跡と書きそうなものなのだが、おそらくこれは「吾妻鏡」の影響を受けてのものなのだろう。それとも既に徳川幕府に見切りをつけていた清河八郎は、本多の名を書く気にもならかなかったのだろうか…。奇妙なり八郎!

小山市役所の敷地内にある小山評定跡の碑。まさに、歴史が動いた場所である。

同じく小山市役所敷地内にある小山御殿跡。見ての通り現在発掘調査中。小山御殿は小山評定の吉例にならい、この場所に建てられたという。

観晃橋より小山城址を望む。思川東岸の丘陵地に築かれた小山城は、西方が川の侵食によって形成された崖に守られる天然の要害地。江戸初期に廃城になっているにもかかわらず、土塁や空堀などの遺構が状態良く残っている。

思川にて。

小山城本丸跡。

小山城址より観晃橋と思川を望む。

本丸曲輪と馬出し曲輪を繋ぐ祗園橋。橋の下は深い空堀となっており、かつては結城道の道筋になっていた。

小山城馬出し曲輪跡と空堀跡。小山城址は縄張りの様子も良く留めており見ごたえがある。

小山城址の大銀杏。落城の際に井戸へ身を投げた姫君の霊が宿り、実を付けなくなったと伝わり”実なしイチョウ”とも呼ばれる。晩秋を迎えると黄金色の美しい葉に包まれるのだろう。

旧結城道の空堀底から祗園橋を望む。「切岸高く、屏風の如くにて…」清河八郎が語る通りの深い空堀と土塁は今も健在である。
小山城の正式な名称は祇園城という。現在では小山城と呼んだほうが一般的なので、ここではこの名称に従う。小山城の起源は平安時代にまで溯り、藤原秀郷が築いたとも、その後裔の小山政光によって築かれたとも言われ、築城時に守り神として祇園社(現 須賀神社)を祀ったことから祇園城と名付けられたという。しかし、記録に見えるのは小山氏が居城としていた14世紀後半頃からで、正確な築城者や築造年代については不明である。小山城は鎌倉・室町時代の中世に渡って幾多の戦乱を潜り抜けながら小山氏が居城としてきたが、戦国乱世の時代になると上杉謙信や北条氏政といった有力大名に攻略され、終には天正18年(1590年)の豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすに至る小田原征伐に参陣しなかったため、小山城は豊臣方の結城氏に攻め落とされ小山氏は追放された。

時代は戦国時代終末期となる慶長5年(1600年)、秀吉の死後に国政の実権を握った徳川家康が、会津の上杉景勝討伐に向かう途次、石田三成挙兵の報を受けて急遽開かれた軍議が小山評定である。その場所は小山城内だった現在の市役所辺りと言われている。小山評定から関ヶ原合戦へと向かう歴史の動きについては、ここで語るべくもないだろう。江戸幕府が成立してからは本多正純が小山城に3万石で入封したが、元和5年(1619年)宇都宮へ移封と同時に小山城は廃城となる。後に将軍休泊用の小山御殿が城内に設けられたのだが、その御殿も天和元年(1681年)の台風で一部倒壊し、翌年には解体された。幕末には完全に城跡と化していたようで、当時の様子を再び清河八郎の言を借りて紹介することにしよう。
『千駄塚村を過、粟の宮をとふり、一里半にて小山宿にいたる。至てよろしき宿なり。西に小山判官朝政の城跡あり。東西五丁、南北四丁、全城郭構なり。惣堀、土手、井戸共にあり。土居に松杉の大木有。切岸高く、屏風の如くにて、人馬通行相成がたく、深さ壱丈余、巾五、六尺あらざるとぞ。』清河八郎「西遊草」より。
小山城址を敢えて小山判官朝政の城跡と書いているところが気になった。江戸時代の人なら、同時代人として馴染み深い本多正純の城跡と書きそうなものなのだが、おそらくこれは「吾妻鏡」の影響を受けてのものなのだろう。それとも既に徳川幕府に見切りをつけていた清河八郎は、本多の名を書く気にもならかなかったのだろうか…。奇妙なり八郎!

小山市役所の敷地内にある小山評定跡の碑。まさに、歴史が動いた場所である。

同じく小山市役所敷地内にある小山御殿跡。見ての通り現在発掘調査中。小山御殿は小山評定の吉例にならい、この場所に建てられたという。

観晃橋より小山城址を望む。思川東岸の丘陵地に築かれた小山城は、西方が川の侵食によって形成された崖に守られる天然の要害地。江戸初期に廃城になっているにもかかわらず、土塁や空堀などの遺構が状態良く残っている。

思川にて。

小山城本丸跡。

小山城址より観晃橋と思川を望む。

本丸曲輪と馬出し曲輪を繋ぐ祗園橋。橋の下は深い空堀となっており、かつては結城道の道筋になっていた。


小山城馬出し曲輪跡と空堀跡。小山城址は縄張りの様子も良く留めており見ごたえがある。

小山城址の大銀杏。落城の際に井戸へ身を投げた姫君の霊が宿り、実を付けなくなったと伝わり”実なしイチョウ”とも呼ばれる。晩秋を迎えると黄金色の美しい葉に包まれるのだろう。

旧結城道の空堀底から祗園橋を望む。「切岸高く、屏風の如くにて…」清河八郎が語る通りの深い空堀と土塁は今も健在である。

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