新田宿
【2009年10月4日(日) 旧日光街道 新田宿】
日光・奥州街道の第13宿となる新田宿。天保14年(1843年)当時の記録によると人口244人、家数59軒、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒という宿場規模で、日光道中で最も人口が少ない。その記録が示す通り、寂れた小さな宿場だったようで、幕末の様子を清河八郎の言葉を借りると「芋から新田といふみにくき宿をすぎ、廿九丁にて小金井にいたり…」と述べられ、”みにくき宿”などというこっ酷い表現が使われている。ちなみに”芋から新田”とは”芋柄新田”のことで、新田は芋柄新田とも呼ばれていたことによる。明治6年(1873年)に新田宿は羽川宿と改称されたため、現在新田宿周辺は小山市羽川という地名となっており、芋柄新田の名は歴史の中に葬られた。私の勝手な推測であるが芋柄(うから)が転訛して”うかわ”となって”羽川”の字が当てられ、更に訓読みとなって”はねかわ”という名が誕生したのではなかろうか。

新田宿南側の町並み。予備知識がなければ、ここが宿場町だったとは誰も思わないだろう。

新田宿にて。

新田宿中心部の町並み。脇本陣跡辺りから斜向かいに本陣跡を望む。悲しくなるぐらいに宿場の面影は無くなっている。

新田宿本陣を務めた青木家。当時の本陣門を残している。

新田宿の人々を見守ってきた羽川薬師堂。江戸中期、小金井の慈眼寺末寺に玉性院という寺が新田宿にあり、その住職が宿場の安寧を願い薬師如来を祀って御堂を建立したことに創建の由来がある。時期は不明であるが玉性院は廃寺となり、この薬師堂だけが残されたようだ。

新田宿の北外れから参道が延びる橿原(かしはら)神社。新田宿だった頃は星宮神社として鎮座していたが、明治5年(1872年)祭神を九州の宮崎神宮より勧請して橿原神社と名を改め創建された。翌年、新田宿も羽川宿に名が改められている。明治39年(1906年)汽車からの飛び火により社殿が焼失し大正3年(1914年)に再建。近年になって東北新幹線が着工されるにあたり、昭和49年(1974年)西側の現在地へ移転した。
日光・奥州街道の第13宿となる新田宿。天保14年(1843年)当時の記録によると人口244人、家数59軒、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒という宿場規模で、日光道中で最も人口が少ない。その記録が示す通り、寂れた小さな宿場だったようで、幕末の様子を清河八郎の言葉を借りると「芋から新田といふみにくき宿をすぎ、廿九丁にて小金井にいたり…」と述べられ、”みにくき宿”などというこっ酷い表現が使われている。ちなみに”芋から新田”とは”芋柄新田”のことで、新田は芋柄新田とも呼ばれていたことによる。明治6年(1873年)に新田宿は羽川宿と改称されたため、現在新田宿周辺は小山市羽川という地名となっており、芋柄新田の名は歴史の中に葬られた。私の勝手な推測であるが芋柄(うから)が転訛して”うかわ”となって”羽川”の字が当てられ、更に訓読みとなって”はねかわ”という名が誕生したのではなかろうか。

新田宿南側の町並み。予備知識がなければ、ここが宿場町だったとは誰も思わないだろう。

新田宿にて。

新田宿中心部の町並み。脇本陣跡辺りから斜向かいに本陣跡を望む。悲しくなるぐらいに宿場の面影は無くなっている。

新田宿本陣を務めた青木家。当時の本陣門を残している。

新田宿の人々を見守ってきた羽川薬師堂。江戸中期、小金井の慈眼寺末寺に玉性院という寺が新田宿にあり、その住職が宿場の安寧を願い薬師如来を祀って御堂を建立したことに創建の由来がある。時期は不明であるが玉性院は廃寺となり、この薬師堂だけが残されたようだ。

新田宿の北外れから参道が延びる橿原(かしはら)神社。新田宿だった頃は星宮神社として鎮座していたが、明治5年(1872年)祭神を九州の宮崎神宮より勧請して橿原神社と名を改め創建された。翌年、新田宿も羽川宿に名が改められている。明治39年(1906年)汽車からの飛び火により社殿が焼失し大正3年(1914年)に再建。近年になって東北新幹線が着工されるにあたり、昭和49年(1974年)西側の現在地へ移転した。

- 関連記事
-
- 小金井一里塚
- 失われた日光街道 羽川
- 新田宿
- 喜沢の旧道
- 喜沢追分
スポンサーサイト