石橋宿
【旧日光街道歩き 第6日目】石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿
【2009年10月25日(日) 旧日光街道 石橋宿】
日光・奥州街道の第15宿となる石橋宿。宿名は池上明神前に架けられていた石橋に由来するというが、今となってはその明神や石橋がどこにあったのかもわからない。本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務め、現在も伊澤茶舗や伊沢写真館等、伊沢姓の家が多い。伊沢家は宇都宮氏一族の多功城主多功氏に仕える家柄だったが、戦国時代末期に宇都宮氏が没落すると石橋の地に土着したという。
天保14年(1843年)当時の記録によると、石橋宿は町並み南北5町28間(約596m)、人口414人、家数79軒、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒という宿場規模で、北条雄之助代官所の支配下にある幕府領であった。宿名は明治期から近年に至るまで石橋町となって受け継がれてきたが、平成18年に隣接する国分寺町・南河内町と合併して下野市が発足し、石橋町は消滅した。余談だが、石橋は栃木県の特産品である干瓢(かんぴょう)の産地であり、日本全国に出回っている国産干瓢のほとんどが栃木県産である。

石橋宿の江戸方(南側)外れに鎮座する石橋愛宕神社。

写真右に見える伊沢写真館が脇本陣跡。

いとうや薬品の建つ敷地が石橋宿本陣跡。店の横に祀られている祠は本陣伊沢家の氏神様なのだろうか。

本陣跡から街道を挟んだ斜向かいにある伊澤茶舗。問屋場跡。

石橋交差点付近の町並み。

石橋山の扁額を山門に掲げる開運寺。徳川将軍日光社参の際、休息場として境内に御殿所が設けられた。

石橋宿日光方(北側)外れの上町を行く旧日光街道。バス停に上町の名が残されている。
【2009年10月25日(日) 旧日光街道 石橋宿】
日光・奥州街道の第15宿となる石橋宿。宿名は池上明神前に架けられていた石橋に由来するというが、今となってはその明神や石橋がどこにあったのかもわからない。本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務め、現在も伊澤茶舗や伊沢写真館等、伊沢姓の家が多い。伊沢家は宇都宮氏一族の多功城主多功氏に仕える家柄だったが、戦国時代末期に宇都宮氏が没落すると石橋の地に土着したという。
天保14年(1843年)当時の記録によると、石橋宿は町並み南北5町28間(約596m)、人口414人、家数79軒、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒という宿場規模で、北条雄之助代官所の支配下にある幕府領であった。宿名は明治期から近年に至るまで石橋町となって受け継がれてきたが、平成18年に隣接する国分寺町・南河内町と合併して下野市が発足し、石橋町は消滅した。余談だが、石橋は栃木県の特産品である干瓢(かんぴょう)の産地であり、日本全国に出回っている国産干瓢のほとんどが栃木県産である。

石橋宿の江戸方(南側)外れに鎮座する石橋愛宕神社。

写真右に見える伊沢写真館が脇本陣跡。

いとうや薬品の建つ敷地が石橋宿本陣跡。店の横に祀られている祠は本陣伊沢家の氏神様なのだろうか。

本陣跡から街道を挟んだ斜向かいにある伊澤茶舗。問屋場跡。

石橋交差点付近の町並み。

石橋山の扁額を山門に掲げる開運寺。徳川将軍日光社参の際、休息場として境内に御殿所が設けられた。

石橋宿日光方(北側)外れの上町を行く旧日光街道。バス停に上町の名が残されている。

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