鞘堂の追分
【2009年10月25日(日) 旧日光街道 石橋宿→雀宮宿 道中】
石橋宿から国道4号を北上して約7km先の雀宮宿を目指す。その石橋宿と雀宮宿のちょうど中間、鞘堂に日光街道と日光東往還の追分(分岐点)があった。日光東往還は日光街道の脇街道として整備された道で、鞘堂の追分から結城城下を経て茨城県を南下し、江戸川を越えた関宿城下から千葉県内を南東へ進んで、水戸街道の小金宿と我孫子宿の間(千葉県柏市豊四季)で水戸街道に合流する街道である。徳川将軍日光社参の際には、警護の任に就く諸大名の通行に利用された。江戸幕府の定めた正式名称は”関宿通多功道”と言う。


下野市下古山から上三川町鞘堂へ入る国道4号。近くに陸上自衛隊の駐屯地があるため、自衛隊車両の通行が多い。

上三川町鞘堂の国道4号沿道にて。蕎麦屋の廃墟のようだが、一体これは…。

鞘堂という地名の由来であろう鞘堂地蔵尊。南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)の下野守護小山義政と宇都宮氏の合戦によって戦死した兵士の鞘を集めて埋め、その上に御堂を築いて地蔵を安置したものという。

鞘堂新田村の鎮守として祀られた星宮神社。現在の鞘堂辺りは、かつて鞘堂新田村という集落だった。

日光街道と日光東往還の分岐点だった鞘堂の追分。写真は宇都宮方面の国道4号を写しており、正面に見える高架道は北関東自動車道。追分は右側道手前の電柱と奥の電柱の間である。

日光東往還から追分方向を望む。突き当たりの合流する道が日光街道(現 国道4号)である。かつては行く先を示す道標が置かれていたのだろうが、現在は追分を示すものは何も無い。

北関東自動車道を潜り抜けると高秀土木工業の敷地内に謎の塚が現れる。塚上には3体のお稲荷様が祀られており、一見すると一里塚のようにも見えるが…。一体これは何なんだろうか。

下野市下古山から宇都宮市茂原へ。下古山から雀宮宿にかけて約3kmの道程は淡々と国道を歩くだけ。

安塚街道入口交差点を過ぎれば間もなく雀宮宿。この交差点南側付近に江戸日本橋から25里目(約98km)を示す雀宮一里塚があったが、現在は痕跡が残っておらず位置不明。
石橋宿から国道4号を北上して約7km先の雀宮宿を目指す。その石橋宿と雀宮宿のちょうど中間、鞘堂に日光街道と日光東往還の追分(分岐点)があった。日光東往還は日光街道の脇街道として整備された道で、鞘堂の追分から結城城下を経て茨城県を南下し、江戸川を越えた関宿城下から千葉県内を南東へ進んで、水戸街道の小金宿と我孫子宿の間(千葉県柏市豊四季)で水戸街道に合流する街道である。徳川将軍日光社参の際には、警護の任に就く諸大名の通行に利用された。江戸幕府の定めた正式名称は”関宿通多功道”と言う。


下野市下古山から上三川町鞘堂へ入る国道4号。近くに陸上自衛隊の駐屯地があるため、自衛隊車両の通行が多い。

上三川町鞘堂の国道4号沿道にて。蕎麦屋の廃墟のようだが、一体これは…。

鞘堂という地名の由来であろう鞘堂地蔵尊。南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)の下野守護小山義政と宇都宮氏の合戦によって戦死した兵士の鞘を集めて埋め、その上に御堂を築いて地蔵を安置したものという。

鞘堂新田村の鎮守として祀られた星宮神社。現在の鞘堂辺りは、かつて鞘堂新田村という集落だった。

日光街道と日光東往還の分岐点だった鞘堂の追分。写真は宇都宮方面の国道4号を写しており、正面に見える高架道は北関東自動車道。追分は右側道手前の電柱と奥の電柱の間である。

日光東往還から追分方向を望む。突き当たりの合流する道が日光街道(現 国道4号)である。かつては行く先を示す道標が置かれていたのだろうが、現在は追分を示すものは何も無い。

北関東自動車道を潜り抜けると高秀土木工業の敷地内に謎の塚が現れる。塚上には3体のお稲荷様が祀られており、一見すると一里塚のようにも見えるが…。一体これは何なんだろうか。

下野市下古山から宇都宮市茂原へ。下古山から雀宮宿にかけて約3kmの道程は淡々と国道を歩くだけ。

安塚街道入口交差点を過ぎれば間もなく雀宮宿。この交差点南側付近に江戸日本橋から25里目(約98km)を示す雀宮一里塚があったが、現在は痕跡が残っておらず位置不明。

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