雀宮宿
【2009年10月25日(日) 旧日光街道 雀宮宿】
雀宮とは何ともメルヘンで平和的な地名であるが、この辺りは室町時代に小山氏と宇都宮氏の勢力争いの場となり、度々合戦が起こって血が流れた場所でもある。前の記事に書いた鞘堂地蔵尊はそんな歴史を今に伝える語り部だ。雀宮宿が誕生するのは江戸期の日光街道が整備されてからで、街道沿いにあった台新田村の集落が発展して宿場の体裁を整え、寛永年間(1624年~1643年)には宿駅として成立していた。宿場名の由来は宿場北外れに鎮座している雀宮神社であるが、神社の由緒については後述する。天保14年(1843年)当時の記録によると、雀宮宿の町並み南北5町20間(約582m)、人口268人、家数72軒、本陣1、脇本陣1、旅籠38軒という小さな宿場町であったが、その規模に比して旅籠の数が多く、また大きな旅籠も多かった。日光東往還が合流し、更に次が宇都宮城下であることがその要因なのだろう。

雀宮宿の町並みに宿場の面影は残っていない。

雀宮宿本陣小倉家跡。現在は西松屋の敷地になっており、駐車場入口に「雀宮本陣跡」の石碑が置かれている。

西松屋裏手の本陣跡地には”雀の宮本陣ヴィレッジ”という2棟のアパートが建てられている。

西松屋の建屋横に残る祠。本陣小倉家の氏神様だろうか。

名主で仮本陣を務めた芦谷家。黒塗りの門構えが威厳を感じさせ、仮本陣を偲ばせる佇まい。主屋には玄関の式台、上段の間が残されているという。

長徳3年(997年)創建と伝わる雀宮神社。正徳3年(1713年)天皇より金文字で”雀宮”と書かれた勅額を下賜され、以来その額を社頭に掲げていたため、将軍家をはじめとする諸大名の通行の際には社前で下乗して参拝したという。気になる”雀宮”という名の由来については、諸説あって定かではない。雀宮地域のホームページの「歴史探訪」内に詳しく書かれているので、ご参照を。
雀宮とは何ともメルヘンで平和的な地名であるが、この辺りは室町時代に小山氏と宇都宮氏の勢力争いの場となり、度々合戦が起こって血が流れた場所でもある。前の記事に書いた鞘堂地蔵尊はそんな歴史を今に伝える語り部だ。雀宮宿が誕生するのは江戸期の日光街道が整備されてからで、街道沿いにあった台新田村の集落が発展して宿場の体裁を整え、寛永年間(1624年~1643年)には宿駅として成立していた。宿場名の由来は宿場北外れに鎮座している雀宮神社であるが、神社の由緒については後述する。天保14年(1843年)当時の記録によると、雀宮宿の町並み南北5町20間(約582m)、人口268人、家数72軒、本陣1、脇本陣1、旅籠38軒という小さな宿場町であったが、その規模に比して旅籠の数が多く、また大きな旅籠も多かった。日光東往還が合流し、更に次が宇都宮城下であることがその要因なのだろう。

雀宮宿の町並みに宿場の面影は残っていない。

雀宮宿本陣小倉家跡。現在は西松屋の敷地になっており、駐車場入口に「雀宮本陣跡」の石碑が置かれている。

西松屋裏手の本陣跡地には”雀の宮本陣ヴィレッジ”という2棟のアパートが建てられている。

西松屋の建屋横に残る祠。本陣小倉家の氏神様だろうか。

名主で仮本陣を務めた芦谷家。黒塗りの門構えが威厳を感じさせ、仮本陣を偲ばせる佇まい。主屋には玄関の式台、上段の間が残されているという。

長徳3年(997年)創建と伝わる雀宮神社。正徳3年(1713年)天皇より金文字で”雀宮”と書かれた勅額を下賜され、以来その額を社頭に掲げていたため、将軍家をはじめとする諸大名の通行の際には社前で下乗して参拝したという。気になる”雀宮”という名の由来については、諸説あって定かではない。雀宮地域のホームページの「歴史探訪」内に詳しく書かれているので、ご参照を。

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