大沢宿
【2009年12月20日(日) 旧日光街道 大沢宿】
駿河国久能山に葬られていた徳川家康の遺骸が日光へ改葬された元和3年(1617年)、元々あった大沢村の集落に宿場町の体裁を整えさせ、日光街道の第19宿として大沢宿は誕生した。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み4町4間(約444m)、人口278人、家数43軒、本陣1、脇本陣1、旅籠41軒とあり、隣の徳次郎宿と同様、宿場規模に比して旅籠の数がやたら多い。旅籠には飯盛女も多く置かれて大いに繁盛した。宿場の北外れ、街道から少し離れた場所に将軍専用の休息所として大沢御殿が設けられていた。この御殿は寛永4年(1627年)に完成したものなのだが、三代将軍徳川家光と四代将軍家綱が何度か使用しただけで、その後は無用の長物となっていたようだ。
清河八郎著の”西遊草”に大沢宿の様子が書かれているので紹介しよう。
「今市につづきたる町並のよき所にて、宿やに遊女などもあり。すべて遠近の在より寄集る都会と見えたり。或茶店にて昼食をくらひけるに、なまづの吸物あり。休達ともにあきれたる不案配とわらひながらいづる時に、いづれも落合たり。」
天保4年(1833年)に飯盛女(遊女)を旅籠に置くことを許可され、以来大沢宿は日光街道を往来する旅人だけではなく、近隣在郷の男供が集まり宿場は賑わったのだろう。清河八郎の文言からもその様子がうかがえる。ちなみに、不案配とは”まずい”という意で、なまづの吸物が笑っちゃうほどまずかったということだ。

杉並木を抜け大沢宿へ。

大沢宿江戸方外れの町並み。

大沢宿江戸方入口にある”手打ちそば みつぎ”で昼食を。

大沢宿の鎮守王子神社。創建は鎌倉時代にまで溯ると伝わり、社殿前に樹齢約200年の大イチョウがそびえ立つ。前々の記事で紹介した海老王子と何らかの関係がありそう。

大沢宿から東外れの高台にある竜蔵寺。元々は宿内(現 大沢小学校辺り)にあったが明治初期に現在地へ移った。境内には見事な枝ぶりの六尺藤があり、市指定天然記念物となっている。

大沢宿は度重なる大火に遭い、現在は往時の面影を残していない。

大沢宿日光方外れの町並み。宿場を抜けると再び杉並木の道へ。

杉並木の中に小ぢんまりと鎮座する八坂神社。

四本杉。倒木を防ぐための植樹法。

大室入口交差点から街道を右斜め方向に離れる道は大沢御殿へと続き、この道を300m程行くと大沢御殿があった。

写真に見える”御殿開田之碑”が大沢御殿跡の目印。この御殿は三代将軍家光の時に大沢の稲荷山を切り崩して造営され、寛永4年(1627年)から寛永17年(1640年)にかけて将軍社参の際に、装束を改める衣帯所として利用された。しかし、四代将軍家綱の時に大沢御殿に代わって竜蔵寺が使用されるようになり、御役御免となった御殿は自然消滅したのだろう。現在は御殿の痕跡らしき土塁が残っている。
駿河国久能山に葬られていた徳川家康の遺骸が日光へ改葬された元和3年(1617年)、元々あった大沢村の集落に宿場町の体裁を整えさせ、日光街道の第19宿として大沢宿は誕生した。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み4町4間(約444m)、人口278人、家数43軒、本陣1、脇本陣1、旅籠41軒とあり、隣の徳次郎宿と同様、宿場規模に比して旅籠の数がやたら多い。旅籠には飯盛女も多く置かれて大いに繁盛した。宿場の北外れ、街道から少し離れた場所に将軍専用の休息所として大沢御殿が設けられていた。この御殿は寛永4年(1627年)に完成したものなのだが、三代将軍徳川家光と四代将軍家綱が何度か使用しただけで、その後は無用の長物となっていたようだ。
清河八郎著の”西遊草”に大沢宿の様子が書かれているので紹介しよう。
「今市につづきたる町並のよき所にて、宿やに遊女などもあり。すべて遠近の在より寄集る都会と見えたり。或茶店にて昼食をくらひけるに、なまづの吸物あり。休達ともにあきれたる不案配とわらひながらいづる時に、いづれも落合たり。」
天保4年(1833年)に飯盛女(遊女)を旅籠に置くことを許可され、以来大沢宿は日光街道を往来する旅人だけではなく、近隣在郷の男供が集まり宿場は賑わったのだろう。清河八郎の文言からもその様子がうかがえる。ちなみに、不案配とは”まずい”という意で、なまづの吸物が笑っちゃうほどまずかったということだ。

杉並木を抜け大沢宿へ。

大沢宿江戸方外れの町並み。

大沢宿江戸方入口にある”手打ちそば みつぎ”で昼食を。

大沢宿の鎮守王子神社。創建は鎌倉時代にまで溯ると伝わり、社殿前に樹齢約200年の大イチョウがそびえ立つ。前々の記事で紹介した海老王子と何らかの関係がありそう。

大沢宿から東外れの高台にある竜蔵寺。元々は宿内(現 大沢小学校辺り)にあったが明治初期に現在地へ移った。境内には見事な枝ぶりの六尺藤があり、市指定天然記念物となっている。

大沢宿は度重なる大火に遭い、現在は往時の面影を残していない。

大沢宿日光方外れの町並み。宿場を抜けると再び杉並木の道へ。

杉並木の中に小ぢんまりと鎮座する八坂神社。

四本杉。倒木を防ぐための植樹法。

大室入口交差点から街道を右斜め方向に離れる道は大沢御殿へと続き、この道を300m程行くと大沢御殿があった。

写真に見える”御殿開田之碑”が大沢御殿跡の目印。この御殿は三代将軍家光の時に大沢の稲荷山を切り崩して造営され、寛永4年(1627年)から寛永17年(1640年)にかけて将軍社参の際に、装束を改める衣帯所として利用された。しかし、四代将軍家綱の時に大沢御殿に代わって竜蔵寺が使用されるようになり、御役御免となった御殿は自然消滅したのだろう。現在は御殿の痕跡らしき土塁が残っている。

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