戸定邸
【水戸街道歩き 第2日目】松戸宿→小金宿→呼塚河岸跡
【2010年2月13日(土)水戸街道 松戸宿】
小雪が舞い散る真冬らしい寒さに見舞われた土曜日の朝。”めざましどようび”を見ながら行くべきか、行かざるべきかと随分悩んだが、できるだけの厚着に身を包んでとにかく家を出ることに。行く先はもちろん水戸街道歩きの再開地点である松戸。家を出てから30分程でJR松戸駅に到着し、駅東口前にあるドトールで朝食(レタスドッグとブレンドコーヒー)を済ませる。まずは水戸街道へ歩みを戻す前に戸定が丘歴史公園へ立ち寄ってみた。
松戸市街の東側は台地になっており、その台地南端にあたる場所に戸定が丘歴史公園がある。眼下に江戸川の流れる関東平野、その彼方に富士山も望める名勝地で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の異母弟、徳川昭武(水戸藩最後の藩主)の別邸として、明治17年(1884年)この地に戸定邸は築かれた。明治前期の上流建築を伝える屋敷は国の重要文化財に指定され、有難いことに徳川家の旧居宅で一般公開しているのはこの戸定邸だけである。併設する戸定歴史館では昭武の写真や自身が趣味として撮影した写真、昭武や慶喜ゆかりの品々が展示されている。

戸定邸玄関。

賓客をもてなした客間。部屋の周囲に入側が配され、窓越しに美しい庭園を眺める。

客間と対をなす書院。戸定邸の中で最も眺望の良い部屋で、実際には徳川昭武の書斎として利用された。

奥座敷にあたる八重ノ間。昭武の妻、八重が使った部屋。

昭武の実母、万里小路睦子(までのこうじちかこ、秋庭と号す)が使った奥座敷の秋庭ノ間(しゅうていのま)。万里小路睦子は水戸藩9代藩主徳川斉昭の側室で、明治17年(1884年)昭武と共にここへ移り住んだ。
【2010年2月13日(土)水戸街道 松戸宿】
小雪が舞い散る真冬らしい寒さに見舞われた土曜日の朝。”めざましどようび”を見ながら行くべきか、行かざるべきかと随分悩んだが、できるだけの厚着に身を包んでとにかく家を出ることに。行く先はもちろん水戸街道歩きの再開地点である松戸。家を出てから30分程でJR松戸駅に到着し、駅東口前にあるドトールで朝食(レタスドッグとブレンドコーヒー)を済ませる。まずは水戸街道へ歩みを戻す前に戸定が丘歴史公園へ立ち寄ってみた。
松戸市街の東側は台地になっており、その台地南端にあたる場所に戸定が丘歴史公園がある。眼下に江戸川の流れる関東平野、その彼方に富士山も望める名勝地で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の異母弟、徳川昭武(水戸藩最後の藩主)の別邸として、明治17年(1884年)この地に戸定邸は築かれた。明治前期の上流建築を伝える屋敷は国の重要文化財に指定され、有難いことに徳川家の旧居宅で一般公開しているのはこの戸定邸だけである。併設する戸定歴史館では昭武の写真や自身が趣味として撮影した写真、昭武や慶喜ゆかりの品々が展示されている。

戸定邸玄関。

賓客をもてなした客間。部屋の周囲に入側が配され、窓越しに美しい庭園を眺める。

客間と対をなす書院。戸定邸の中で最も眺望の良い部屋で、実際には徳川昭武の書斎として利用された。

奥座敷にあたる八重ノ間。昭武の妻、八重が使った部屋。

昭武の実母、万里小路睦子(までのこうじちかこ、秋庭と号す)が使った奥座敷の秋庭ノ間(しゅうていのま)。万里小路睦子は水戸藩9代藩主徳川斉昭の側室で、明治17年(1884年)昭武と共にここへ移り住んだ。

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