小金宿
【2010年2月13日(土)水戸街道 小金宿】
小金宿の成り立ちは古く、室町時代後期に築かれた小金城の町場だったことに所以がある。近隣に本土寺や東漸寺といった名高い古刹があり、それ以前から付近に門前町が形成されていたと思われるが、大規模な小金城が築城されるに至って周辺の町家が集められ小金宿の原形ができたのだろう。ここで小金宿の成立に深く関わった小金城について少し書いておく。小金城は別名を大谷口城と言い、天文6年(1537年)千葉氏の家老、原氏の一族である高城胤吉によって築城され、以来高城氏は本拠を根木内城から小金城に移して三代(53年間)に渡り居城とした。入り組んだ谷津の地形と空堀によって巧みに縄張りを施し、東西800m・南北600mにも及ぶ平山城形式の大規模な城郭だった。
寛政元年(1789年)の記録によると小金宿は本陣1・脇本陣1・家数169軒とあり、本来の本陣(大塚家)とは別に小金御殿とも称される水戸藩専用の本陣(日暮家)が置かれた。小金宿から先の水戸街道は勘定奉行支配となるため、継立業務の常備人馬数は8人・8疋と少ない。また、小金宿と次の我孫子宿間の水戸街道は、小金牧(幕府の軍馬放牧場)内を通っており、北は現在の野田市、南は習志野市辺りに及ぶ広大な小金牧の中央部を横断する形になっている。その小金牧を管轄した野馬奉行綿貫氏の役宅が、旧八坂神社(現 北小金サティ)の西に置かれていた。


小金宿江戸方入口付近の町並み。写真は一月寺付近から松戸宿方面を望んでいる。かつて”あめや”の屋号で飴の製造販売業を営んだ長妻家(写真の街道左手)がある。

鎌倉時代に金先禅師によって創建されたと伝わる一月寺。元々は青梅の鈴法寺と共に関東地方の普化宗諸派の本山で、いわゆる時代劇で馴染み深い虚無僧の拠点といった寺であった。明治4年(1871年)太政官布告によって普化宗は廃止となり一月寺は廃寺となったが、昭和30年代に日蓮正宗に改宗し、更に”いちげつでら”から”いちがつじ”に読みを変えて再興された。

今となっては小金宿で唯一、宿場時代を偲ばせる旅籠玉屋(鈴木家)。東京のベッドタウンと化しているこの北小金の地にあって、千本格子の格子戸を残す元旅籠屋の建物が残っていること自体が奇跡である。小金宿最大の見所と言ってよいだろう。

代々に渡り小金宿本陣を務めた大塚家。屋号を井筒屋といった。

小金宿中心部の町並み。

東漸寺は文明13年(1481年)根木内城付近(現 松戸市根木内)に開創され、高城氏が小金城に移ると同時に現在地へ移転した。江戸時代初期に関東十八檀林の一つに数えられた名刹である。ここで特筆したいのは境内にある維新勤皇の志士、竹内廉之助・哲次郎の記念碑だ。
天保9年(1838年)小金宿の商家に生を受けた竹内廉之助とその弟哲次郎は、尊皇攘夷の急先鋒となった水戸天狗党の挙兵に参加。哲次郎は敵対する幕府軍によって負傷し、24歳の若さで自害して最期を遂げるが、廉之助は幕府に捕らわれの身となって土浦に投獄される。後に釈放され謹慎の身となるが、大政奉還によって世の中が大きく動き始めると、後の赤報隊隊長となる相楽総三と運命の出会いを果たして赤報隊に参加する。赤報隊については以前の記事に詳しく書いたので参照してほしいのだが、竹内廉之助とは後の金原忠蔵のことだったのだ。追分戦争で致命傷を負い非業の死を遂げた金原忠蔵が小金宿の出身だったとは…この事実を知った時にはちょっと身震いがしたよ。

旧道は北小金駅前の交差点で右折、直進する道が本土寺への参道だった。交差点角に「右水戸道中 左なかれ山え」と「水戸海道」と刻まれた2基の道標がある。右写真の左手に見える建物が北小金サティで八坂神社の跡地であり、その対面にあるマツキヨは知る人ぞ知るマツキヨの旧本社ビルで、1階の店舗は出店2号目(実際の表記は22号店)であり、現存する最古(初出店の店舗は柏にあったが閉店)のマツキヨである。

北小金駅前の交差点に残る本土寺道の道標。文化5年(1808年)小金町講中により建立されたもの。

本土地へちょっと寄り道。本土寺参道と仁王門。

長谷山本土寺は源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝わる地に、当時の領主曽谷教信の支援を得て、日蓮聖人より寺号を授かって開創したと伝わる。池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に”朗門の三長三山”と並び称されるほど往時は威容を誇り、日蓮宗不受不施派の拠点であった。しかし江戸期に入って不受不施派の法難と明治期の廃仏毀釈によって衰退した。現在は往時の山容を取り戻しつつ境内には1万株もの紫陽花が植えられ、”アジサイ寺”として世間に名を知られるようになった。同じく”アジサイ寺”として有名な北鎌倉の明月院に対して”北の鎌倉”とも呼ばれる。

6月頃初旬から中旬にかけて見頃を迎える本土寺の花菖蒲と紫陽花。さすがに時期が早過ぎた…。

参道を歩いて再び小金宿へ戻り、小金宿内の水戸方外れへ。意外に見所の多い北小金だった。
小金宿の成り立ちは古く、室町時代後期に築かれた小金城の町場だったことに所以がある。近隣に本土寺や東漸寺といった名高い古刹があり、それ以前から付近に門前町が形成されていたと思われるが、大規模な小金城が築城されるに至って周辺の町家が集められ小金宿の原形ができたのだろう。ここで小金宿の成立に深く関わった小金城について少し書いておく。小金城は別名を大谷口城と言い、天文6年(1537年)千葉氏の家老、原氏の一族である高城胤吉によって築城され、以来高城氏は本拠を根木内城から小金城に移して三代(53年間)に渡り居城とした。入り組んだ谷津の地形と空堀によって巧みに縄張りを施し、東西800m・南北600mにも及ぶ平山城形式の大規模な城郭だった。
寛政元年(1789年)の記録によると小金宿は本陣1・脇本陣1・家数169軒とあり、本来の本陣(大塚家)とは別に小金御殿とも称される水戸藩専用の本陣(日暮家)が置かれた。小金宿から先の水戸街道は勘定奉行支配となるため、継立業務の常備人馬数は8人・8疋と少ない。また、小金宿と次の我孫子宿間の水戸街道は、小金牧(幕府の軍馬放牧場)内を通っており、北は現在の野田市、南は習志野市辺りに及ぶ広大な小金牧の中央部を横断する形になっている。その小金牧を管轄した野馬奉行綿貫氏の役宅が、旧八坂神社(現 北小金サティ)の西に置かれていた。


小金宿江戸方入口付近の町並み。写真は一月寺付近から松戸宿方面を望んでいる。かつて”あめや”の屋号で飴の製造販売業を営んだ長妻家(写真の街道左手)がある。

鎌倉時代に金先禅師によって創建されたと伝わる一月寺。元々は青梅の鈴法寺と共に関東地方の普化宗諸派の本山で、いわゆる時代劇で馴染み深い虚無僧の拠点といった寺であった。明治4年(1871年)太政官布告によって普化宗は廃止となり一月寺は廃寺となったが、昭和30年代に日蓮正宗に改宗し、更に”いちげつでら”から”いちがつじ”に読みを変えて再興された。

今となっては小金宿で唯一、宿場時代を偲ばせる旅籠玉屋(鈴木家)。東京のベッドタウンと化しているこの北小金の地にあって、千本格子の格子戸を残す元旅籠屋の建物が残っていること自体が奇跡である。小金宿最大の見所と言ってよいだろう。

代々に渡り小金宿本陣を務めた大塚家。屋号を井筒屋といった。

小金宿中心部の町並み。


東漸寺は文明13年(1481年)根木内城付近(現 松戸市根木内)に開創され、高城氏が小金城に移ると同時に現在地へ移転した。江戸時代初期に関東十八檀林の一つに数えられた名刹である。ここで特筆したいのは境内にある維新勤皇の志士、竹内廉之助・哲次郎の記念碑だ。
天保9年(1838年)小金宿の商家に生を受けた竹内廉之助とその弟哲次郎は、尊皇攘夷の急先鋒となった水戸天狗党の挙兵に参加。哲次郎は敵対する幕府軍によって負傷し、24歳の若さで自害して最期を遂げるが、廉之助は幕府に捕らわれの身となって土浦に投獄される。後に釈放され謹慎の身となるが、大政奉還によって世の中が大きく動き始めると、後の赤報隊隊長となる相楽総三と運命の出会いを果たして赤報隊に参加する。赤報隊については以前の記事に詳しく書いたので参照してほしいのだが、竹内廉之助とは後の金原忠蔵のことだったのだ。追分戦争で致命傷を負い非業の死を遂げた金原忠蔵が小金宿の出身だったとは…この事実を知った時にはちょっと身震いがしたよ。


旧道は北小金駅前の交差点で右折、直進する道が本土寺への参道だった。交差点角に「右水戸道中 左なかれ山え」と「水戸海道」と刻まれた2基の道標がある。右写真の左手に見える建物が北小金サティで八坂神社の跡地であり、その対面にあるマツキヨは知る人ぞ知るマツキヨの旧本社ビルで、1階の店舗は出店2号目(実際の表記は22号店)であり、現存する最古(初出店の店舗は柏にあったが閉店)のマツキヨである。

北小金駅前の交差点に残る本土寺道の道標。文化5年(1808年)小金町講中により建立されたもの。

本土地へちょっと寄り道。本土寺参道と仁王門。

長谷山本土寺は源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝わる地に、当時の領主曽谷教信の支援を得て、日蓮聖人より寺号を授かって開創したと伝わる。池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に”朗門の三長三山”と並び称されるほど往時は威容を誇り、日蓮宗不受不施派の拠点であった。しかし江戸期に入って不受不施派の法難と明治期の廃仏毀釈によって衰退した。現在は往時の山容を取り戻しつつ境内には1万株もの紫陽花が植えられ、”アジサイ寺”として世間に名を知られるようになった。同じく”アジサイ寺”として有名な北鎌倉の明月院に対して”北の鎌倉”とも呼ばれる。

6月頃初旬から中旬にかけて見頃を迎える本土寺の花菖蒲と紫陽花。さすがに時期が早過ぎた…。

参道を歩いて再び小金宿へ戻り、小金宿内の水戸方外れへ。意外に見所の多い北小金だった。

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