水戸城っ!
【2010年5月5日(水)水戸街道 水戸宿】
水戸藩徳川家の有名どころの藩主といえば、2代光圀と9代斉昭であろう。光圀は日本人の誰もが知っている水戸の黄門様であり、斉昭といえば幕末物の時代劇には欠かせない人物。斉昭はその激しい気性からペリー来航以後、強硬な攘夷論を説いて開国派の井伊直弼と対立し、この一事が水戸藩の人々を幕末動乱の真っ只中へ送り込むことになる。ちなみに江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は斉昭の七男。そんな多士済々の人物を生んだ水戸徳川家は徳川家康の十一男、徳川頼房が慶長14年(1609年)に入城して以来、江戸期を通じて水戸城を居城とする。しかしながら、居城とは言っても水戸藩主は江戸定府(藩主が江戸に定住し将軍を補佐すること)と定められていたため、ほとんど藩主が在城しない状態だった。
水戸城は北に那珂川、南に千波湖という天然の水堀に挟まれた丘陵上に築かれる連郭式平山城。最初にここへ居館を構えたのは常陸大掾氏の一族である馬場資幹という人であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にまで溯る。当時の千波湖は現在より遥かに大きな水域があり、城を築くには好適地だったことは現在の水戸城址を散策するだけでもひしひしと伝わってくる。本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間は南北にもの凄く深い堀で切られており、この堀は近代城郭へと進化する過程で人為的に開削されたものだろう。現在の本丸跡は県立水戸第一高校の敷地となっており、二の丸と本丸を繋ぐ本城橋東詰に戦国時代末期の佐竹氏時代のものと推定される薬医門が移築されている。この薬医門は水戸城の唯一残る遺構である。


本丸と二の丸を隔てる堀跡。現在は深い堀底を水郡線が通っている。正保元年(1644年)作成の常陸国水戸城絵図を見てみると、現在の二の丸跡と本丸跡を繋いでいる本城橋(写真中央に架かる橋)が堀切の本丸入口であり、北側の堀が空堀で南側が水堀になっている。

水郡線上に架かる本城橋。かつてこの橋が架かる地点は本丸へ通ずる堀切だったが、おそらく水郡線敷設時に取り壊され橋が架けられたのだろう。

本丸跡は県立水戸第一高校の敷地になっているが、見学目的であれば自由に入ることができる。水戸城唯一つ残る建造物という薬医門が移築されている。

水戸城薬医門。元々は茅葺屋根で現在は銅板葺に改築されてはいるが、威厳ある門構えは健在だ。この城門のあった位置は定かではなく永らく城外に移されていたが、昭和56年(1981年)現在地に移築された。解説板には「城門のあった位置には諸説あるが、城門の風格からみて橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられる。」と書かれている。

水戸城二の丸跡、水戸市立第二中学校の敷地に根を張る大シイ(スダジイ)。戦国時代から自生していると伝わる推定樹齢約400年の古木。水戸城の変遷を見てきた生き字引と言えよう。

かつて二の丸南側崖近くに建てられていた三階櫓。昭和20年(1945年)の戦災で焼失した。

二の丸跡と三の丸跡を繋ぐ大手橋。最初の架橋は佐竹氏時代の慶長元年(1596年)のことで、橋の東詰に大手門が築かれていた。

在りし日の大手門の姿。慶長6年(1601年)佐竹義宣によって築かれ、江戸期を通じて大手門として使われたが、明治初期に解体撤去された。

三の丸跡に建つ水戸弘道館。時計の針は18時を回って既に閉館しており、内部の見学は他日を期すことに。とにもかくにも水戸弘道館を水戸街道歩きのゴールとする。

最後は水戸駅前の”水戸黄門 助さん格さん像”で。お疲れ様でしたー。
ビアヘーロさん、宇田川さん、washiroさん、ヨヨ子さん、スモールアイランドさん、まし~んさん、ばけっちさん、さきこさん、猫が好き♪ さん、ビール党さん(順不同)
色々な情報や応援のコメントを頂戴し、本当に有難うございました。
そして猫が好き♪さん、コメントを返しそびれてすみません。我孫子宿~若柴宿間の古水戸街道(布川街道)は、会津西街道の冬期中断期間に歩こうと思っていますので、その時はまた情報提供をお願いします。
【水戸街道歩き 第8日目】
踏破距離 約15.7km(小幡宿→長岡宿→水戸宿)
千住宿から水戸街道を歩いて約114km、水戸宿に到着。ゴールだっ!
水戸藩徳川家の有名どころの藩主といえば、2代光圀と9代斉昭であろう。光圀は日本人の誰もが知っている水戸の黄門様であり、斉昭といえば幕末物の時代劇には欠かせない人物。斉昭はその激しい気性からペリー来航以後、強硬な攘夷論を説いて開国派の井伊直弼と対立し、この一事が水戸藩の人々を幕末動乱の真っ只中へ送り込むことになる。ちなみに江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は斉昭の七男。そんな多士済々の人物を生んだ水戸徳川家は徳川家康の十一男、徳川頼房が慶長14年(1609年)に入城して以来、江戸期を通じて水戸城を居城とする。しかしながら、居城とは言っても水戸藩主は江戸定府(藩主が江戸に定住し将軍を補佐すること)と定められていたため、ほとんど藩主が在城しない状態だった。
水戸城は北に那珂川、南に千波湖という天然の水堀に挟まれた丘陵上に築かれる連郭式平山城。最初にここへ居館を構えたのは常陸大掾氏の一族である馬場資幹という人であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にまで溯る。当時の千波湖は現在より遥かに大きな水域があり、城を築くには好適地だったことは現在の水戸城址を散策するだけでもひしひしと伝わってくる。本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間は南北にもの凄く深い堀で切られており、この堀は近代城郭へと進化する過程で人為的に開削されたものだろう。現在の本丸跡は県立水戸第一高校の敷地となっており、二の丸と本丸を繋ぐ本城橋東詰に戦国時代末期の佐竹氏時代のものと推定される薬医門が移築されている。この薬医門は水戸城の唯一残る遺構である。


本丸と二の丸を隔てる堀跡。現在は深い堀底を水郡線が通っている。正保元年(1644年)作成の常陸国水戸城絵図を見てみると、現在の二の丸跡と本丸跡を繋いでいる本城橋(写真中央に架かる橋)が堀切の本丸入口であり、北側の堀が空堀で南側が水堀になっている。

水郡線上に架かる本城橋。かつてこの橋が架かる地点は本丸へ通ずる堀切だったが、おそらく水郡線敷設時に取り壊され橋が架けられたのだろう。

本丸跡は県立水戸第一高校の敷地になっているが、見学目的であれば自由に入ることができる。水戸城唯一つ残る建造物という薬医門が移築されている。

水戸城薬医門。元々は茅葺屋根で現在は銅板葺に改築されてはいるが、威厳ある門構えは健在だ。この城門のあった位置は定かではなく永らく城外に移されていたが、昭和56年(1981年)現在地に移築された。解説板には「城門のあった位置には諸説あるが、城門の風格からみて橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられる。」と書かれている。

水戸城二の丸跡、水戸市立第二中学校の敷地に根を張る大シイ(スダジイ)。戦国時代から自生していると伝わる推定樹齢約400年の古木。水戸城の変遷を見てきた生き字引と言えよう。

かつて二の丸南側崖近くに建てられていた三階櫓。昭和20年(1945年)の戦災で焼失した。

二の丸跡と三の丸跡を繋ぐ大手橋。最初の架橋は佐竹氏時代の慶長元年(1596年)のことで、橋の東詰に大手門が築かれていた。

在りし日の大手門の姿。慶長6年(1601年)佐竹義宣によって築かれ、江戸期を通じて大手門として使われたが、明治初期に解体撤去された。

三の丸跡に建つ水戸弘道館。時計の針は18時を回って既に閉館しており、内部の見学は他日を期すことに。とにもかくにも水戸弘道館を水戸街道歩きのゴールとする。

最後は水戸駅前の”水戸黄門 助さん格さん像”で。お疲れ様でしたー。
ビアヘーロさん、宇田川さん、washiroさん、ヨヨ子さん、スモールアイランドさん、まし~んさん、ばけっちさん、さきこさん、猫が好き♪ さん、ビール党さん(順不同)
色々な情報や応援のコメントを頂戴し、本当に有難うございました。
そして猫が好き♪さん、コメントを返しそびれてすみません。我孫子宿~若柴宿間の古水戸街道(布川街道)は、会津西街道の冬期中断期間に歩こうと思っていますので、その時はまた情報提供をお願いします。
【水戸街道歩き 第8日目】
踏破距離 約15.7km(小幡宿→長岡宿→水戸宿)
千住宿から水戸街道を歩いて約114km、水戸宿に到着。ゴールだっ!

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