大谷向
【2010年7月11日(日)会津西街道 今市宿→大桑宿 道中】
大谷川を越えると会津西街道の沿道は大谷向(だいやむこう)の町並みになる。大谷向は今市宿の北側出入口にあたり、会津西街道と日光北街道の分岐点に位置することから、江戸・明治の頃は旅人相手の茶屋や商家等が軒を連ねて賑わったのだろう。大正6年(1917年)下野軌道の大谷向今市駅(現 東武鉄道鬼怒川線大谷向駅)が開業し、大正から昭和期にかけて人と車馬の流れが集う大谷向の町は商店街へと変遷して繁盛したのだろうが、交通の主流が自動車へと移り変わり、さらに昭和46年(1971年)国道121号バイパスが完成したことにより車の流れもバイパスへ移ってしまったことから商店街は衰退して解散した。
ここで日光北街道について簡単に触れておく。日光北街道は会津西街道と同じく江戸時代に整備された街道で、大谷向で会津西街道から分わかれて大渡宿で鬼怒川を渡河し、船生・玉生・幸岡・矢板・沢・薄葉の宿駅を経て大田原城下へ至る現在の国道461号にほぼ沿うルートである。奥州方面から日光へ向かうには宇都宮を経由するよりも距離が短く、つまりショートカットできることから奥州の諸大名をはじめ庶民の日光参詣道として利用された。また、高徳宿から日光北街道を通って奥州街道の鬼怒川渡河地点にある阿久津河岸へ通ずるルートがあったことから、会津藩から江戸へ運ばれる廻米等の物資輸送路としての役目もあった。


大谷向交差点から旧道を望む。

大谷橋から大谷向町会所にかけての会津西街道(国道121号)。右写真はその沿道にある大正時代創業の久保田屋製菓店で老舗らしい佇まいを見せている。

今市七福神の一つ、寿老人札所の本敬寺。

会津西街道(国道121号)は大谷向町会所前で曲げられて大谷橋へ向かっているが、大谷橋架橋前の江戸時代には町会所から直進方向に進んで大谷川を渡河していたようだ。

野州吟醸味噌の醸造元、神保栄三久商店(写真左手前)。創業明治35年(1902年)の老舗蔵元。

会津西街道と日光北街道の分岐点。ここに延宝8年(1680年)建立の道標が残されているが、全く気付かずに未確認。また、同じ場所にあったという道標を兼ねた庚申供養塔が大谷向町公民館の敷地に保存されているらしい。会津西街道の道標は希少と思われるので後日確認したい。

大谷向の家並みが途切れると杉並木の街道へ。
大谷川を越えると会津西街道の沿道は大谷向(だいやむこう)の町並みになる。大谷向は今市宿の北側出入口にあたり、会津西街道と日光北街道の分岐点に位置することから、江戸・明治の頃は旅人相手の茶屋や商家等が軒を連ねて賑わったのだろう。大正6年(1917年)下野軌道の大谷向今市駅(現 東武鉄道鬼怒川線大谷向駅)が開業し、大正から昭和期にかけて人と車馬の流れが集う大谷向の町は商店街へと変遷して繁盛したのだろうが、交通の主流が自動車へと移り変わり、さらに昭和46年(1971年)国道121号バイパスが完成したことにより車の流れもバイパスへ移ってしまったことから商店街は衰退して解散した。
ここで日光北街道について簡単に触れておく。日光北街道は会津西街道と同じく江戸時代に整備された街道で、大谷向で会津西街道から分わかれて大渡宿で鬼怒川を渡河し、船生・玉生・幸岡・矢板・沢・薄葉の宿駅を経て大田原城下へ至る現在の国道461号にほぼ沿うルートである。奥州方面から日光へ向かうには宇都宮を経由するよりも距離が短く、つまりショートカットできることから奥州の諸大名をはじめ庶民の日光参詣道として利用された。また、高徳宿から日光北街道を通って奥州街道の鬼怒川渡河地点にある阿久津河岸へ通ずるルートがあったことから、会津藩から江戸へ運ばれる廻米等の物資輸送路としての役目もあった。


大谷向交差点から旧道を望む。


大谷橋から大谷向町会所にかけての会津西街道(国道121号)。右写真はその沿道にある大正時代創業の久保田屋製菓店で老舗らしい佇まいを見せている。

今市七福神の一つ、寿老人札所の本敬寺。

会津西街道(国道121号)は大谷向町会所前で曲げられて大谷橋へ向かっているが、大谷橋架橋前の江戸時代には町会所から直進方向に進んで大谷川を渡河していたようだ。

野州吟醸味噌の醸造元、神保栄三久商店(写真左手前)。創業明治35年(1902年)の老舗蔵元。

会津西街道と日光北街道の分岐点。ここに延宝8年(1680年)建立の道標が残されているが、全く気付かずに未確認。また、同じ場所にあったという道標を兼ねた庚申供養塔が大谷向町公民館の敷地に保存されているらしい。会津西街道の道標は希少と思われるので後日確認したい。

大谷向の家並みが途切れると杉並木の街道へ。

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