大桑宿
【2010年7月11日(日)会津西街道 大桑宿】
大桑宿は今市宿から道程約5kmの地点に位置し、かつては宿場入口の両側を杉並木に挟まれる日光神領内の宿駅。宿場西端の高台に法蔵寺、東端には長福寺(廃寺)を配し、その間の街道沿道に様々な商家が軒を連ね、宿内には尾張家・水戸家・紀州家の御三家専用旅館である本陣がそれぞれに置かれていた。この3軒の本陣は将軍の日光社参の際、随伴する御三家の藩主が宿泊するために設けられたもので、他の宿場には見られない大桑宿の大きな特徴と言えよう。宿場の東端にある杉並木寄進碑は3代目であり、明治20年頃に現在地へ移されたと伝わるが、当初の設置場所はわからない。初代と2代目の寄進碑は日光神領の境界を示す鬼怒川南岸の石塔島上にあり、いずれも洪水によって流失してしまったという。
宿内にある日光田舎味噌の醸造元、角丸醸造元(角丸酒店)に立ち寄ってみた。この店は明治初期の創業といい、天然醸造・無添加の手作り味噌を製造販売しており、米味噌や麦味噌、黒大豆仕込等、様々な味噌を取り揃えている。土産に購入しようと店内に並ぶ味噌桶を物色しながら、ご主人に大桑宿の話を伺えた。ご主人によると、店の前の道は戊辰戦争の時、旧幕軍を追撃する官軍が通った古い道で、宿場の建物はその時に全て焼かれてしまった。御三家の本陣は尾張が最も大きくて星家が務め、派出所の隣が水戸の手塚家、紀州の本陣は郵便局の所にあってこちらも星家だった。水戸本陣の手塚家は材木を商っていたが、失敗して東京の方へ出て行ってしまったため、その土地は人手に渡ってしまったという。


大桑宿今市方(西側)出入口。街道は鉤の手に曲げられており、左へ行けば法蔵寺、右に行けば宿内へ入る。

法蔵寺の山門。慶応4年(1868年)戊辰戦争の今市攻防戦に敗れた旧幕軍は、官軍を少しでも足止めするためだろうが、大桑宿に火を放って会津へ向かう。この時に大桑宿はほぼ全焼してしまうのだが、唯一類焼を免れたのが法蔵寺の山門である。

大桑宿の町並み。行き交う人や車は少なく、今は静かな宿場町である。

老舗な佇まいの角丸醸造元(角丸酒店)。米味噌のこしを購入し、味噌汁やもろきゅうでここの味噌を食してみたのだが、味噌とはこんなに美味いものだったのかと感激。絶品の味噌である。是非とも他の味噌も試してみたい、再訪することになりそう。

旧尾張家本陣の星家。本陣らしい堂々とした構えの家に今も子孫の方が住まわれている。

派出所と全日食チェーンの間の土地が水戸家本陣の手塚家跡。現在は真新しい家が建てられているが、手塚家とは無関係らしい。

大桑郵便局が紀州家本陣の星家跡。御三家の本陣は全て北側沿道に面して建てられており、これは将軍が御成りになる今市方向に背を向けない配慮だと思われる。

会津西街道の杉並木寄進碑。解説板には「この碑は日光神領の境界に建てられているので境石とも呼ばれている」と書かれているが、現在の設置場所はその境界ではない。

街道は杉並木寄進碑の先で左に曲げられているが、江戸期の街道は直進方向に進み、杉並木が鬼怒川南岸の石塔島まで続いていた。
大桑宿は今市宿から道程約5kmの地点に位置し、かつては宿場入口の両側を杉並木に挟まれる日光神領内の宿駅。宿場西端の高台に法蔵寺、東端には長福寺(廃寺)を配し、その間の街道沿道に様々な商家が軒を連ね、宿内には尾張家・水戸家・紀州家の御三家専用旅館である本陣がそれぞれに置かれていた。この3軒の本陣は将軍の日光社参の際、随伴する御三家の藩主が宿泊するために設けられたもので、他の宿場には見られない大桑宿の大きな特徴と言えよう。宿場の東端にある杉並木寄進碑は3代目であり、明治20年頃に現在地へ移されたと伝わるが、当初の設置場所はわからない。初代と2代目の寄進碑は日光神領の境界を示す鬼怒川南岸の石塔島上にあり、いずれも洪水によって流失してしまったという。
宿内にある日光田舎味噌の醸造元、角丸醸造元(角丸酒店)に立ち寄ってみた。この店は明治初期の創業といい、天然醸造・無添加の手作り味噌を製造販売しており、米味噌や麦味噌、黒大豆仕込等、様々な味噌を取り揃えている。土産に購入しようと店内に並ぶ味噌桶を物色しながら、ご主人に大桑宿の話を伺えた。ご主人によると、店の前の道は戊辰戦争の時、旧幕軍を追撃する官軍が通った古い道で、宿場の建物はその時に全て焼かれてしまった。御三家の本陣は尾張が最も大きくて星家が務め、派出所の隣が水戸の手塚家、紀州の本陣は郵便局の所にあってこちらも星家だった。水戸本陣の手塚家は材木を商っていたが、失敗して東京の方へ出て行ってしまったため、その土地は人手に渡ってしまったという。


大桑宿今市方(西側)出入口。街道は鉤の手に曲げられており、左へ行けば法蔵寺、右に行けば宿内へ入る。

法蔵寺の山門。慶応4年(1868年)戊辰戦争の今市攻防戦に敗れた旧幕軍は、官軍を少しでも足止めするためだろうが、大桑宿に火を放って会津へ向かう。この時に大桑宿はほぼ全焼してしまうのだが、唯一類焼を免れたのが法蔵寺の山門である。

大桑宿の町並み。行き交う人や車は少なく、今は静かな宿場町である。

老舗な佇まいの角丸醸造元(角丸酒店)。米味噌のこしを購入し、味噌汁やもろきゅうでここの味噌を食してみたのだが、味噌とはこんなに美味いものだったのかと感激。絶品の味噌である。是非とも他の味噌も試してみたい、再訪することになりそう。

旧尾張家本陣の星家。本陣らしい堂々とした構えの家に今も子孫の方が住まわれている。

派出所と全日食チェーンの間の土地が水戸家本陣の手塚家跡。現在は真新しい家が建てられているが、手塚家とは無関係らしい。

大桑郵便局が紀州家本陣の星家跡。御三家の本陣は全て北側沿道に面して建てられており、これは将軍が御成りになる今市方向に背を向けない配慮だと思われる。

会津西街道の杉並木寄進碑。解説板には「この碑は日光神領の境界に建てられているので境石とも呼ばれている」と書かれているが、現在の設置場所はその境界ではない。

街道は杉並木寄進碑の先で左に曲げられているが、江戸期の街道は直進方向に進み、杉並木が鬼怒川南岸の石塔島まで続いていた。

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