老嶋と石塔島
【2010年7月11日(日)会津西街道 大桑宿→高徳宿 道中】
まずは下の地図を見てほしい。大桑宿から次の高徳宿間の一帯は、暴れ川の鬼怒川に砥川や板穴川が合流しており、度重なる洪水に悩まされたことは想像に難くない。その度に川の流路や街道のルートは少なからず変遷したようだ。そういった理由で江戸期の街道がどこを通っていたかを正確に知ることはできないが、江戸中期以前に書かれた大桑村絵図を参考にし、現代地図に旧道ルートをトレースしてみた。縮尺も当てにならない江戸期の絵図から想像を膨らませて描いたものなので、あくまで参考程度にしかならないが、大きく外れていることはないと思う。
江戸期における大桑・高徳宿間の街道は現在の鬼怒川を中岩橋で渡るルートとは大きく異なっており、大桑宿を出た街道は西へ進み古大谷川に沿って北上、石塔島から渡し舟を使って渡河し、鬼怒川北岸の河岸段丘上を高徳宿へ向かうルートだった。鬼怒川の渡しから高徳宿までは日光北街道への近道である船生街道と同ルートを辿ったと思われる。大桑宿から石塔島にかけての沿道には杉並木が植えられ、石塔島上に日光神領の境界を示す杉並木寄進碑が置かれていたが、共に享保8年(1723年)の五十里洪水によって押し流された。
石塔島の旧道が江戸中期以前の本街道であることは確実だが、もう一つ別のルートがあった。老嶋を通ってホオノキ岩付近で鬼怒川を渡河するルートである。かつて鬼怒川は中岩下流で2筋に分かれて石塔島付近で再び合流しており、その2筋の鬼怒川に挟まれた中洲が老嶋と呼ばれていた。高徳村と大桑村の境界は鬼怒川の中央と定められていたので、老嶋の扱いをめぐってしばしば地境争いが起きている。その老嶋経由のルートがどういった扱いだったのかは不明であるが、杉並木の本街道で高徳宿へ向かうよりも距離が近い経済コースだったことから、江戸時代後期にはこちらが本ルートになっていたようだ。
初代杉並木寄進碑が流失した後の享保21年(1736年)、松平正綱の曾孫にあたる正貞(上総大多喜藩主)によって2代目が同地に再建された。しかし時期が定かでないのだが、この寄進碑も洪水によって流失している。大桑宿に現存している3代目は明治20年頃に現在地へ移されたと伝わり、それ以前はどこにあったのかは定かでないが、一説によると石塔島ではなく老嶋の渡船場付近にあったともいわれる。これが真実だとすると2代目が流失した後に街道の本ルートが老嶋経由に変わった可能性が高い。ちなみに現ルートである中岩橋が初めて架橋されたのは幕末の文久3年(1863年)のことである。


国道121号から小径が分かれる鬼第17号踏切。もしかすると踏切から先の道が、江戸期の旧道なのかもしれない。

鬼第17号踏切付近に残る石碑3基。一番大きい石碑には馬頭尊の文字が見える。

石仏群(墓地)前の道。老嶋経由の旧道はこの辺りを通っていたと思われる。

墓地内に残る石仏群。相当古そうな双体道祖神(右写真)らしきものもある。

高尾神社前の道。江戸期の旧道ではないかと思われるが、杉並木の痕跡は全く残っていない。

高尾神社にある不動尊石像。神社の拝殿横で目を光らせる不動尊…、実に珍しい光景である。安政6年(1859年)大桑村下組氏子によって奉納されたようだ。

石塔島付近の杉並木旧道跡。やはり杉並木の痕跡は全く残っていない。写真奥に見える並木辺りが石塔島で、現在は鬼怒川カントリークラブのコースと化している。石塔島という名は杉並木寄進碑があったことに由来があるのだろう。
まずは下の地図を見てほしい。大桑宿から次の高徳宿間の一帯は、暴れ川の鬼怒川に砥川や板穴川が合流しており、度重なる洪水に悩まされたことは想像に難くない。その度に川の流路や街道のルートは少なからず変遷したようだ。そういった理由で江戸期の街道がどこを通っていたかを正確に知ることはできないが、江戸中期以前に書かれた大桑村絵図を参考にし、現代地図に旧道ルートをトレースしてみた。縮尺も当てにならない江戸期の絵図から想像を膨らませて描いたものなので、あくまで参考程度にしかならないが、大きく外れていることはないと思う。
江戸期における大桑・高徳宿間の街道は現在の鬼怒川を中岩橋で渡るルートとは大きく異なっており、大桑宿を出た街道は西へ進み古大谷川に沿って北上、石塔島から渡し舟を使って渡河し、鬼怒川北岸の河岸段丘上を高徳宿へ向かうルートだった。鬼怒川の渡しから高徳宿までは日光北街道への近道である船生街道と同ルートを辿ったと思われる。大桑宿から石塔島にかけての沿道には杉並木が植えられ、石塔島上に日光神領の境界を示す杉並木寄進碑が置かれていたが、共に享保8年(1723年)の五十里洪水によって押し流された。
石塔島の旧道が江戸中期以前の本街道であることは確実だが、もう一つ別のルートがあった。老嶋を通ってホオノキ岩付近で鬼怒川を渡河するルートである。かつて鬼怒川は中岩下流で2筋に分かれて石塔島付近で再び合流しており、その2筋の鬼怒川に挟まれた中洲が老嶋と呼ばれていた。高徳村と大桑村の境界は鬼怒川の中央と定められていたので、老嶋の扱いをめぐってしばしば地境争いが起きている。その老嶋経由のルートがどういった扱いだったのかは不明であるが、杉並木の本街道で高徳宿へ向かうよりも距離が近い経済コースだったことから、江戸時代後期にはこちらが本ルートになっていたようだ。
初代杉並木寄進碑が流失した後の享保21年(1736年)、松平正綱の曾孫にあたる正貞(上総大多喜藩主)によって2代目が同地に再建された。しかし時期が定かでないのだが、この寄進碑も洪水によって流失している。大桑宿に現存している3代目は明治20年頃に現在地へ移されたと伝わり、それ以前はどこにあったのかは定かでないが、一説によると石塔島ではなく老嶋の渡船場付近にあったともいわれる。これが真実だとすると2代目が流失した後に街道の本ルートが老嶋経由に変わった可能性が高い。ちなみに現ルートである中岩橋が初めて架橋されたのは幕末の文久3年(1863年)のことである。


国道121号から小径が分かれる鬼第17号踏切。もしかすると踏切から先の道が、江戸期の旧道なのかもしれない。

鬼第17号踏切付近に残る石碑3基。一番大きい石碑には馬頭尊の文字が見える。

石仏群(墓地)前の道。老嶋経由の旧道はこの辺りを通っていたと思われる。


墓地内に残る石仏群。相当古そうな双体道祖神(右写真)らしきものもある。

高尾神社前の道。江戸期の旧道ではないかと思われるが、杉並木の痕跡は全く残っていない。

高尾神社にある不動尊石像。神社の拝殿横で目を光らせる不動尊…、実に珍しい光景である。安政6年(1859年)大桑村下組氏子によって奉納されたようだ。

石塔島付近の杉並木旧道跡。やはり杉並木の痕跡は全く残っていない。写真奥に見える並木辺りが石塔島で、現在は鬼怒川カントリークラブのコースと化している。石塔島という名は杉並木寄進碑があったことに由来があるのだろう。

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