小原沢
【2010年8月1日(日)会津西街道 大原宿→藤原宿】
大べつりを越えた街道はモウキ山の麓を流れる小原沢上流に向かって山間へ入る。会津西街道の小原沢渡河地点は、戊辰戦争時に会津へ進攻する新政府軍とそれを阻止する会幕軍(会津藩を含む旧幕府軍)との間で激しい戦闘があった古戦場であり、この戦いを小原沢の戦いと呼ぶ。会幕軍(会津藩を含む旧幕府軍)は小原沢付近の帝釈堂に塹壕を築いて陣地を構え、大べつりの難所を越えてきた新政府軍に一斉射撃を浴びせて迎え撃ったという。戦場跡には戦死した両軍兵士の殉難碑が建てられている。


”元湯ほしのや”前辺りから街道は小原沢上流に向かって山間に入っていた。鬼怒川断崖に流れ込む小原沢を越えるのが難しく、上流側へ迂回する必要があったのだろう。現在の国道121号から分かれる鬼怒川戊辰街道が旧道の道筋に近いが、車道を通すためにかなり開削されており往時の面影は薄い。鬼怒川戊辰街道の南側に旧道らしき道筋が残っている。

小原沢を渡る前に鬼怒川の滝見橋へ。滝見橋から鬼怒川下流を望む。写真左手の断崖が難所大べつり。

滝見橋付近の国道121号沿いにある”生そば あづま”。ここでかなり遅めの昼食、いや…早めの夕食とする。店内に入ってざるそばを注文するも、既に売り切れでそばは無いとのこと。ざるうどんならあると言うので仕方なく注文。しかしながら、そばのように細切りされたうどんは意外にもツルツルこしがあって美味かった。店主の奥さんらしき店の方に興味深い昔話を伺った。昔は山へ入るために、おにぎりを頭に載せてこの辺りから龍王峡辺りまで泳いで行っていたとの話があること。もう一つは、店の方は今市の出身で昔は砥川辺りで天然の鰻が採れたといい、それが脂がのって絶品だったこと。山間を流れる砥川に回遊魚の鰻がいるなんて信じられないが、昔は海から利根川を伝って鬼怒川を今市辺りまで溯ることができたのだろう。鬼怒川の清流に育まれた鰻はさぞかし美味かったんだろうなぁ…。

鬼怒川戊辰街道入口から右手の階段を上っていくと、小原沢の渡河地点まで切通しの旧道(らしき道)を辿れる。

この小原沢を挟んで会幕軍と新政府軍が激戦を繰り広げて血を流したのが今から約140年前のこと。しかし今となっては平和な”魚のつかみどり会場”である。

小原沢古戦場。この小さな沢を挟んで銃撃戦があったなんて、今となっては信じられない。

小原沢の帝釈堂。会幕軍は帝釈堂の建つ小山に塹壕を築いて新政府軍に一斉射撃を浴びせた。

戊辰の役殉難碑。昭和56年(1981年)地元有志によって建てられた。小原沢の戦いで戦死した新政府軍側の佐賀藩兵15名と宇都宮藩兵4名、会幕軍側2名の名を刻みその霊を慰める。

小原沢から少し先の街道沿いにある弾除けの松。小原沢の戦いの際、ここにいた会津兵に向けて鬼怒川対岸から新政府軍(佐賀藩)がアームストロング砲をぶち込んできたといい、会津兵は大松に身を隠して難を逃れたと伝わる。その大松が弾除けの松であるが、平成8年(1996年)に突風により倒木。現在は二代目が植樹されている。
大べつりを越えた街道はモウキ山の麓を流れる小原沢上流に向かって山間へ入る。会津西街道の小原沢渡河地点は、戊辰戦争時に会津へ進攻する新政府軍とそれを阻止する会幕軍(会津藩を含む旧幕府軍)との間で激しい戦闘があった古戦場であり、この戦いを小原沢の戦いと呼ぶ。会幕軍(会津藩を含む旧幕府軍)は小原沢付近の帝釈堂に塹壕を築いて陣地を構え、大べつりの難所を越えてきた新政府軍に一斉射撃を浴びせて迎え撃ったという。戦場跡には戦死した両軍兵士の殉難碑が建てられている。


”元湯ほしのや”前辺りから街道は小原沢上流に向かって山間に入っていた。鬼怒川断崖に流れ込む小原沢を越えるのが難しく、上流側へ迂回する必要があったのだろう。現在の国道121号から分かれる鬼怒川戊辰街道が旧道の道筋に近いが、車道を通すためにかなり開削されており往時の面影は薄い。鬼怒川戊辰街道の南側に旧道らしき道筋が残っている。

小原沢を渡る前に鬼怒川の滝見橋へ。滝見橋から鬼怒川下流を望む。写真左手の断崖が難所大べつり。

滝見橋付近の国道121号沿いにある”生そば あづま”。ここでかなり遅めの昼食、いや…早めの夕食とする。店内に入ってざるそばを注文するも、既に売り切れでそばは無いとのこと。ざるうどんならあると言うので仕方なく注文。しかしながら、そばのように細切りされたうどんは意外にもツルツルこしがあって美味かった。店主の奥さんらしき店の方に興味深い昔話を伺った。昔は山へ入るために、おにぎりを頭に載せてこの辺りから龍王峡辺りまで泳いで行っていたとの話があること。もう一つは、店の方は今市の出身で昔は砥川辺りで天然の鰻が採れたといい、それが脂がのって絶品だったこと。山間を流れる砥川に回遊魚の鰻がいるなんて信じられないが、昔は海から利根川を伝って鬼怒川を今市辺りまで溯ることができたのだろう。鬼怒川の清流に育まれた鰻はさぞかし美味かったんだろうなぁ…。


鬼怒川戊辰街道入口から右手の階段を上っていくと、小原沢の渡河地点まで切通しの旧道(らしき道)を辿れる。


この小原沢を挟んで会幕軍と新政府軍が激戦を繰り広げて血を流したのが今から約140年前のこと。しかし今となっては平和な”魚のつかみどり会場”である。

小原沢古戦場。この小さな沢を挟んで銃撃戦があったなんて、今となっては信じられない。

小原沢の帝釈堂。会幕軍は帝釈堂の建つ小山に塹壕を築いて新政府軍に一斉射撃を浴びせた。

戊辰の役殉難碑。昭和56年(1981年)地元有志によって建てられた。小原沢の戦いで戦死した新政府軍側の佐賀藩兵15名と宇都宮藩兵4名、会幕軍側2名の名を刻みその霊を慰める。


小原沢から少し先の街道沿いにある弾除けの松。小原沢の戦いの際、ここにいた会津兵に向けて鬼怒川対岸から新政府軍(佐賀藩)がアームストロング砲をぶち込んできたといい、会津兵は大松に身を隠して難を逃れたと伝わる。その大松が弾除けの松であるが、平成8年(1996年)に突風により倒木。現在は二代目が植樹されている。

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