藤原宿
【2010年8月1日(日)会津西街道 大原宿→藤原宿】
名勝龍王峡への玄関口にあたる藤原宿。以前の記事に書いた高徳宿・大原宿と同様、鬼怒川東側の河岸段丘上に位置しており、かつては宇都宮藩領の宿駅だった。会津西街道の宿駅では比較的規模が大きく、宝永8年(1711年)の記録によると人口382人、家数75軒。宿場の北側に堰場川・七久保沢、南側には鈴倉沢の渓流が流れ、その間の街道沿いに様々な商家が軒を連ねていた。日光市鬼怒川公園に移築されている仲附の旅籠”加登屋”は、宿場今市方(南側)入口の鈴倉沢を渡ってすぐ左手にあったらしい。また、宿内には清隆寺と慈眼寺、十二神社の神社仏閣があり、清隆寺の街道を挟んだ向かいに本陣・問屋を兼ねて名主を務めた星家があった。現在の星光ホテルがそれである。
十二神社から七久保沢を少し溯った辺りに小字本宿の地名があり、中世以前の集落の中心がこの辺りだったことを示している。今から約800年前の壇ノ浦での平家滅亡後、東国へ落ち延びて宇都宮氏預かりの身となった平貞能と平重盛の妹妙雲禅尼が、一時期を藤原の星家に身を寄せていたと伝わっており、その場所が小字本宿辺りだったという。その後、貞能の消息については諸説あり不明だが、安善寺(茨城県芳賀郡益子町)や小松寺(茨城県東茨城郡城里町)が貞能の開基と伝わっている。また、妙雲禅尼は最晩年を塩原の地で過ごし、草庵を結んで甘露山妙雲寺(栃木県那須塩原市)の開基となった。ちなみに高原山の最高峰釈迦ヶ岳の名は、妙雲禅尼が平重盛公の釈迦像を安置したことに由縁があるといわれる。


藤原宿今市方(南側)入口の町並みと鈴倉沢。

星光ホテルはかつての名主である星家。本陣・問屋を兼ねていた。明治期になって宿駅制度が廃止されると、問屋は陸運会社へと変遷し、藤原地域では一般に”かいしゃ”と呼ばれた。星光ホテルは”かいしゃ”跡でもある。

星光ホテルの向かいにある清隆寺。日蓮上人が腰を下ろして村人に説法をしたと伝わる”日蓮上人腰掛け石”が境内に残されている。

藤原宿は戊辰戦争の戦災に遭い、宿場の名残を留める建物は残っていない。

日光を開山した勝道上人の開基と伝わる慈眼寺。現在は日蓮宗の寺社であるが、江戸期までは日光の輪王寺と同じく天台宗だった。ぼけ除けにご利益があるという地蔵尊を本堂に安置している。

高沢橋で堰場川を渡る。

高沢橋北詰に鎮座する十二神社。

藤原宿の会津方(北側)外れの町並み。平石酒店が老舗な佇まいを見せる。

本日の歩き旅を終え、新藤原駅から鬼怒川公園駅へ向かう。

鬼怒川公園岩風呂で1日の汗を流し帰途につく。歩き旅の後に入る温泉は最高だよ♪
【会津西街道歩き 第2日目】
歩行距離 約8.7km(高徳宿→大原宿→藤原宿)
前回同様、中盤から雨に降られたが、予定通り藤原宿に辿り着くことができた。次は会津西街道で初めての峠越えとなる高原越え。右膝の状態があまり良くないので少々心配であるが、気合でどうにかしよう。
名勝龍王峡への玄関口にあたる藤原宿。以前の記事に書いた高徳宿・大原宿と同様、鬼怒川東側の河岸段丘上に位置しており、かつては宇都宮藩領の宿駅だった。会津西街道の宿駅では比較的規模が大きく、宝永8年(1711年)の記録によると人口382人、家数75軒。宿場の北側に堰場川・七久保沢、南側には鈴倉沢の渓流が流れ、その間の街道沿いに様々な商家が軒を連ねていた。日光市鬼怒川公園に移築されている仲附の旅籠”加登屋”は、宿場今市方(南側)入口の鈴倉沢を渡ってすぐ左手にあったらしい。また、宿内には清隆寺と慈眼寺、十二神社の神社仏閣があり、清隆寺の街道を挟んだ向かいに本陣・問屋を兼ねて名主を務めた星家があった。現在の星光ホテルがそれである。
十二神社から七久保沢を少し溯った辺りに小字本宿の地名があり、中世以前の集落の中心がこの辺りだったことを示している。今から約800年前の壇ノ浦での平家滅亡後、東国へ落ち延びて宇都宮氏預かりの身となった平貞能と平重盛の妹妙雲禅尼が、一時期を藤原の星家に身を寄せていたと伝わっており、その場所が小字本宿辺りだったという。その後、貞能の消息については諸説あり不明だが、安善寺(茨城県芳賀郡益子町)や小松寺(茨城県東茨城郡城里町)が貞能の開基と伝わっている。また、妙雲禅尼は最晩年を塩原の地で過ごし、草庵を結んで甘露山妙雲寺(栃木県那須塩原市)の開基となった。ちなみに高原山の最高峰釈迦ヶ岳の名は、妙雲禅尼が平重盛公の釈迦像を安置したことに由縁があるといわれる。



藤原宿今市方(南側)入口の町並みと鈴倉沢。

星光ホテルはかつての名主である星家。本陣・問屋を兼ねていた。明治期になって宿駅制度が廃止されると、問屋は陸運会社へと変遷し、藤原地域では一般に”かいしゃ”と呼ばれた。星光ホテルは”かいしゃ”跡でもある。

星光ホテルの向かいにある清隆寺。日蓮上人が腰を下ろして村人に説法をしたと伝わる”日蓮上人腰掛け石”が境内に残されている。

藤原宿は戊辰戦争の戦災に遭い、宿場の名残を留める建物は残っていない。

日光を開山した勝道上人の開基と伝わる慈眼寺。現在は日蓮宗の寺社であるが、江戸期までは日光の輪王寺と同じく天台宗だった。ぼけ除けにご利益があるという地蔵尊を本堂に安置している。


高沢橋で堰場川を渡る。

高沢橋北詰に鎮座する十二神社。

藤原宿の会津方(北側)外れの町並み。平石酒店が老舗な佇まいを見せる。

本日の歩き旅を終え、新藤原駅から鬼怒川公園駅へ向かう。

鬼怒川公園岩風呂で1日の汗を流し帰途につく。歩き旅の後に入る温泉は最高だよ♪
【会津西街道歩き 第2日目】
歩行距離 約8.7km(高徳宿→大原宿→藤原宿)
前回同様、中盤から雨に降られたが、予定通り藤原宿に辿り着くことができた。次は会津西街道で初めての峠越えとなる高原越え。右膝の状態があまり良くないので少々心配であるが、気合でどうにかしよう。

- 関連記事
-
- 高原越えの旧道へ
- 高原越えか、栃久保新道か
- 藤原宿
- 仲附の旅籠
- 小原沢
スポンサーサイト