小岩・市川渡し跡
【2012年2月5日(日)成田街道 新宿→小岩市川渡し】
江戸時代、幕府の防衛上の理由から江戸へ出入りする街道には関所が設けられ、江戸へ入る武器や江戸から出る女を特に厳しく取り締まった。いわゆる”入鉄砲に出女”である。東海道の箱根関所や中山道の碓氷関所は有名どころで、過去に歩いて記事に書いた日光街道の栗橋関所や水戸街道の金町松戸関所もその類。成田街道(佐倉道は)にも当然ながら関所が設けられ、その場所は江戸川の渡河地点となる小岩市川渡し(現 国道14号市川橋付近)で、小岩側の渡船場に関所が置かれた。

関連記事
・入鉄砲に出女
・栗橋関所と房川渡し
・金町

江戸川土手を戻り成田街道旧道へ歩みを戻そう。

江戸川河川敷に消失した旧道が再び姿を現す地点。土手から奥へ延びる小径が旧道。

小岩田天祖神社。

慶長7年(1602年)の開基と伝わる真光院。門前に青面金剛や馬頭観音、双体道祖神らしき石仏を祀る。その中に石造のドラえもんが一緒に祀られほのぼのな感じ。

光ヶ嶽(てるがたけ)観音堂。戦国時代の武将、里見義豊の守り本尊と伝わる観音像を祀る。やはりこの辺りでは安房里見氏の名が出てくる。戦国時代に房総一帯を支配した里見氏は、江戸川を挟んで度々北条氏と争いになり、国府台(江戸川東岸の台地)はその戦場となった。

江戸川駅付近の成田街道旧道。この辺りは江戸時代の伊与田村。街道沿いに集落を形成していた。

京成本線江戸川駅。旧道は駅の高架下を通り抜ける。

旧伊与田村(現 北小岩3・4丁目)の鎮守、北野神社。社殿前に置かれている力石は、江戸時代から昭和初期にかけて力比べに用いられた。重さ三十八貫目(142.5㎏)、江戸時代後期に日本一の力持ちと言われた三ノ宮卯之助が持ち上げたとされる。

成田街道(佐倉道)と元佐倉道の合流点。直進する道は元佐倉道、左折する道が関所の置かれた小岩市川渡しへ通じる。この辺り、江戸時代に関所があったことから御番所町とも呼ばれた。左角にある家が旧角屋旅館、右手に慈恩寺道石造道標が残る。

昭和25年(1950年)頃の角屋旅館(江戸川区教育委員会設置の解説版より)。

平成17年(2005年)当時の角屋旅館。近年まで旅館業を続けていたようだが、残念ながら廃業してしまった。

成田街道(佐倉道)・元佐倉道の合流点に残る御番所町の慈恩寺道石造道標。正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」、右面「左リ 市川みち」、左面「右 いち川みち」と刻まれる。安永4年(1775年)建立。

寶林寺。旧伊与田村の開拓者、藤原伊豫の墓と伝わる宝筺印塔や小岩市川渡しの常燈明、地蔵菩薩像庚申塔等がある。

小岩市川渡しの目印だった常燈明。天保10年(1839年)千住総講中によって献灯されたもの。元々は小岩市川渡しの川岸にあったが、昭和9年(1934年)江戸川改修工事の際、寶林寺境内へ移された。

成田街道(佐倉道)・元佐倉道の合流点から小岩市川渡し跡方面を望む。

小岩市川関所跡。河川敷グランドと化しているが、江戸時代はここに関所があって容易に市川側へ行くことはできなかったはず。今見る光景からは想像することすら難しいので、下に水戸佐倉道分間延絵図から小岩市川渡し付近の絵図を載せておく。

水戸佐倉道分間延絵図より。

市川橋で江戸川を渡る。

市川側の渡船場跡付近に建てられる冠木門のモニュメント。かつて小岩側にあった関所を偲ぶ。

市川橋とスカイツリー。
成田街道の歩き旅はここで日没サスペンデッド。この日は本八幡駅まで歩いたが、弘法寺等立ち寄りたい場所も途中にあるので、次回の続きはここからスタートしよう。
【成田街道歩き 第1日目】亀有駅→新宿の渡し跡→新宿→柴又→小岩市川渡し跡→八幡宿→本八幡駅
歩行距離約15km
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小岩田天祖神社。


慶長7年(1602年)の開基と伝わる真光院。門前に青面金剛や馬頭観音、双体道祖神らしき石仏を祀る。その中に石造のドラえもんが一緒に祀られほのぼのな感じ。

光ヶ嶽(てるがたけ)観音堂。戦国時代の武将、里見義豊の守り本尊と伝わる観音像を祀る。やはりこの辺りでは安房里見氏の名が出てくる。戦国時代に房総一帯を支配した里見氏は、江戸川を挟んで度々北条氏と争いになり、国府台(江戸川東岸の台地)はその戦場となった。

江戸川駅付近の成田街道旧道。この辺りは江戸時代の伊与田村。街道沿いに集落を形成していた。

京成本線江戸川駅。旧道は駅の高架下を通り抜ける。

旧伊与田村(現 北小岩3・4丁目)の鎮守、北野神社。社殿前に置かれている力石は、江戸時代から昭和初期にかけて力比べに用いられた。重さ三十八貫目(142.5㎏)、江戸時代後期に日本一の力持ちと言われた三ノ宮卯之助が持ち上げたとされる。

成田街道(佐倉道)と元佐倉道の合流点。直進する道は元佐倉道、左折する道が関所の置かれた小岩市川渡しへ通じる。この辺り、江戸時代に関所があったことから御番所町とも呼ばれた。左角にある家が旧角屋旅館、右手に慈恩寺道石造道標が残る。

昭和25年(1950年)頃の角屋旅館(江戸川区教育委員会設置の解説版より)。

平成17年(2005年)当時の角屋旅館。近年まで旅館業を続けていたようだが、残念ながら廃業してしまった。

成田街道(佐倉道)・元佐倉道の合流点に残る御番所町の慈恩寺道石造道標。正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」、右面「左リ 市川みち」、左面「右 いち川みち」と刻まれる。安永4年(1775年)建立。

寶林寺。旧伊与田村の開拓者、藤原伊豫の墓と伝わる宝筺印塔や小岩市川渡しの常燈明、地蔵菩薩像庚申塔等がある。

小岩市川渡しの目印だった常燈明。天保10年(1839年)千住総講中によって献灯されたもの。元々は小岩市川渡しの川岸にあったが、昭和9年(1934年)江戸川改修工事の際、寶林寺境内へ移された。

成田街道(佐倉道)・元佐倉道の合流点から小岩市川渡し跡方面を望む。

小岩市川関所跡。河川敷グランドと化しているが、江戸時代はここに関所があって容易に市川側へ行くことはできなかったはず。今見る光景からは想像することすら難しいので、下に水戸佐倉道分間延絵図から小岩市川渡し付近の絵図を載せておく。

水戸佐倉道分間延絵図より。

市川橋で江戸川を渡る。

市川側の渡船場跡付近に建てられる冠木門のモニュメント。かつて小岩側にあった関所を偲ぶ。

市川橋とスカイツリー。
成田街道の歩き旅はここで日没サスペンデッド。この日は本八幡駅まで歩いたが、弘法寺等立ち寄りたい場所も途中にあるので、次回の続きはここからスタートしよう。
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