江原刑場跡
【成田街道歩き 第5日目】臼井中学校入口停留所→佐倉城址→佐倉城下→京成佐倉駅
【2012年5月12日(土)成田街道 臼井宿→佐倉城下】
前回の歩き旅から1週間後の土曜日、天気は上々。5月はウォーキングにはもってこいの季節、日脚が伸びて歩ける距離も伸ばせるうえに寄り道の時間も多く取れ、しかも陽射しは柔らかい。京成佐倉駅から”ちばグリーンバス”に乗り込み、臼井中学校入口停留所で下車。鈴木月極有料駐車場から江原刑場跡西側斜面のけもの道を登り、前回の歩き旅で無念の中断となった江原台刑場跡から成田街道歩きを再開する。まずは刑場跡にある佐倉市設置の解説板の内容を記しておこう。
『ここは旧佐倉藩の刑場であった。天保十四年(一八四三年)三月、蘭医学研究のため、藩医学研究のため、藩医・鏑木仙安が友人小柴百之・広瀬元恭と共に刑死者の解剖を行った。これが佐倉藩最初の人身解剖である。
題目の供養塔は寛政八年(一七九六年)諸宗寺院の建立したもので、附近には首洗井戸がある。』


鈴木月極有料駐車場から江原刑場跡西側斜面を登ろう。

けもの道に入ってすぐ、駐車場を振り返り。

竹藪の斜面を登って。

首洗井戸の名残の水なのか、途中に水を湛える池。

静寂の中の水辺にカモが羽を休めていた。

池から江原刑場跡方向へ続くけもの道。国道と化した八丁坂より雰囲気があっていい。

竹藪を抜ければ国道の向こうに江原刑場跡がある。

江原刑場跡から西側斜面のけもの道入口を望む。

江原刑場跡の題目石。前回の厚い雨雲がかかる薄暗い空の下で見るのとでは雰囲気が全然違った感じだが、寛政8年(1796年)の建立というから、ここで多くの処刑を見てきたことは確か。そう考えると少々背筋が寒くなる。

江原刑場跡。かつては凄惨な場所だったはずだが、現在は静かな公園として整備される。

江原台を行く国道296号(成田街道)

鹿島川へ向かって国道の坂を下ろう。

下り坂の途中、正面に角来八幡神社の鎮座する高台が見えてくる。

坂を下りきった所が八幡神社参道入口で、立田屋という店がある。かつては立場茶屋だったような感じ。

角来八幡神社。元禄年間(1668年~1708年)頃の創建とされる。境内の樹林は創建当時から管理保存される古木だという。

角来八幡神社より佐倉城址を望む。写真奥に見える木々に覆われた高台が佐倉城址で、その手前の低地中央に鹿島川が流れる。

角来八幡神社下の成田街道旧道。高台下で鍵の手に曲がり鹿島川へ向かって直進する。

角来八幡神社下の成田街道旧道。路傍左の小堂に角来馬頭観音が安置される。

角来馬頭観音。その由来が佐倉市文化財審議会委員長青柳嘉忠氏によって書かれており、非常に興味深い内容だったので要約して記そう。佐倉惣五郎が当時の庶民に人気が高かったことを伝える逸話である。
万治3年(1660年)佐倉藩主堀田正信は老中松平信綱の政に不満を抱き、幕府に諫書を提出して江戸を無断で立ち退き佐倉へ向かう。その途次、角来八幡神社へ差し掛かったときに馬が疲れ果てて息絶えたという。結局、正信の諫書は認められず、江戸を無断に離れた罪に問われて所領は没収。人々は佐倉惣五郎の祟りであろうと噂した。
延享3年(1746年)正信の弟正俊を初祖とする堀田正亮が山形から佐倉へ転封になる。佐倉城へ向かう途中、角来八幡神社に差し掛かると一人の老人が現れ道案内したという。その話を聞いた一人の老臣が、「老人は正しく佐倉惣五郎の亡霊であろう」と答えた。堀田正亮は惣五郎を将門山の口之明神に祀って毎年盛大な祭を催し、息絶えた馬の供養のためにこの馬頭観音を建立したと伝わる。

角来馬頭観音から鹿島川へ向かう成田街道旧道。

旧道は国道296号に合流。

鹿島橋側道橋で鹿島川を渡河する。

鹿島橋と鹿島川。右手奥が角来八幡神社のある高台。旧道は鹿島橋の少し下流に橋を架けて渡河していたようだ。

鹿島川付近に残る旧道。この先は佐倉城下の田町である。

佐倉城址へ。
【2012年5月12日(土)成田街道 臼井宿→佐倉城下】
前回の歩き旅から1週間後の土曜日、天気は上々。5月はウォーキングにはもってこいの季節、日脚が伸びて歩ける距離も伸ばせるうえに寄り道の時間も多く取れ、しかも陽射しは柔らかい。京成佐倉駅から”ちばグリーンバス”に乗り込み、臼井中学校入口停留所で下車。鈴木月極有料駐車場から江原刑場跡西側斜面のけもの道を登り、前回の歩き旅で無念の中断となった江原台刑場跡から成田街道歩きを再開する。まずは刑場跡にある佐倉市設置の解説板の内容を記しておこう。
『ここは旧佐倉藩の刑場であった。天保十四年(一八四三年)三月、蘭医学研究のため、藩医学研究のため、藩医・鏑木仙安が友人小柴百之・広瀬元恭と共に刑死者の解剖を行った。これが佐倉藩最初の人身解剖である。
題目の供養塔は寛政八年(一七九六年)諸宗寺院の建立したもので、附近には首洗井戸がある。』


鈴木月極有料駐車場から江原刑場跡西側斜面を登ろう。

けもの道に入ってすぐ、駐車場を振り返り。

竹藪の斜面を登って。

首洗井戸の名残の水なのか、途中に水を湛える池。

静寂の中の水辺にカモが羽を休めていた。

池から江原刑場跡方向へ続くけもの道。国道と化した八丁坂より雰囲気があっていい。

竹藪を抜ければ国道の向こうに江原刑場跡がある。

江原刑場跡から西側斜面のけもの道入口を望む。

江原刑場跡の題目石。前回の厚い雨雲がかかる薄暗い空の下で見るのとでは雰囲気が全然違った感じだが、寛政8年(1796年)の建立というから、ここで多くの処刑を見てきたことは確か。そう考えると少々背筋が寒くなる。

江原刑場跡。かつては凄惨な場所だったはずだが、現在は静かな公園として整備される。

江原台を行く国道296号(成田街道)

鹿島川へ向かって国道の坂を下ろう。

下り坂の途中、正面に角来八幡神社の鎮座する高台が見えてくる。

坂を下りきった所が八幡神社参道入口で、立田屋という店がある。かつては立場茶屋だったような感じ。

角来八幡神社。元禄年間(1668年~1708年)頃の創建とされる。境内の樹林は創建当時から管理保存される古木だという。

角来八幡神社より佐倉城址を望む。写真奥に見える木々に覆われた高台が佐倉城址で、その手前の低地中央に鹿島川が流れる。

角来八幡神社下の成田街道旧道。高台下で鍵の手に曲がり鹿島川へ向かって直進する。

角来八幡神社下の成田街道旧道。路傍左の小堂に角来馬頭観音が安置される。

角来馬頭観音。その由来が佐倉市文化財審議会委員長青柳嘉忠氏によって書かれており、非常に興味深い内容だったので要約して記そう。佐倉惣五郎が当時の庶民に人気が高かったことを伝える逸話である。
万治3年(1660年)佐倉藩主堀田正信は老中松平信綱の政に不満を抱き、幕府に諫書を提出して江戸を無断で立ち退き佐倉へ向かう。その途次、角来八幡神社へ差し掛かったときに馬が疲れ果てて息絶えたという。結局、正信の諫書は認められず、江戸を無断に離れた罪に問われて所領は没収。人々は佐倉惣五郎の祟りであろうと噂した。
延享3年(1746年)正信の弟正俊を初祖とする堀田正亮が山形から佐倉へ転封になる。佐倉城へ向かう途中、角来八幡神社に差し掛かると一人の老人が現れ道案内したという。その話を聞いた一人の老臣が、「老人は正しく佐倉惣五郎の亡霊であろう」と答えた。堀田正亮は惣五郎を将門山の口之明神に祀って毎年盛大な祭を催し、息絶えた馬の供養のためにこの馬頭観音を建立したと伝わる。

角来馬頭観音から鹿島川へ向かう成田街道旧道。

旧道は国道296号に合流。

鹿島橋側道橋で鹿島川を渡河する。

鹿島橋と鹿島川。右手奥が角来八幡神社のある高台。旧道は鹿島橋の少し下流に橋を架けて渡河していたようだ。

鹿島川付近に残る旧道。この先は佐倉城下の田町である。

佐倉城址へ。

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