成田山新勝寺っ!
【2012年6月24日(日)成田街道 酒々井宿→成田山新勝寺】
成田街道歩きも成田市に入りラストスパート、日没が迫っており成田山新勝寺へ向けて歩みを速めよう。成田市の成田街道は国道51号、国道409号と道名を変えながら並木坂を下り、並木町の西端を進む。並木町の成田街道と宗吾参道の分岐点には一本松跡の記念碑があり、かつてここにあった一本松を偲ぶ。旅籠の案内人はここで旅人を出迎えたといい、旅人はこの一本松を見てようやく成田へ着いたと安堵の面持ちだったことだろう。残念ながら一本松は昭和51年(1976年)枯死し伐採された。
不動ヶ岡に入りJR成田線・京成本線を越え、両線路に挟まれた狭い土地を街道は通る。人通りがぐっと増える成田駅前を通り抜けて、暮れなずむ表参道を進む。参道両脇には老舗の店舗が並んで門前町らしさを感じさせ、否が応でも気分は盛り上がる。そんな中に西洋風なPUBが数軒あって、店内を覘くとたくさんの外国人が美味そうにビールやカクテル等を飲んでいた。いやはや、さすが成田空港のお膝元、成田は国際都市と古くからの門前町の顔を併せ持つ奇妙な街である。仲町の急坂を下ればいよいよ成田街道のゴール、成田山新勝寺だ。


街道は右手からの国道409号に合流。この合流地点付近に並木町の旧道が残る。

並木町の旧道入口。うっかりしていると見過ごしてしまう下りの小路。

並木町旧道。”居酒屋ぐいぐい”の看板と佇まいが隠れ家的でイイ感じなんだけど、店は潰れてしまったようだ。

並木町旧道。

旧道はすぐに国道409号へ合流、並木坂上交差点に至る。

成田街道は国道51号を横切り。

並木町を進む。

そしてここが一本松跡交差点。成田街道は直進、左に分かれる道が宗吾霊堂へ向かう参道。昔はここまで旅籠の案内人が出迎えてくれていたというが、なにせ電話もない時代のこと、想像するに上客を得ようとする客引きの要素が強かったのかもしれない。

一本松跡の記念碑。この一本松は元々あった松並木のうちの1本で、何故かこの1本だけが昭和末期まで残っていたらしい。記念碑の傍らには松の幼木が植えられており、早く先代に負けないくらいの立派な松に育ってほしいもんだ。

成木県道踏切でJR成田線を渡り不動ヶ岡へ入る。

天慶3年(940年)平将門の乱の鎮撫を祈願するため、寛朝大僧正は公津ヶ原(現 成田市並木町の金刀比羅神社周辺)の地に仮堂を設けて京都より不動明王の本尊を移す。この年が成田山の開山とされる。時は流れて江戸時代末期の安政5年(1858年)新勝寺本堂(現 釈迦堂)が完成し、不動明王が仮堂より本堂へ移す入仏供養が行われるこになったが、公津ヶ原からではあまりに遠いとのことで、仮の安置所を設けて入仏供養の行列は出発したという。その安置所がここ不動ヶ岡の不動明王で、地名の由来にもなった。

不動ヶ岡を行く成田街道。

成田市内の中心部、成田駅前を通り抜けて。

京成成田駅。成田街道歩きではJRとの乗り換えでよく利用させて頂いた。

表参道に入って旅は最終章に。上町の表参道。

仲町の急坂を下って。向こうに新勝寺の三重塔が見えた。

梅屋旅館(手前)と大野屋旅館(奥)。いずれも味のある佇まい。大野屋旅館は江戸中期創業、元々は蝋燭屋だったが、成田に宿泊する場所が無かったことから旅人の便に供するため旅宿へ転業したという。
大野屋
http://www.ryokan-oonoya.com/index.html

成田山新勝寺に到着っ!新勝寺の入口にでーんと構える総門。

総門を潜り抜けた先、大本堂へ至る階段の登り口に仁王門が構える。さすがに日が落ちて参拝客はほとんどいない。新勝寺には間違いなく着いたし、参拝はせずに家へ帰ろう。

JR成田駅から帰途につく。長らく成田街道歩きにお付き合い頂き有難うございました。今宵はこの辺りで失礼させていただきます。
という訳にもいかないので、つづく…。
【成田街道歩き 第6日目】成田街道歩き 京成佐倉駅→佐倉城下→本佐倉城址→酒々井宿→成田山新勝寺→JR成田駅 歩行距離約20km
成田街道歩きも成田市に入りラストスパート、日没が迫っており成田山新勝寺へ向けて歩みを速めよう。成田市の成田街道は国道51号、国道409号と道名を変えながら並木坂を下り、並木町の西端を進む。並木町の成田街道と宗吾参道の分岐点には一本松跡の記念碑があり、かつてここにあった一本松を偲ぶ。旅籠の案内人はここで旅人を出迎えたといい、旅人はこの一本松を見てようやく成田へ着いたと安堵の面持ちだったことだろう。残念ながら一本松は昭和51年(1976年)枯死し伐採された。
不動ヶ岡に入りJR成田線・京成本線を越え、両線路に挟まれた狭い土地を街道は通る。人通りがぐっと増える成田駅前を通り抜けて、暮れなずむ表参道を進む。参道両脇には老舗の店舗が並んで門前町らしさを感じさせ、否が応でも気分は盛り上がる。そんな中に西洋風なPUBが数軒あって、店内を覘くとたくさんの外国人が美味そうにビールやカクテル等を飲んでいた。いやはや、さすが成田空港のお膝元、成田は国際都市と古くからの門前町の顔を併せ持つ奇妙な街である。仲町の急坂を下ればいよいよ成田街道のゴール、成田山新勝寺だ。


街道は右手からの国道409号に合流。この合流地点付近に並木町の旧道が残る。

並木町の旧道入口。うっかりしていると見過ごしてしまう下りの小路。

並木町旧道。”居酒屋ぐいぐい”の看板と佇まいが隠れ家的でイイ感じなんだけど、店は潰れてしまったようだ。

並木町旧道。

旧道はすぐに国道409号へ合流、並木坂上交差点に至る。

成田街道は国道51号を横切り。

並木町を進む。

そしてここが一本松跡交差点。成田街道は直進、左に分かれる道が宗吾霊堂へ向かう参道。昔はここまで旅籠の案内人が出迎えてくれていたというが、なにせ電話もない時代のこと、想像するに上客を得ようとする客引きの要素が強かったのかもしれない。

一本松跡の記念碑。この一本松は元々あった松並木のうちの1本で、何故かこの1本だけが昭和末期まで残っていたらしい。記念碑の傍らには松の幼木が植えられており、早く先代に負けないくらいの立派な松に育ってほしいもんだ。

成木県道踏切でJR成田線を渡り不動ヶ岡へ入る。

天慶3年(940年)平将門の乱の鎮撫を祈願するため、寛朝大僧正は公津ヶ原(現 成田市並木町の金刀比羅神社周辺)の地に仮堂を設けて京都より不動明王の本尊を移す。この年が成田山の開山とされる。時は流れて江戸時代末期の安政5年(1858年)新勝寺本堂(現 釈迦堂)が完成し、不動明王が仮堂より本堂へ移す入仏供養が行われるこになったが、公津ヶ原からではあまりに遠いとのことで、仮の安置所を設けて入仏供養の行列は出発したという。その安置所がここ不動ヶ岡の不動明王で、地名の由来にもなった。

不動ヶ岡を行く成田街道。

成田市内の中心部、成田駅前を通り抜けて。

京成成田駅。成田街道歩きではJRとの乗り換えでよく利用させて頂いた。

表参道に入って旅は最終章に。上町の表参道。

仲町の急坂を下って。向こうに新勝寺の三重塔が見えた。

梅屋旅館(手前)と大野屋旅館(奥)。いずれも味のある佇まい。大野屋旅館は江戸中期創業、元々は蝋燭屋だったが、成田に宿泊する場所が無かったことから旅人の便に供するため旅宿へ転業したという。
大野屋
http://www.ryokan-oonoya.com/index.html

成田山新勝寺に到着っ!新勝寺の入口にでーんと構える総門。

総門を潜り抜けた先、大本堂へ至る階段の登り口に仁王門が構える。さすがに日が落ちて参拝客はほとんどいない。新勝寺には間違いなく着いたし、参拝はせずに家へ帰ろう。

JR成田駅から帰途につく。長らく成田街道歩きにお付き合い頂き有難うございました。今宵はこの辺りで失礼させていただきます。
という訳にもいかないので、つづく…。
【成田街道歩き 第6日目】成田街道歩き 京成佐倉駅→佐倉城下→本佐倉城址→酒々井宿→成田山新勝寺→JR成田駅 歩行距離約20km

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