成田山新勝寺っ!へ再び
【成田街道歩き 第7日目】JR成田駅→成田山新勝寺→寺台宿→JR成田駅
【2012年7月8日(日)成田街道 成田山新勝寺・寺台宿】
前回の成田街道歩きから1週間後の日曜日、梅雨明けの発表はいまだ聞かれぬが天気は上々。この日は成田祇園祭の最終日にあたり、最大の見どころとなる山車・屋台総引きが行われる。祭り見物を兼ねられることもあり、成田街道歩きの最終目的、新勝寺参拝を果たすにはもってこい。これを逃してはならんと意気込んで我孫子駅からJR成田線で成田へ向かう。成田駅を出た途端に街はいつもと違った祭りの様相、駅前には花崎町の山車が今や遅しと出発を待つ。多くの見物客が行き交う表参道を歩いて成田山新勝寺っ!へ再び。
成田山新勝寺は天慶3年(940年)平将門の乱の鎮撫を祈願するため、寛朝大僧正が公津ヶ原(現 成田市並木町の金刀比羅神社周辺)の地に仮堂を設け、京都より不動明王の本尊を移したことに起源がある。この不動明王が新勝寺の本尊であり、成田山の開山が天慶3年とされる所以。成田山参詣が庶民の人気を得ることになったのは江戸時代中期頃から。江戸で出開帳が始められて世間に広く知れ渡るようになり、出開帳は明治31年(1898年)の最後となる深川出開帳まで15回を数えた。また、歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田山に祈願したところ、跡継ぎとなる子を授かったことから不動明王の歌舞伎を演じるようになり、成田山参詣の人気に拍車をかけたともいう。市川團十郎が成田屋の屋号で呼ばれる所以である。
成田山新勝寺にまつわる逸話で気になることが一つ。平将門のことである。新勝寺の起源は関東地方で朝廷に対して反乱を起こした平将門の討伐を目的に、京都から不動明王を持ってきて護摩の儀式を行ったことにある。つまり、平将門よ、おとなしく死んでくれということだ。そして将門は討ち取られ反乱は鎮められた。そのため平将門を祭神に祀る神田明神へ参拝してから新勝寺に参拝すると、将門の祟りによって災いを招くと伝わり、古くからタブー視されてきたのである。私は5年前の2007年、中山道を京都へ向けて歩いている折、神田明神に参拝しているのである。清河八郎が宇都宮の二荒山神社について書いた文言が頭をよぎる。
『明神は公儀普請にて、石壁高くたたみあげ、経営のうるわしき事、日光に継べし。されどもしら木作にて、却て品よく思わるる也。伝へいふ、王をはかり、遂滅亡に及びし平の将門のからだをまつるとぞ。首は則神田明にまつる也。』
あーあ、神田明神どころか、宇都宮の二荒山神社にも参拝してるよ…。現代にあってはただの迷信に過ぎないと思うのだが…。しまむーの運命や如何に。

JR成田駅にて。出発を待つ花崎町の山車。

JR成田駅交差点から表参道へ。

花崎町の表参道。

ここで成田祇園祭のパンフレットを貰い、山車・屋台総引きの時間を確認。午後1時からか、まだまだ時間があるので先に新勝寺参拝を済ませることに。

成田の地酒「長命泉」を扱う藤屋。

上町の表参道。

薬師堂前の三叉路。ここから表参道は下りの急坂に。

表参道に並ぶ店、その先に見える新勝寺の三重塔。お気に入りの景観。

仲町の表参道。結構な急坂に店が並ぶ。それにしても凄い人出。

梅屋旅館と大野屋旅館。人の往来が多いせいか前回とは随分と雰囲気が違う。

大野屋旅館の建物は昭和10年(1935年)に建て替えられた木造4階建て。にょきっと突き出た4階部分は特等席だろうか。他に類を見ない建築である。鉄砲漬けを製造販売しており、成田を代表する名産品。

成田山新勝寺の入口、総門。

成田山新勝寺仁王門。天保元年(1830年)建立で、国指定の重要文化財。

仁王門を潜り抜けて。

成田山新勝寺大本堂と三重塔。ついに成田街道歩きの最終目的、本尊不動明王に参拝を果たす!

せっかくなので境内の諸堂を巡ろう。まずは額堂。今に見る額堂は第二額堂であり文久元年(1861年)の建立。国指定の重要文化財。第一額堂(三升の額堂)は成田屋七代目、市川團十郎の寄進により文政4年(1821年)に建立されたが、昭和40年(1965年)に焼失してしまったという。

額堂には成田屋七代目、市川團十郎の石像が置かれる。

光明堂は釈迦堂(前本堂)が本堂になる前の旧本堂。つまり現在の大本堂の先々代。元禄14年(1701年)の建立で、国指定の重要文化財。

光明堂の裏手にある奥之院。成田祇園祭の期間中限定で公開。本尊不動明王の本地仏”大日如来”が安置される。せっかくなのでローソクを買い奥之院内部へ入り大日如来に参拝。奥之院内部は狭い洞窟状になっており、写真を撮ることも憚れたので入口の写真だけで。

平和大塔。昭和59年(1984年)弘法大師1150年御遠忌と世界万民の平和を祈願して建てられた。地下には世界を代表する11名の方々のメッセージを納めるタイムカプセルが埋められており、2434年に開封されるという。間違いなく生きとらんな…。

せっかくのせっかくなので平和大塔から成田山公園を巡ろうとしたところ、いきなり有難くない出会いが…。スズメバチがせっせと樹液を吸っていた。刺激をしないようにそっと通り抜けよう。

成田山公園雄滝。別名を”雄飛の滝”といい、栃木県の那須塩原にある”雄飛の滝”を模した人造の滝らしい。

こちらは雌滝。と言っても水が止めらているようで…。

昭和3年(1928年)水行者の脱衣場として建立された洗心堂。つまり雄滝と雌滝は水行の修行場ということか。この辺り、山中の渓谷にいるのではないかと錯覚する程の景観だ。

成田山公園はこんな感じで滝や池を配置している。

雄滝・雌滝の水が流れ込む文殊の池。この池を第一として3つの池が並ぶ。

第二の池をなす竜樹の池。

そして最後、第三の池をなす竜智の池。池の中には浮御堂が建つ。ここは紅葉の名所であるが、青緑の時期でありながらも美しい景観だ。
山車・屋台総引きの時間が近づいてきた。そろそろ表参道へ戻ろう。
【2012年7月8日(日)成田街道 成田山新勝寺・寺台宿】
前回の成田街道歩きから1週間後の日曜日、梅雨明けの発表はいまだ聞かれぬが天気は上々。この日は成田祇園祭の最終日にあたり、最大の見どころとなる山車・屋台総引きが行われる。祭り見物を兼ねられることもあり、成田街道歩きの最終目的、新勝寺参拝を果たすにはもってこい。これを逃してはならんと意気込んで我孫子駅からJR成田線で成田へ向かう。成田駅を出た途端に街はいつもと違った祭りの様相、駅前には花崎町の山車が今や遅しと出発を待つ。多くの見物客が行き交う表参道を歩いて成田山新勝寺っ!へ再び。
成田山新勝寺は天慶3年(940年)平将門の乱の鎮撫を祈願するため、寛朝大僧正が公津ヶ原(現 成田市並木町の金刀比羅神社周辺)の地に仮堂を設け、京都より不動明王の本尊を移したことに起源がある。この不動明王が新勝寺の本尊であり、成田山の開山が天慶3年とされる所以。成田山参詣が庶民の人気を得ることになったのは江戸時代中期頃から。江戸で出開帳が始められて世間に広く知れ渡るようになり、出開帳は明治31年(1898年)の最後となる深川出開帳まで15回を数えた。また、歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田山に祈願したところ、跡継ぎとなる子を授かったことから不動明王の歌舞伎を演じるようになり、成田山参詣の人気に拍車をかけたともいう。市川團十郎が成田屋の屋号で呼ばれる所以である。
成田山新勝寺にまつわる逸話で気になることが一つ。平将門のことである。新勝寺の起源は関東地方で朝廷に対して反乱を起こした平将門の討伐を目的に、京都から不動明王を持ってきて護摩の儀式を行ったことにある。つまり、平将門よ、おとなしく死んでくれということだ。そして将門は討ち取られ反乱は鎮められた。そのため平将門を祭神に祀る神田明神へ参拝してから新勝寺に参拝すると、将門の祟りによって災いを招くと伝わり、古くからタブー視されてきたのである。私は5年前の2007年、中山道を京都へ向けて歩いている折、神田明神に参拝しているのである。清河八郎が宇都宮の二荒山神社について書いた文言が頭をよぎる。
『明神は公儀普請にて、石壁高くたたみあげ、経営のうるわしき事、日光に継べし。されどもしら木作にて、却て品よく思わるる也。伝へいふ、王をはかり、遂滅亡に及びし平の将門のからだをまつるとぞ。首は則神田明にまつる也。』
あーあ、神田明神どころか、宇都宮の二荒山神社にも参拝してるよ…。現代にあってはただの迷信に過ぎないと思うのだが…。しまむーの運命や如何に。

JR成田駅にて。出発を待つ花崎町の山車。

JR成田駅交差点から表参道へ。

花崎町の表参道。

ここで成田祇園祭のパンフレットを貰い、山車・屋台総引きの時間を確認。午後1時からか、まだまだ時間があるので先に新勝寺参拝を済ませることに。

成田の地酒「長命泉」を扱う藤屋。

上町の表参道。

薬師堂前の三叉路。ここから表参道は下りの急坂に。

表参道に並ぶ店、その先に見える新勝寺の三重塔。お気に入りの景観。

仲町の表参道。結構な急坂に店が並ぶ。それにしても凄い人出。

梅屋旅館と大野屋旅館。人の往来が多いせいか前回とは随分と雰囲気が違う。

大野屋旅館の建物は昭和10年(1935年)に建て替えられた木造4階建て。にょきっと突き出た4階部分は特等席だろうか。他に類を見ない建築である。鉄砲漬けを製造販売しており、成田を代表する名産品。

成田山新勝寺の入口、総門。

成田山新勝寺仁王門。天保元年(1830年)建立で、国指定の重要文化財。

仁王門を潜り抜けて。

成田山新勝寺大本堂と三重塔。ついに成田街道歩きの最終目的、本尊不動明王に参拝を果たす!

せっかくなので境内の諸堂を巡ろう。まずは額堂。今に見る額堂は第二額堂であり文久元年(1861年)の建立。国指定の重要文化財。第一額堂(三升の額堂)は成田屋七代目、市川團十郎の寄進により文政4年(1821年)に建立されたが、昭和40年(1965年)に焼失してしまったという。

額堂には成田屋七代目、市川團十郎の石像が置かれる。

光明堂は釈迦堂(前本堂)が本堂になる前の旧本堂。つまり現在の大本堂の先々代。元禄14年(1701年)の建立で、国指定の重要文化財。

光明堂の裏手にある奥之院。成田祇園祭の期間中限定で公開。本尊不動明王の本地仏”大日如来”が安置される。せっかくなのでローソクを買い奥之院内部へ入り大日如来に参拝。奥之院内部は狭い洞窟状になっており、写真を撮ることも憚れたので入口の写真だけで。

平和大塔。昭和59年(1984年)弘法大師1150年御遠忌と世界万民の平和を祈願して建てられた。地下には世界を代表する11名の方々のメッセージを納めるタイムカプセルが埋められており、2434年に開封されるという。間違いなく生きとらんな…。

せっかくのせっかくなので平和大塔から成田山公園を巡ろうとしたところ、いきなり有難くない出会いが…。スズメバチがせっせと樹液を吸っていた。刺激をしないようにそっと通り抜けよう。

成田山公園雄滝。別名を”雄飛の滝”といい、栃木県の那須塩原にある”雄飛の滝”を模した人造の滝らしい。

こちらは雌滝。と言っても水が止めらているようで…。

昭和3年(1928年)水行者の脱衣場として建立された洗心堂。つまり雄滝と雌滝は水行の修行場ということか。この辺り、山中の渓谷にいるのではないかと錯覚する程の景観だ。

成田山公園はこんな感じで滝や池を配置している。

雄滝・雌滝の水が流れ込む文殊の池。この池を第一として3つの池が並ぶ。

第二の池をなす竜樹の池。

そして最後、第三の池をなす竜智の池。池の中には浮御堂が建つ。ここは紅葉の名所であるが、青緑の時期でありながらも美しい景観だ。
山車・屋台総引きの時間が近づいてきた。そろそろ表参道へ戻ろう。

スポンサーサイト