板橋宿と加賀藩下屋敷跡
【川越街道歩き 第1日目】新板橋駅→JR板橋駅→板橋宿→上板橋宿→下練馬宿→東武練馬駅
【2012年8月18日(土)川越街道 板橋宿】
川越街道の第一歩を踏み出すべく、5年ぶりに板橋宿を訪れた。まずは5年前と同様に、新選組隊長近藤勇の墓所を参拝するため、都営三田線の新板橋駅から徒歩でJR板橋駅へ移動。しかし、来訪を拒むかのように到着間近でゲリラ豪雨に襲われ、板橋駅前にある”カフェテラス ピコリーノ”に飛び込んだ。ここで朝食をとることにし、コーヒーを飲みながら天候の回復を待つこと30分程、雨は小康状態となったので、会計を済ませ近藤勇墓所へ。流山で捕縛された近藤勇は、板橋宿平尾の脇本陣・豊田家に幽閉され、付近の板橋刑場で斬首された。その御霊を弔うため、新選組の生き残りであった永倉新八(新選組二番隊隊長、後に杉村義衛へ改名)が、明治9年(1876年)斬首刑の後に胴体を埋めたとされる場所に供養塔を建てた。それが板橋駅前の近藤勇墓所である。
近藤勇墓所での参拝を終え、板橋宿内の旧中山道を歩いて川越街道との分岐点へ。川越街道に一歩を踏み出す前に板橋宿南東部一帯、約22万坪もの敷地を有していたという加賀藩下屋敷跡を散策することにした。加賀百万石と称された大藩の加賀藩前田家。藩祖は豊臣五大老の一人である前田利家、以来前田家が江戸期を通じて藩主を務めている。加賀藩の上屋敷は東大の敷地内に赤門が残る本郷、中屋敷は巣鴨御籠町(現 文京区本駒込6丁目辺り)、下屋敷が板橋(現 板橋区加賀周辺一帯)にあった。下屋敷のはじまりは延宝7年(1679年)、4代藩主前田綱紀が将軍徳川家綱から板橋の地に6万坪を拝領したことにあり、以来領地加増を繰り返して約22万坪もの敷地を有するようになったという。幕末になると加賀藩は下屋敷で石神井川の水流を利用して大砲を製造するようになり、その流れは明治期以降も引き継がれ、下屋敷の地に板橋火薬製造所が建造され軍工場として変貌を遂げてゆく。


5年ぶりの近藤勇墓所である。供養碑に手を合わせ、「ご無沙汰しております。遅ればせながら無事旧中山道を歩き通しました。」と報告。旧中山道を歩いていた頃のことが昨日のことのようによみがえり、懐かしい。
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新選組局長・近藤勇

板橋駅横を通る旧中山道を歩いて。

板橋宿の平尾追分へ。ここが旧中山道と川越街道の分岐点。旧中山道は旧街道の面影を残した小径であるが、川越街道は上に首都高が通る国道17号の幹線道路と化している。

板橋宿の平尾追分。右は旧中山道、左に行けば川越街道。第一歩を踏み出す前に、板橋宿を久々に歩こう。

ラッピーも健在なようで。
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板橋宿

旧中山道・川越街道の分岐点にはかつて板橋警察署(明治6年建造)があった。その跡地に当時の様子を描く切り絵を載せた解説板が設置され、往時を偲ぶ。

板橋宿平尾脇本陣豊田家跡。板橋宿で問屋・脇本陣・平尾の名主を務めた家である。現在その敷地はマンションが建てられ往時の面影を見ることはできない。下総流山で捕えられた近藤勇が、処刑されるまでの間に幽閉されていたのが、ここ豊田家である。

板橋宿を行く旧中山道。銭湯の”花の湯”が雰囲気ある良い佇まい。

旧中山道仲宿交差点。ここで旧中山道を離れ加賀藩下屋敷跡を散策することに。また旧中山道を歩く日がきっと来るだろう。その日まで!

加賀藩下屋敷跡にある板谷公園。昭和12年(1937年)東京市板谷公園として開園、板橋区内で最も古い公園だという。公園になる前は板谷商船の土地だったことから板谷公園の名が付けられたようだ。当時の標識が今も残っている。

加賀公園に建てられる”板橋区史跡 加賀前田家下屋敷跡”の石標。近隣には加賀の地名をはじめ、金沢橋や加賀橋等、加賀藩に因む名が見られる。

加賀公園内にある弾道検査管の標的。板橋火薬製造所だった時代の遺構である。この辺りは火薬の種類や量を変えて弾丸の速度等を測定する観測所跡で、これは実験用の弾丸が撃ち込まれた標的である。昭和15年(1940年)板橋火薬工場は東京第二陸軍兵廠に改組、火薬の製造・研究は引き続き行われたが、太平洋戦争の終戦によって解体される運命を辿る。

石神井川と加賀公園の築山。加賀藩下屋敷の唯一残る遺構がこの築山である。当時の下屋敷は約22万坪にも及ぶ広大な敷地に、石神井川と千川用水かた配水した大池を置き、築山や立石、滝等を各所に配する池泉回遊式庭園だったという。幕末、園遊会に招かれた会津藩主松平容保は「まるで桃源郷のようだ」と表現したらしい。

築山を登ってみることに。昔はてっぺんから素晴らしい庭園が望めたんだろうな…。
【2012年8月18日(土)川越街道 板橋宿】
川越街道の第一歩を踏み出すべく、5年ぶりに板橋宿を訪れた。まずは5年前と同様に、新選組隊長近藤勇の墓所を参拝するため、都営三田線の新板橋駅から徒歩でJR板橋駅へ移動。しかし、来訪を拒むかのように到着間近でゲリラ豪雨に襲われ、板橋駅前にある”カフェテラス ピコリーノ”に飛び込んだ。ここで朝食をとることにし、コーヒーを飲みながら天候の回復を待つこと30分程、雨は小康状態となったので、会計を済ませ近藤勇墓所へ。流山で捕縛された近藤勇は、板橋宿平尾の脇本陣・豊田家に幽閉され、付近の板橋刑場で斬首された。その御霊を弔うため、新選組の生き残りであった永倉新八(新選組二番隊隊長、後に杉村義衛へ改名)が、明治9年(1876年)斬首刑の後に胴体を埋めたとされる場所に供養塔を建てた。それが板橋駅前の近藤勇墓所である。
近藤勇墓所での参拝を終え、板橋宿内の旧中山道を歩いて川越街道との分岐点へ。川越街道に一歩を踏み出す前に板橋宿南東部一帯、約22万坪もの敷地を有していたという加賀藩下屋敷跡を散策することにした。加賀百万石と称された大藩の加賀藩前田家。藩祖は豊臣五大老の一人である前田利家、以来前田家が江戸期を通じて藩主を務めている。加賀藩の上屋敷は東大の敷地内に赤門が残る本郷、中屋敷は巣鴨御籠町(現 文京区本駒込6丁目辺り)、下屋敷が板橋(現 板橋区加賀周辺一帯)にあった。下屋敷のはじまりは延宝7年(1679年)、4代藩主前田綱紀が将軍徳川家綱から板橋の地に6万坪を拝領したことにあり、以来領地加増を繰り返して約22万坪もの敷地を有するようになったという。幕末になると加賀藩は下屋敷で石神井川の水流を利用して大砲を製造するようになり、その流れは明治期以降も引き継がれ、下屋敷の地に板橋火薬製造所が建造され軍工場として変貌を遂げてゆく。


5年ぶりの近藤勇墓所である。供養碑に手を合わせ、「ご無沙汰しております。遅ればせながら無事旧中山道を歩き通しました。」と報告。旧中山道を歩いていた頃のことが昨日のことのようによみがえり、懐かしい。
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新選組局長・近藤勇

板橋駅横を通る旧中山道を歩いて。

板橋宿の平尾追分へ。ここが旧中山道と川越街道の分岐点。旧中山道は旧街道の面影を残した小径であるが、川越街道は上に首都高が通る国道17号の幹線道路と化している。

板橋宿の平尾追分。右は旧中山道、左に行けば川越街道。第一歩を踏み出す前に、板橋宿を久々に歩こう。

ラッピーも健在なようで。
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旧中山道・川越街道の分岐点にはかつて板橋警察署(明治6年建造)があった。その跡地に当時の様子を描く切り絵を載せた解説板が設置され、往時を偲ぶ。

板橋宿平尾脇本陣豊田家跡。板橋宿で問屋・脇本陣・平尾の名主を務めた家である。現在その敷地はマンションが建てられ往時の面影を見ることはできない。下総流山で捕えられた近藤勇が、処刑されるまでの間に幽閉されていたのが、ここ豊田家である。

板橋宿を行く旧中山道。銭湯の”花の湯”が雰囲気ある良い佇まい。

旧中山道仲宿交差点。ここで旧中山道を離れ加賀藩下屋敷跡を散策することに。また旧中山道を歩く日がきっと来るだろう。その日まで!

加賀藩下屋敷跡にある板谷公園。昭和12年(1937年)東京市板谷公園として開園、板橋区内で最も古い公園だという。公園になる前は板谷商船の土地だったことから板谷公園の名が付けられたようだ。当時の標識が今も残っている。

加賀公園に建てられる”板橋区史跡 加賀前田家下屋敷跡”の石標。近隣には加賀の地名をはじめ、金沢橋や加賀橋等、加賀藩に因む名が見られる。

加賀公園内にある弾道検査管の標的。板橋火薬製造所だった時代の遺構である。この辺りは火薬の種類や量を変えて弾丸の速度等を測定する観測所跡で、これは実験用の弾丸が撃ち込まれた標的である。昭和15年(1940年)板橋火薬工場は東京第二陸軍兵廠に改組、火薬の製造・研究は引き続き行われたが、太平洋戦争の終戦によって解体される運命を辿る。

石神井川と加賀公園の築山。加賀藩下屋敷の唯一残る遺構がこの築山である。当時の下屋敷は約22万坪にも及ぶ広大な敷地に、石神井川と千川用水かた配水した大池を置き、築山や立石、滝等を各所に配する池泉回遊式庭園だったという。幕末、園遊会に招かれた会津藩主松平容保は「まるで桃源郷のようだ」と表現したらしい。

築山を登ってみることに。昔はてっぺんから素晴らしい庭園が望めたんだろうな…。

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