川越街道の五本けやき
【2012年8月18日(土)川越街道 上板橋宿→下練馬宿】
国道254号と環七通りが交差する板橋中央陸橋下で下頭橋通り(旧川越街道)は国道に合流。その交差点から国道を川越方面へ進むこと約1.5km、中央分離帯に五本のケヤキが聳え立つ。世に知られる”川越街道の五本けやき”である。昭和初期、新川越街道(現 国道254号)敷設工事の際、上板橋村村長・飯島弥十郎家の屋敷林が道路用地に計画され、屋敷林の一角にあったけやき林を残す条件で用地提供を承諾したという。新川越街道は伐り倒される予定だったこのけやき林を避けて通され、今や車が激しく往来する国道の中央分離帯に、5本のけやきが聳え立つ所以である。


下頭橋通り(旧川越街道)は板橋中央陸橋下で国道254号に合流。

板橋中央陸橋交差点角に長命寺(写真左奥)がある。この地は”お東山”と呼ばれ、室町時代に板橋城が築かれた場所と伝わる。その周辺一帯は住宅やマンション、ビル店舗が密集して少々わかり難くなっているが、長命寺や上板橋小学校は小高い丘の上にあり、その東辺から南辺にかけて石神井川が流れることから、400年以上前に城があったのだと言われれば、そうだったのかなと思う程度の状態。そんな現況なので大規模に発掘調査もできないようで、あくまで伝承地なのである。

板橋城の跡地と比定される長命寺。「新編武蔵風土記稿」や現存する過去帳から、江戸時代前期には創建されていたと推定される。つまり、板橋城は秀吉の小田原征伐によって滅亡した北条方板橋氏の居城であり、板橋城の比定地がここで正解なら、廃城後にその城郭を利用して長命寺が創建されたということなのか。

東山町の国道254号。東山町は古くからの呼び名”お東山”の名残なのだろう。写真右手一帯が板橋城址と伝わる場所である。

上板橋一丁目バス停付近で国道から旧道が分岐する(写真中央の小路)。いったんここは通り過ぎて”五本けやき”を見に行こう。

国道254号の中央分離帯に聳える五本けやき。車だと街路樹程度に見ながら通り過ぎてしまうだろうが、旧上板橋村村長・飯島弥十郎家の屋敷地を通行している、いやいや、させていただいていることに感謝しなければならない場所だ。先祖代々引き継がれた思い出深い屋敷林を、きっと無念の思いで道路地に提供したのだから。

川越街道の五本けやき。昭和45年(1970年)地元有志によって保存会が結成され、その保護に努めているという。板橋区内の幹線道路中央にあって、これらの木々を保存していくことは大変な事だろう。

五本けやきを見て国道を戻り旧道へ。写真は旧道へ入ってすぐ、国道との分岐点方向を撮影。左手のタバコ屋がレトロな感じでいいね。

上板南口銀座のアーケードを潜り抜けて。

上板南口銀座商店街。

上板南口銀座商店街に安置される子育て地蔵。

子育て地蔵は元々、栗原堰の一本橋(現 板橋区桜川1丁目5番地)付近にあり、明治初年に”ガッカラ坂”と呼ばれる現在の板橋区上板橋の街道沿いに移されたと云う。大正期には川越街道と上板橋駅を結ぶ道の交差点角にあったが、地蔵は放置に近い状態で倒れていたらしい。そんな状態を見かねた宝田豆腐店の店主が、店舗に隣接した現在地へ移し祀った。昭和10年頃には子育て地蔵の講が結成され、大切に守られて現在に至っている。

上板南口銀座の西側アーケードを潜り抜ければ、程なくして板橋区から練馬区へ。
国道254号と環七通りが交差する板橋中央陸橋下で下頭橋通り(旧川越街道)は国道に合流。その交差点から国道を川越方面へ進むこと約1.5km、中央分離帯に五本のケヤキが聳え立つ。世に知られる”川越街道の五本けやき”である。昭和初期、新川越街道(現 国道254号)敷設工事の際、上板橋村村長・飯島弥十郎家の屋敷林が道路用地に計画され、屋敷林の一角にあったけやき林を残す条件で用地提供を承諾したという。新川越街道は伐り倒される予定だったこのけやき林を避けて通され、今や車が激しく往来する国道の中央分離帯に、5本のけやきが聳え立つ所以である。


下頭橋通り(旧川越街道)は板橋中央陸橋下で国道254号に合流。

板橋中央陸橋交差点角に長命寺(写真左奥)がある。この地は”お東山”と呼ばれ、室町時代に板橋城が築かれた場所と伝わる。その周辺一帯は住宅やマンション、ビル店舗が密集して少々わかり難くなっているが、長命寺や上板橋小学校は小高い丘の上にあり、その東辺から南辺にかけて石神井川が流れることから、400年以上前に城があったのだと言われれば、そうだったのかなと思う程度の状態。そんな現況なので大規模に発掘調査もできないようで、あくまで伝承地なのである。

板橋城の跡地と比定される長命寺。「新編武蔵風土記稿」や現存する過去帳から、江戸時代前期には創建されていたと推定される。つまり、板橋城は秀吉の小田原征伐によって滅亡した北条方板橋氏の居城であり、板橋城の比定地がここで正解なら、廃城後にその城郭を利用して長命寺が創建されたということなのか。

東山町の国道254号。東山町は古くからの呼び名”お東山”の名残なのだろう。写真右手一帯が板橋城址と伝わる場所である。

上板橋一丁目バス停付近で国道から旧道が分岐する(写真中央の小路)。いったんここは通り過ぎて”五本けやき”を見に行こう。

国道254号の中央分離帯に聳える五本けやき。車だと街路樹程度に見ながら通り過ぎてしまうだろうが、旧上板橋村村長・飯島弥十郎家の屋敷地を通行している、いやいや、させていただいていることに感謝しなければならない場所だ。先祖代々引き継がれた思い出深い屋敷林を、きっと無念の思いで道路地に提供したのだから。

川越街道の五本けやき。昭和45年(1970年)地元有志によって保存会が結成され、その保護に努めているという。板橋区内の幹線道路中央にあって、これらの木々を保存していくことは大変な事だろう。

五本けやきを見て国道を戻り旧道へ。写真は旧道へ入ってすぐ、国道との分岐点方向を撮影。左手のタバコ屋がレトロな感じでいいね。

上板南口銀座のアーケードを潜り抜けて。

上板南口銀座商店街。

上板南口銀座商店街に安置される子育て地蔵。

子育て地蔵は元々、栗原堰の一本橋(現 板橋区桜川1丁目5番地)付近にあり、明治初年に”ガッカラ坂”と呼ばれる現在の板橋区上板橋の街道沿いに移されたと云う。大正期には川越街道と上板橋駅を結ぶ道の交差点角にあったが、地蔵は放置に近い状態で倒れていたらしい。そんな状態を見かねた宝田豆腐店の店主が、店舗に隣接した現在地へ移し祀った。昭和10年頃には子育て地蔵の講が結成され、大切に守られて現在に至っている。

上板南口銀座の西側アーケードを潜り抜ければ、程なくして板橋区から練馬区へ。

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