比叡山・雲母坂
旧東海道を歩き始め前日の2013年5月18日(土)、延暦13年(794年)平安京遷都から1200年以上もの長きに渡って京都の鬼門を守り続ける比叡山延暦寺を訪ねた。せっかくなので記事に書いておきたい。比叡山を歩いて登れないものかと考え、ネットで調べてみたところ、京都側から比叡山を登れる雲母(きらら)坂という登山道があることを知った。都から雲が生ずるように覆って見えたからとか、坂の土壌が花崗岩の砕けた地質で雲母が含まれているからとか、その名の由来に諸説ある雲母坂。平安時代に浄土真宗の宗祖・親鸞が延暦寺へ修学のために登った道と云われ、叡山の山法師たちが日吉大社の神輿(しんよ)を担いで強訴に山を駆け降りた道でもあるという。また、延暦寺への勅使参向に利用された道ともいわれ勅使坂の異名をも持ち、なかなか歴史の深い登山道のようだ。何だか楽しめそうな予感。


京都駅から奈良線・京阪本線・叡山電車と乗り継ぎ修学院駅で下車。この駅が雲母坂登山口の最寄駅である。ここから比叡山アタックを開始しよう。

白川通の音羽橋から音羽川左岸を上流に向かう。

音羽川と比叡山。前方に聳えるのが比叡山、想像以上に高さを感じ、これからここを登るのかと思うと少々慄いてしまった。

雲母坂登山口の標識。

登山口標識の所から砂利道に。

進むにつれて登山らしい雰囲気になってくる。

雲母橋で音羽川を渡って右岸へ。

雲母橋付近、雲母坂の登り口に”親鸞聖人御旧跡きらら坂”と刻まれる石柱が立つ。比叡山に修学していた親鸞が六角堂へ百日参籠する際、雲母坂を往還したことを伝える記念碑である。

修学院消防分団設置の比叡山登山口案内。

ここで舗装道を左手に分かれ雲母坂は本格的な登山道となる。写真左手辺りは雲母(うんも)寺跡で、その跡地を示す石標が置かれている。雲母寺は平安時代の創建、不動明王を本尊としていたことから雲母坂には不動坂の異名も。明治時代初期に廃寺となり、本堂と本尊は赤山禅院に移された。

雲母坂は本格的な登山道に。

路傍に古びれた擁壁の石垣が残る。

雲母坂北側は修学院の敷地。鉄条網で隔たれ立入禁止。

雲母坂登山道。

叡山の山法師がここを強訴に駆け降りたのだろうか。

深くえぐられた山道に歴史の長さを感じよう。

ひたすら急斜面を登って一転、雲母坂は平坦な尾根道に。

雲母坂にて。

水飲対陣之跡碑。雲母坂半ばの平坦な地点に写真の石碑が立つ。南北朝時代、南朝(後醍醐天皇・新田義貞・楠木正成等)方の公家千種忠顕率いる軍勢と、北朝方足利尊氏の弟足利直義率いる軍勢がここで対陣、戦となったことを伝える碑である。

振り返って水飲対陣跡を望む。

水飲対陣跡付近、雲母坂登山道。

”京都一周トレイル東山70”の標識地点。再び急斜面の上りとなり。

”京都一周トレイル東山71”の標識がある場所で登山道は二又に分かれている。写真左方向の急斜面を登って行くと”千種忠顕卿戦死之地碑”がある。

千種忠顕卿戦死之地碑。北朝方足利直義の軍勢と戦った千種忠顕はここで討死したという。

千種忠顕卿戦死之地碑から更に登山道を登り。

ようやくケーブル比叡駅の姿が!

ケーブル比叡駅から京都市街を眺望。雲母寺跡の登山口からここまで約1時間半の道程。苦労して登ってただけに、京都市街を眼下に望んで気分は最高だ。

ケーブル比叡駅。山頂へはここで叡山ロープウェイに乗り換える。

ケーブル比叡駅を後にして先へ進もう。

ケーブル比叡駅から少々山道を進んだところで不自然な感じに建物が現れる。

何だろと思ってたら、ここは比叡山人工スキー場跡。平成13年(2001年)冬季シーズンの営業を最後に閉鎖。それから10年以上経っているのだが、ロッジやリフト等の施設が今も取り残されている。

昔はスキー客で賑わったであろうロッジも、今は昔。

手を入れればリフトも再び動き出しそうな感じ。

比叡山人工スキー場跡を過ぎて少し進んだ所、山肌にツツジが咲き誇るその名も”つつじヶ丘”。

比叡山つつじヶ丘。

ちょうど見頃の時期を迎えていたツツジ。赤・白・ピンクの花色が新緑の中に映え素晴らしい。

つつじヶ丘に並ぶ石塔・石仏群。古くから信仰されてきた山であることが所々に見られる。

国家鎮護の石碑横を通って。比叡山は平安の昔から国家鎮護のため、京の鬼門を護ってきたのだ。

いよいよ比叡山境内へ。
撮影日:2013年5月18日(土)


京都駅から奈良線・京阪本線・叡山電車と乗り継ぎ修学院駅で下車。この駅が雲母坂登山口の最寄駅である。ここから比叡山アタックを開始しよう。

白川通の音羽橋から音羽川左岸を上流に向かう。

音羽川と比叡山。前方に聳えるのが比叡山、想像以上に高さを感じ、これからここを登るのかと思うと少々慄いてしまった。

雲母坂登山口の標識。

登山口標識の所から砂利道に。

進むにつれて登山らしい雰囲気になってくる。

雲母橋で音羽川を渡って右岸へ。

雲母橋付近、雲母坂の登り口に”親鸞聖人御旧跡きらら坂”と刻まれる石柱が立つ。比叡山に修学していた親鸞が六角堂へ百日参籠する際、雲母坂を往還したことを伝える記念碑である。

修学院消防分団設置の比叡山登山口案内。

ここで舗装道を左手に分かれ雲母坂は本格的な登山道となる。写真左手辺りは雲母(うんも)寺跡で、その跡地を示す石標が置かれている。雲母寺は平安時代の創建、不動明王を本尊としていたことから雲母坂には不動坂の異名も。明治時代初期に廃寺となり、本堂と本尊は赤山禅院に移された。

雲母坂は本格的な登山道に。

路傍に古びれた擁壁の石垣が残る。

雲母坂北側は修学院の敷地。鉄条網で隔たれ立入禁止。

雲母坂登山道。

叡山の山法師がここを強訴に駆け降りたのだろうか。

深くえぐられた山道に歴史の長さを感じよう。

ひたすら急斜面を登って一転、雲母坂は平坦な尾根道に。

雲母坂にて。

水飲対陣之跡碑。雲母坂半ばの平坦な地点に写真の石碑が立つ。南北朝時代、南朝(後醍醐天皇・新田義貞・楠木正成等)方の公家千種忠顕率いる軍勢と、北朝方足利尊氏の弟足利直義率いる軍勢がここで対陣、戦となったことを伝える碑である。

振り返って水飲対陣跡を望む。

水飲対陣跡付近、雲母坂登山道。

”京都一周トレイル東山70”の標識地点。再び急斜面の上りとなり。

”京都一周トレイル東山71”の標識がある場所で登山道は二又に分かれている。写真左方向の急斜面を登って行くと”千種忠顕卿戦死之地碑”がある。

千種忠顕卿戦死之地碑。北朝方足利直義の軍勢と戦った千種忠顕はここで討死したという。

千種忠顕卿戦死之地碑から更に登山道を登り。

ようやくケーブル比叡駅の姿が!

ケーブル比叡駅から京都市街を眺望。雲母寺跡の登山口からここまで約1時間半の道程。苦労して登ってただけに、京都市街を眼下に望んで気分は最高だ。

ケーブル比叡駅。山頂へはここで叡山ロープウェイに乗り換える。

ケーブル比叡駅を後にして先へ進もう。

ケーブル比叡駅から少々山道を進んだところで不自然な感じに建物が現れる。

何だろと思ってたら、ここは比叡山人工スキー場跡。平成13年(2001年)冬季シーズンの営業を最後に閉鎖。それから10年以上経っているのだが、ロッジやリフト等の施設が今も取り残されている。

昔はスキー客で賑わったであろうロッジも、今は昔。

手を入れればリフトも再び動き出しそうな感じ。

比叡山人工スキー場跡を過ぎて少し進んだ所、山肌にツツジが咲き誇るその名も”つつじヶ丘”。

比叡山つつじヶ丘。

ちょうど見頃の時期を迎えていたツツジ。赤・白・ピンクの花色が新緑の中に映え素晴らしい。

つつじヶ丘に並ぶ石塔・石仏群。古くから信仰されてきた山であることが所々に見られる。

国家鎮護の石碑横を通って。比叡山は平安の昔から国家鎮護のため、京の鬼門を護ってきたのだ。

いよいよ比叡山境内へ。
撮影日:2013年5月18日(土)

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