草津宿
【旧東海道歩き 第3日目】草津第一ホテル→草津宿→石部宿→JR石部駅
【2013年7月14日(日)旧東海道 草津宿】
宿泊先の草津第一ホテルで朝食を済ませ、7時半頃に出発。まずは”本家うばがもちや”の本店に立ち寄り、草津名物”姥が餅”を購入し、本日のスタート地点となる草津宿へ向かう。前日同様に大気の状態が不安定、晴れ間があるものの草津宿本陣に来たところで突然雨が降り出す。前途多難な1日を予感しつつ、旧東海道歩きの再開する。まずは草津宿街道交流館と草津宿本陣を見学することに。
東海道は江戸日本橋から数えて52宿目、京都三条大橋からならば2宿目となる草津宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ南北7町15間半(約792m)・東西4町38間(約505m)、人口2351人、家数586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒。立木神社が京方入口、ここから宮町・六町目~一町目と町並みが続き、高札場を置く草津追分で中山道が分岐、東へ鉤の手に曲げられた東海道沿道に西横町・東横町の町割り。宿京方外れには矢倉立場があり、「急がば回れ」の語源と伝わる琵琶湖渡船の矢橋渡しへ至る矢橋道が分岐していた。


草津第一ホテルを出発!

開店直後の”本家うばがもちや”本店に立ち寄る。織田信長により滅亡する六角義賢が臨終の際、曾孫を乳母に後事を託し、曾孫を連れて郷里に帰った乳母は、餅を作り商いをして養育費を稼いだという。いつしかその餅は”姥(乳母)が餅”と呼ばれるようになったと伝わる。江戸時代には矢倉立場に店があったが、現在は国道1号線沿いに本店を構えている。
お菓子処 うばがもちや
http://www.nanyouken.co.jp/ubagamochiya/

うばがもち”を購入。さて味見といきたいところだが、朝食後だし家に帰ってからにしよう。

本日の旧東海道歩きのスタート地点、草津追分へ移動。左直進方向は旧中山道、右折が旧東海道である。旧中山道上は天井川の草津川、現在は隧道が通っているが昔はここをよじ登って川を渡っていた。

東海道と中山道の分岐点にある草津追分道標。文化13年(1816年)の建立。高さ一丈四尺七寸(4.45m)、「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と刻まれる。大燈籠を載せる立派な道標だ。

名所図会に見る渡し場の風景。隧道入口横に解説付でこの絵図が掲げられ、昔の草津追分はこんなんだったんだと、往時に思いを馳せらせるのも面白い。草津追分に道標と高札が並び、追分から草津川渡しに向かう中山道の様子がよくわかる。

旧一町目西側、田中七左衛門本陣前を行く旧東海道。

田中七左衛門本陣は草津宿に置かれた2軒の本陣のうちの一つで、現存するのはこちらだけ。国指定史跡の貴重な遺構である。内部公開しているが、まだ開館前なので後ほど。

草津宿旧二町目・一町目の町並み。”ベーカリー&カフェ 脇本陣”等、古風な店舗が並び旧宿場の雰囲気漂う。

旧二町目東側にあった田中九蔵本陣跡。明治期に跡継ぎが絶えて建物は取り壊されたとのこと。現在その跡地には草津市まちなか交流施設”くさつ夢本陣”、隣接してプリマヴィラ本陣というマンションが建ち、名に本陣の名残を留めている。

草津宿街道交流館を見学しよう。
草津宿 ~東海道と中山道が出会うまち~
http://www.kusatsujuku.jp/

街道交流館には草津宿や街道関係の興味深い展示が多い。草津宿に訪れた際には是非とも立ち寄ってほしい。

展示の中でも特に興味深く見学したのが、この江戸時代の草津宿を再現した模型。当時の町並みがよくわかり、草津宿散策を一層面白くしてくれる。

明治2年に描かれた”うばがもち”の絵を基に復元した模型。現代のうばがもち(下写真)より一回り大きく、形も少々違う。

現代のうばがもち。乳母にかけて乳房をイメージしているらしい。

草津宿街道交流館にて。浮世絵摺りを体験。まあまあの出来かな。

次は草津宿(田中七左衛門)本陣を見学に。旧中山道歩きの時以来の再訪。

表門を潜り抜けて本陣敷地内へ。

玄関広間から奥の上段の間へ通ずる畳廊下。

本陣主屋の奥には庭園が配される。

草津宿本陣台所土間。短時間に多くの食事を準備するためだろう、五連式の竈が二基設置されている。多くの賄いが忙しく働いていた様子が目に浮かぶ。

見学を終えて本陣を後に。時間は11時ちょっと前、朝方に比べ人通りが多くなった。

さあ、草津追分から旧東海道を歩き始めよう。

草津宿旧西横町より追分方向を望む。

草津宿旧東横町の町並み。

草津宿江戸方入口より旧東横町を望む。江戸方から来ると草津川を渡ってここから草津宿に入る。

草津宿街道交流館に展示の草津宿模型より。江戸時代の草津宿江戸方入口はこんな様子だった。

草津宿江戸方入口、路傍に残る火袋付石造道標。草津追分の道標と同じ作りで、建立年も同じく文化13年(1816年)。「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」と刻む。

草津川の渡し場跡に架かる草津川橋。

水の流れが無い草津川。平成14年(2002年)草津川放水路が開削され、下流域の旧河道は廃川に。いずれ堤防や橋梁は撤去されてしまうのだろうか。
【2013年7月14日(日)旧東海道 草津宿】
宿泊先の草津第一ホテルで朝食を済ませ、7時半頃に出発。まずは”本家うばがもちや”の本店に立ち寄り、草津名物”姥が餅”を購入し、本日のスタート地点となる草津宿へ向かう。前日同様に大気の状態が不安定、晴れ間があるものの草津宿本陣に来たところで突然雨が降り出す。前途多難な1日を予感しつつ、旧東海道歩きの再開する。まずは草津宿街道交流館と草津宿本陣を見学することに。
東海道は江戸日本橋から数えて52宿目、京都三条大橋からならば2宿目となる草津宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ南北7町15間半(約792m)・東西4町38間(約505m)、人口2351人、家数586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒。立木神社が京方入口、ここから宮町・六町目~一町目と町並みが続き、高札場を置く草津追分で中山道が分岐、東へ鉤の手に曲げられた東海道沿道に西横町・東横町の町割り。宿京方外れには矢倉立場があり、「急がば回れ」の語源と伝わる琵琶湖渡船の矢橋渡しへ至る矢橋道が分岐していた。


草津第一ホテルを出発!

開店直後の”本家うばがもちや”本店に立ち寄る。織田信長により滅亡する六角義賢が臨終の際、曾孫を乳母に後事を託し、曾孫を連れて郷里に帰った乳母は、餅を作り商いをして養育費を稼いだという。いつしかその餅は”姥(乳母)が餅”と呼ばれるようになったと伝わる。江戸時代には矢倉立場に店があったが、現在は国道1号線沿いに本店を構えている。
お菓子処 うばがもちや
http://www.nanyouken.co.jp/ubagamochiya/

うばがもち”を購入。さて味見といきたいところだが、朝食後だし家に帰ってからにしよう。

本日の旧東海道歩きのスタート地点、草津追分へ移動。左直進方向は旧中山道、右折が旧東海道である。旧中山道上は天井川の草津川、現在は隧道が通っているが昔はここをよじ登って川を渡っていた。

東海道と中山道の分岐点にある草津追分道標。文化13年(1816年)の建立。高さ一丈四尺七寸(4.45m)、「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と刻まれる。大燈籠を載せる立派な道標だ。

名所図会に見る渡し場の風景。隧道入口横に解説付でこの絵図が掲げられ、昔の草津追分はこんなんだったんだと、往時に思いを馳せらせるのも面白い。草津追分に道標と高札が並び、追分から草津川渡しに向かう中山道の様子がよくわかる。

旧一町目西側、田中七左衛門本陣前を行く旧東海道。

田中七左衛門本陣は草津宿に置かれた2軒の本陣のうちの一つで、現存するのはこちらだけ。国指定史跡の貴重な遺構である。内部公開しているが、まだ開館前なので後ほど。

草津宿旧二町目・一町目の町並み。”ベーカリー&カフェ 脇本陣”等、古風な店舗が並び旧宿場の雰囲気漂う。

旧二町目東側にあった田中九蔵本陣跡。明治期に跡継ぎが絶えて建物は取り壊されたとのこと。現在その跡地には草津市まちなか交流施設”くさつ夢本陣”、隣接してプリマヴィラ本陣というマンションが建ち、名に本陣の名残を留めている。

草津宿街道交流館を見学しよう。
草津宿 ~東海道と中山道が出会うまち~
http://www.kusatsujuku.jp/

街道交流館には草津宿や街道関係の興味深い展示が多い。草津宿に訪れた際には是非とも立ち寄ってほしい。

展示の中でも特に興味深く見学したのが、この江戸時代の草津宿を再現した模型。当時の町並みがよくわかり、草津宿散策を一層面白くしてくれる。

明治2年に描かれた”うばがもち”の絵を基に復元した模型。現代のうばがもち(下写真)より一回り大きく、形も少々違う。

現代のうばがもち。乳母にかけて乳房をイメージしているらしい。

草津宿街道交流館にて。浮世絵摺りを体験。まあまあの出来かな。

次は草津宿(田中七左衛門)本陣を見学に。旧中山道歩きの時以来の再訪。

表門を潜り抜けて本陣敷地内へ。

玄関広間から奥の上段の間へ通ずる畳廊下。

本陣主屋の奥には庭園が配される。

草津宿本陣台所土間。短時間に多くの食事を準備するためだろう、五連式の竈が二基設置されている。多くの賄いが忙しく働いていた様子が目に浮かぶ。

見学を終えて本陣を後に。時間は11時ちょっと前、朝方に比べ人通りが多くなった。

さあ、草津追分から旧東海道を歩き始めよう。

草津宿旧西横町より追分方向を望む。

草津宿旧東横町の町並み。

草津宿江戸方入口より旧東横町を望む。江戸方から来ると草津川を渡ってここから草津宿に入る。

草津宿街道交流館に展示の草津宿模型より。江戸時代の草津宿江戸方入口はこんな様子だった。

草津宿江戸方入口、路傍に残る火袋付石造道標。草津追分の道標と同じ作りで、建立年も同じく文化13年(1816年)。「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」と刻む。

草津川の渡し場跡に架かる草津川橋。

水の流れが無い草津川。平成14年(2002年)草津川放水路が開削され、下流域の旧河道は廃川に。いずれ堤防や橋梁は撤去されてしまうのだろうか。

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