水口宿
【旧東海道歩き 第5日目】ホテル古城→水口宿→土山宿→田村神社停留所
【2013年8月4日(日)旧東海道 水口宿】
旧東海道歩きで水口辺りに泊まろうと思って探した宿泊施設がホテル古城。古城山(旧名大岡山、水口岡山城址)の麓にあることからホテル古城の名を付けたのだろう。何はともあれ、ここを選択して良かった。水口宿に程近いうえに土山方面へ行ける甲賀市コミュニティバス(あいくるバス)運行の新水口停留所は目の前だ。旧東海道の水口宿から土山宿にかけて散策する者にとっては絶好の立地にあるホテルと言って良いだろう。ここにはビジネスホテルながら大浴場があり、足の疲れを癒すには申し分ない。そんな理由から一晩の宿を得た後の朝、本日の宿泊も予約してホテルを出発。水口宿から土山宿に向けて歩き出す。灼熱の旧東海道、どんな歩き旅となるのだろうか。
江戸日本橋から数えて50宿目、京都三条大橋からならば4宿目となる水口宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。豊臣秀吉が天下の覇権を握った時代、水口岡山城が築かれその南側にあった集落が城下町として発展、水口宿の大きな特徴である三筋の道はこの時に敷設されたという。江戸時代になって東海道が整備されると本陣や脇本陣、問屋場等が置かれ、宿場町として発展を続け往来の旅人で賑わった。名物は干瓢をはじめ泥鰌汁・煙管・葛細工等。歌川広重は東海道五十三次・水口「名物干瓢」の題で、女性らが干瓢の原料であるユウガオを細長く剝いている様子を浮世絵に描いている。
より大きな地図で 水口宿 を表示

朝7時半、朝食を済ませホテル古城を出発。信楽焼の狸の置物に見送られて。

まずはホテル古城の隣にある大岡寺を参拝に。

大岡寺は白鳳14年(686年)行基が大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置して創建したことに始まりがあると伝わる。最盛期には16もの坊舎を擁する大寺院となったが、天正2年(1574年)兵火によって東之坊(本坊)を残して焼失。天正13年(1585年)大岡山に岡山城が築城され、東之坊は南方の地頭という地に移転した。享保元年(1716年)になり廃城となっていた岡山城(大岡山)の麓にあたる現在地に堂宇を再建、以来水口藩主加藤家歴代の祈願所となった。

大岡寺から昨日の旧東海道歩きの終了地点である水口町本町と水口町京町の境、本水口商店街駐車場に移動。そこから水口岡山城址の古城山を望む。

本水口商店街駐車場付近より京方(水口町本町)方面を望む。昨日ここまで歩いてきた道だ。

さあ、ここから水口宿内を東へ向けて歩こう。

水口宿の人馬継立を差配した問屋場跡。江戸中期以来、宿駅伝馬制度が廃されるまで大池町南側(現 水口町京町)にあたるこの地に問屋場が置かれていた。

水口町京町(旅籠町)の旧東海道。昔は旅籠が軒を連ねていたのだろう。

水口石橋で三筋に分かれた道はここで南側の一筋と旧東海道が合流。写真右方向の道が京方からの旧東海道、左方向が南側の一筋。

旧東海道沿いにある”ダイニングカフェ タクミヤ”。旧宿場町のカフェらしい店構えが素敵。

水口宿札の辻。三筋に分かれた北側の一筋がここで旧東海道と合流。その合流地点に高札場が置かれていたため札の辻と呼ばれた。写真左方向の道が京方からの旧東海道、右方向が北側の一筋。

高札場跡。復元された高札を設置する。

水口町元町(作坂町)の旧東海道。作坂町には本陣(写真左手前)や脇本陣が置かれた。

水口宿鵜飼本陣跡。明治2年(1869年)明治天皇の宿泊を最後に本陣職が廃され、後に建物は撤去された。現在はその跡地に明治天皇聖蹟碑が残り、解説板等を設置し整備されている。

本陣跡より古城山(水口岡山城址)を望む。

水口町元町(松原町)を行く旧東海道。

水口宿東端にあたる片町(現 水口町秋葉)。

水口宿江戸方出入口、東見附跡。往時は枡形土居を巡らし木戸や番所が置かれていた。
【2013年8月4日(日)旧東海道 水口宿】
旧東海道歩きで水口辺りに泊まろうと思って探した宿泊施設がホテル古城。古城山(旧名大岡山、水口岡山城址)の麓にあることからホテル古城の名を付けたのだろう。何はともあれ、ここを選択して良かった。水口宿に程近いうえに土山方面へ行ける甲賀市コミュニティバス(あいくるバス)運行の新水口停留所は目の前だ。旧東海道の水口宿から土山宿にかけて散策する者にとっては絶好の立地にあるホテルと言って良いだろう。ここにはビジネスホテルながら大浴場があり、足の疲れを癒すには申し分ない。そんな理由から一晩の宿を得た後の朝、本日の宿泊も予約してホテルを出発。水口宿から土山宿に向けて歩き出す。灼熱の旧東海道、どんな歩き旅となるのだろうか。
江戸日本橋から数えて50宿目、京都三条大橋からならば4宿目となる水口宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。豊臣秀吉が天下の覇権を握った時代、水口岡山城が築かれその南側にあった集落が城下町として発展、水口宿の大きな特徴である三筋の道はこの時に敷設されたという。江戸時代になって東海道が整備されると本陣や脇本陣、問屋場等が置かれ、宿場町として発展を続け往来の旅人で賑わった。名物は干瓢をはじめ泥鰌汁・煙管・葛細工等。歌川広重は東海道五十三次・水口「名物干瓢」の題で、女性らが干瓢の原料であるユウガオを細長く剝いている様子を浮世絵に描いている。
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朝7時半、朝食を済ませホテル古城を出発。信楽焼の狸の置物に見送られて。

まずはホテル古城の隣にある大岡寺を参拝に。

大岡寺は白鳳14年(686年)行基が大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置して創建したことに始まりがあると伝わる。最盛期には16もの坊舎を擁する大寺院となったが、天正2年(1574年)兵火によって東之坊(本坊)を残して焼失。天正13年(1585年)大岡山に岡山城が築城され、東之坊は南方の地頭という地に移転した。享保元年(1716年)になり廃城となっていた岡山城(大岡山)の麓にあたる現在地に堂宇を再建、以来水口藩主加藤家歴代の祈願所となった。

大岡寺から昨日の旧東海道歩きの終了地点である水口町本町と水口町京町の境、本水口商店街駐車場に移動。そこから水口岡山城址の古城山を望む。

本水口商店街駐車場付近より京方(水口町本町)方面を望む。昨日ここまで歩いてきた道だ。

さあ、ここから水口宿内を東へ向けて歩こう。

水口宿の人馬継立を差配した問屋場跡。江戸中期以来、宿駅伝馬制度が廃されるまで大池町南側(現 水口町京町)にあたるこの地に問屋場が置かれていた。

水口町京町(旅籠町)の旧東海道。昔は旅籠が軒を連ねていたのだろう。

水口石橋で三筋に分かれた道はここで南側の一筋と旧東海道が合流。写真右方向の道が京方からの旧東海道、左方向が南側の一筋。

旧東海道沿いにある”ダイニングカフェ タクミヤ”。旧宿場町のカフェらしい店構えが素敵。

水口宿札の辻。三筋に分かれた北側の一筋がここで旧東海道と合流。その合流地点に高札場が置かれていたため札の辻と呼ばれた。写真左方向の道が京方からの旧東海道、右方向が北側の一筋。

高札場跡。復元された高札を設置する。

水口町元町(作坂町)の旧東海道。作坂町には本陣(写真左手前)や脇本陣が置かれた。

水口宿鵜飼本陣跡。明治2年(1869年)明治天皇の宿泊を最後に本陣職が廃され、後に建物は撤去された。現在はその跡地に明治天皇聖蹟碑が残り、解説板等を設置し整備されている。

本陣跡より古城山(水口岡山城址)を望む。

水口町元町(松原町)を行く旧東海道。

水口宿東端にあたる片町(現 水口町秋葉)。

水口宿江戸方出入口、東見附跡。往時は枡形土居を巡らし木戸や番所が置かれていた。

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