蟹が坂の大蟹伝説
【旧東海道歩き 第6日目】田村神社停留所→鈴鹿峠→坂下宿→関宿→JR関駅
【2013年10月13日(日)旧東海道 土山宿→坂下宿 道中】
東海道伝馬館を見学しての翌日、朝7時過ぎに水口のホテル古城を出立。新水口停留所より”あいくるバス”に乗車して田村停留所まで移動するつもりだったが、休日ダイヤの始発バスが来るまで30分以上あり、何もない停留所で待っているのも手持ち無沙汰なので、歩いて少しでも先に進むことに。そして到着時間が合致した7時50分に県道新城停留所で”あいくるバス”の大河原行に乗車、20分弱の間バスに揺られ田村神社停留所で下車する。田村神社から旧東海道歩きを再開、東海道三大難所の一つ、鈴鹿峠へ挑もう。
田村神社境内から田村川を渡って1km程進めば蟹が坂集落に入る。この”蟹が坂”という地名の由来に因む伝説が面白い。北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたという。ここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信がに撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したという。村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたという。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説である。
より大きな地図で 蟹が坂の大蟹伝説 を表示

旧東海道歩きの続きはここ田村神社境内入口前、”いこいのたこ焼屋”から。このたこ焼き屋さん、本業の傍ら土山名物の蟹が坂飴を製造販売している。

旧東海道は田村神社境内を通り、ここを右折して田村川を渡る。

これが田村神社境内の旧東海道ルート。

倭姫命・嵯峨天皇・坂上田村麻呂を祭神に祀る田村神社。弘仁3年(812年)創建と伝わる。

海道橋西詰、橋番所があったとされる場所(写真左手)。橋番所の番人は地元住民が務め、橋を渡る旅人から渡り賃銭を徴収していた。

田村川に架かる海道橋。ここに橋が初めて架けられたのは安永4年(1775年)、田村永代板橋と呼ばれ幅二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)、約30cmの低い欄干が付いていた。それ以前は現在の国道1号が通る田村橋より約50m下流辺りを徒歩により渡っていたという。

海道橋上より田村川下流方面を望む。向こうに架かる橋が国道1号の田村橋で、その下流域が田村川の徒歩渡し跡となる。本日の水量くらいなら徒歩で渡ることも十分可能だが、川幅が狭いので大雨が降ると激流になり溺死する旅人も多かったらしい。

田村永代板橋の復元高札。架橋の理由や渡橋の条件等が高札に書かれている。下記に句読点を補い読み下し文で紹介。
田村川橋歩行渡しの処、出水の節、差支候に付、土山宿自普請を以、道附替橋掛渡し、当閏十二月二十三日より相通し、御用の通行、武家の往来、近村渡世の者これ除き、其外諸旅人より壱人に付三文宛、荷一駄に付荷主より三文宛
永くこれ取るべく者也。
安永四未閏十二月
道中奉行

蟹坂古戦場跡。天文11年(1542年)甲賀への侵入を目論む伊勢の北畠軍と、山中城主の山中秀国の軍勢がこの一帯で攻防戦を展開。近江守護の六角定頼より援軍を受けて山中勢が勝利し、北畠勢の甲賀侵入を阻止した。

高尾金属工業の敷地内を通る旧東海道。

蟹が坂集落を行く旧東海道。

蟹が坂集落の東端に鎮座する榎島神社。御神木の椎の木は樹齢400年を越える。

せっかくなのでここに現れたという大蟹に思いを馳せ、”かにが坂飴”を舐めながら歩こう。

蟹が坂集落から次の猪鼻集落への旧東海道は、南側を流れる谷川に沿って山を上るルートだったが、国道1号の敷設による開削で失われている。

蟹が坂集落の旧道から国道1号を挟んで向こうに延びる道。谷川に向かって下っており、少なからず旧東海道の道筋を踏襲していると思われる。この先の谷川沿いに蟹塚があるらしいが未確認。

国道1号の猪鼻集落入口付近。写真右奥の高台に金比羅神社が鎮座。旧東海道はその神社手前の写真右手山上から左手に見える民家奥にかけて下り坂の道筋だったと思われるが、国道1号の開削によってその道筋は失われている。

猪鼻集落の京方入口に鎮座する金比羅神社。

猪鼻集落の旧東海道に入ってすぐ振り返って京方面を撮影。旧東海道は国道1号の擁壁に向かって坂道が続いていたのだろうことが推測される。

猪鼻集落を行く旧東海道。

猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしい。かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だった。

旅籠中屋跡。明治天皇が御小休でここに立ち寄られた。家屋前に明治天皇聖蹟碑が建つ。

天正年間(1573年~1591年)開基の浄福寺。伝教大師最澄の作と伝わる薬師如来座像を本尊に祀る。

浄福寺前、大高源吾の句碑。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名のった。
いの花や 早稲のまもるる 山おろし

猪鼻集落の江戸方(東側)出入口。「東海道猪鼻村」と刻む石碑を置く。

旧東海道は湖国興業の敷地内に消失。

国道1号へ迂回して先へ。写真奥に見える新名神高速道の高架橋手前、右手山上から左手にかけて下り坂の旧東海道の道筋が残っているが、国道1号が分断している。

旧東海道が国道1号に分断されている地点には山中一里塚公園がある。江戸日本橋から109里目(約428km)、京三条大橋からは16番目(実測で約66km地点)となる一里塚が付近にあった。

山中一里塚公園にて。駄馬を惹く馬子を表していると思われる石像だが、風雨に晒されたためか馬子の風化が著しい。

山中一里塚公園に残る櫟野(いちの)観音道道標。ちょうどこの地点は東海道を分かれて神村(現 甲賀市甲賀町神)や櫟野村(現 甲賀市甲賀町櫟野)へ至る櫟野観音道(大原道)の分岐点で、この道標が置かれていた。道標正面に「いちゐのくわんおん道」と刻み、櫟野にある櫟野寺への案内道標である。

山中一里塚公園付近、京方に残る旧東海道。草竹コンクリート工業の私道となっており、これより先は関係者以外立入禁止の立て看板が。ここまでにして引き返す。

新名神高速道の高架橋下を潜り抜けて。

山中の旧東海道筋にある地蔵大菩薩堂。

小田川橋を渡った先で国道1号に合流。

国道1号の向こうに十楽寺。

社殿が真新しい熊野神社。

国道1号山中交差点。付近に民家が数軒見られる。

山中交差点付近にある山賊茶屋。残念ながら廃業している。その昔、鈴鹿峠の一帯は山賊が出没し、往来する旅人はを金品を奪われる等して難儀したようだ。そんな昔話にあやかって名付けた店名なのだろうが、国道1号と化した峠道に山賊が現れるような雰囲気はない。

緩やかな坂道の国道1号を上って鈴鹿峠へ。
【2013年10月13日(日)旧東海道 土山宿→坂下宿 道中】
東海道伝馬館を見学しての翌日、朝7時過ぎに水口のホテル古城を出立。新水口停留所より”あいくるバス”に乗車して田村停留所まで移動するつもりだったが、休日ダイヤの始発バスが来るまで30分以上あり、何もない停留所で待っているのも手持ち無沙汰なので、歩いて少しでも先に進むことに。そして到着時間が合致した7時50分に県道新城停留所で”あいくるバス”の大河原行に乗車、20分弱の間バスに揺られ田村神社停留所で下車する。田村神社から旧東海道歩きを再開、東海道三大難所の一つ、鈴鹿峠へ挑もう。
田村神社境内から田村川を渡って1km程進めば蟹が坂集落に入る。この”蟹が坂”という地名の由来に因む伝説が面白い。北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたという。ここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信がに撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したという。村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたという。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説である。
より大きな地図で 蟹が坂の大蟹伝説 を表示

旧東海道歩きの続きはここ田村神社境内入口前、”いこいのたこ焼屋”から。このたこ焼き屋さん、本業の傍ら土山名物の蟹が坂飴を製造販売している。

旧東海道は田村神社境内を通り、ここを右折して田村川を渡る。

これが田村神社境内の旧東海道ルート。

倭姫命・嵯峨天皇・坂上田村麻呂を祭神に祀る田村神社。弘仁3年(812年)創建と伝わる。

海道橋西詰、橋番所があったとされる場所(写真左手)。橋番所の番人は地元住民が務め、橋を渡る旅人から渡り賃銭を徴収していた。

田村川に架かる海道橋。ここに橋が初めて架けられたのは安永4年(1775年)、田村永代板橋と呼ばれ幅二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)、約30cmの低い欄干が付いていた。それ以前は現在の国道1号が通る田村橋より約50m下流辺りを徒歩により渡っていたという。

海道橋上より田村川下流方面を望む。向こうに架かる橋が国道1号の田村橋で、その下流域が田村川の徒歩渡し跡となる。本日の水量くらいなら徒歩で渡ることも十分可能だが、川幅が狭いので大雨が降ると激流になり溺死する旅人も多かったらしい。

田村永代板橋の復元高札。架橋の理由や渡橋の条件等が高札に書かれている。下記に句読点を補い読み下し文で紹介。
田村川橋歩行渡しの処、出水の節、差支候に付、土山宿自普請を以、道附替橋掛渡し、当閏十二月二十三日より相通し、御用の通行、武家の往来、近村渡世の者これ除き、其外諸旅人より壱人に付三文宛、荷一駄に付荷主より三文宛
永くこれ取るべく者也。
安永四未閏十二月
道中奉行

蟹坂古戦場跡。天文11年(1542年)甲賀への侵入を目論む伊勢の北畠軍と、山中城主の山中秀国の軍勢がこの一帯で攻防戦を展開。近江守護の六角定頼より援軍を受けて山中勢が勝利し、北畠勢の甲賀侵入を阻止した。

高尾金属工業の敷地内を通る旧東海道。

蟹が坂集落を行く旧東海道。

蟹が坂集落の東端に鎮座する榎島神社。御神木の椎の木は樹齢400年を越える。

せっかくなのでここに現れたという大蟹に思いを馳せ、”かにが坂飴”を舐めながら歩こう。

蟹が坂集落から次の猪鼻集落への旧東海道は、南側を流れる谷川に沿って山を上るルートだったが、国道1号の敷設による開削で失われている。

蟹が坂集落の旧道から国道1号を挟んで向こうに延びる道。谷川に向かって下っており、少なからず旧東海道の道筋を踏襲していると思われる。この先の谷川沿いに蟹塚があるらしいが未確認。

国道1号の猪鼻集落入口付近。写真右奥の高台に金比羅神社が鎮座。旧東海道はその神社手前の写真右手山上から左手に見える民家奥にかけて下り坂の道筋だったと思われるが、国道1号の開削によってその道筋は失われている。

猪鼻集落の京方入口に鎮座する金比羅神社。

猪鼻集落の旧東海道に入ってすぐ振り返って京方面を撮影。旧東海道は国道1号の擁壁に向かって坂道が続いていたのだろうことが推測される。

猪鼻集落を行く旧東海道。

猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしい。かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だった。

旅籠中屋跡。明治天皇が御小休でここに立ち寄られた。家屋前に明治天皇聖蹟碑が建つ。

天正年間(1573年~1591年)開基の浄福寺。伝教大師最澄の作と伝わる薬師如来座像を本尊に祀る。

浄福寺前、大高源吾の句碑。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名のった。
いの花や 早稲のまもるる 山おろし

猪鼻集落の江戸方(東側)出入口。「東海道猪鼻村」と刻む石碑を置く。

旧東海道は湖国興業の敷地内に消失。

国道1号へ迂回して先へ。写真奥に見える新名神高速道の高架橋手前、右手山上から左手にかけて下り坂の旧東海道の道筋が残っているが、国道1号が分断している。

旧東海道が国道1号に分断されている地点には山中一里塚公園がある。江戸日本橋から109里目(約428km)、京三条大橋からは16番目(実測で約66km地点)となる一里塚が付近にあった。

山中一里塚公園にて。駄馬を惹く馬子を表していると思われる石像だが、風雨に晒されたためか馬子の風化が著しい。

山中一里塚公園に残る櫟野(いちの)観音道道標。ちょうどこの地点は東海道を分かれて神村(現 甲賀市甲賀町神)や櫟野村(現 甲賀市甲賀町櫟野)へ至る櫟野観音道(大原道)の分岐点で、この道標が置かれていた。道標正面に「いちゐのくわんおん道」と刻み、櫟野にある櫟野寺への案内道標である。

山中一里塚公園付近、京方に残る旧東海道。草竹コンクリート工業の私道となっており、これより先は関係者以外立入禁止の立て看板が。ここまでにして引き返す。

新名神高速道の高架橋下を潜り抜けて。

山中の旧東海道筋にある地蔵大菩薩堂。

小田川橋を渡った先で国道1号に合流。

国道1号の向こうに十楽寺。

社殿が真新しい熊野神社。

国道1号山中交差点。付近に民家が数軒見られる。

山中交差点付近にある山賊茶屋。残念ながら廃業している。その昔、鈴鹿峠の一帯は山賊が出没し、往来する旅人はを金品を奪われる等して難儀したようだ。そんな昔話にあやかって名付けた店名なのだろうが、国道1号と化した峠道に山賊が現れるような雰囲気はない。

緩やかな坂道の国道1号を上って鈴鹿峠へ。

- 関連記事
-
- 蟹が坂の大蟹伝説
- 東海道伝馬館
- 水口城資料館・水口歴史民俗資料館
- 土山宿
- 松尾川の渡し
スポンサーサイト