野村一里塚
【旧東海道歩き 第7日目】ホテルルートイン第2亀山インター→亀山宿→庄野宿→JR加佐登駅
【2014年3月9日(日)旧東海道 関宿→亀山宿】
宿泊先のホテルルートイン第2亀山インターで朝食をとり朝8時に出立、旧東海道の大岡寺畷(たいこうじなわて)から歩みを戻す。天気は雲が所々にかかるものの前日に引き続き晴れ。寒くも暑くも無い絶好のウォーキング日和だ。大岡寺畷とは関宿と亀山宿の間、鈴鹿川左岸の土手上を通る東海道を指し、その距離18町(約2km)にも及ぶ東海道随一の長さを誇る直線道。往時は見事な松並木だったらしく、太田南畝(蜀山人)は改元紀行に「松の並木両行に立てり 此間十八町にて大岡寺縄手といふ」と記している。大岡寺という名は、かつて付近にあった”六門山四王院大岡寺”(廃寺)に由来すると伝わるが、調べてみてもその大岡寺がどこにあったのかがはっきりしない。現在は松並木に代わって桜並木となり、桜の名所として知られる。
大岡寺畷の旧東海道は東端で関西本線に分断される形で終わり、その先の観音坂を上れば落針・野尻集落の家並みが続く。野尻集落を抜けて家がとぎれとぎれになると、遠く左手に椋の大木が見えてくる。これが野村集落の西端に現存する野村一里塚である。大正3年(1914年)南側の塚は撤去されたが、どういった経緯なのか北側の塚は撤去を免れた。三重県下にあった旧東海道の一里塚12基のうち、現存するのは野村一里塚だけ。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る一里塚らしい一里塚だけに、貴重な旧東海道の街道遺構である。
より大きな地図で 野村一里塚 を表示

かつては18町(約2km)にも及ぶ松並木の直線道だった大岡寺畷。現在は松に代わって桜が植えられている。桜の枝にはつぼみが見られたが、少々時期が早かった。美しい満開の桜並木を想像することにしよう。

大岡寺畷の東端で旧東海道は関西本線に分断。

関西本線を越えて間もなく、Y字路に。左方向が観音坂の旧東海道。この分岐点にひっそりと常夜燈がある。

観音坂上り口にある常夜燈。安政6年(1859年)建立。元々は落針の日原にあった”やけ八幡”と呼ばれる八幡祠の常夜燈。明治41年(1908年)に”やけ八幡”は布気神社に合祀されており、その際に役目を終えた常夜燈がここへ移設されたのか。

旧東海道観音坂。

観音坂上には坂名の由来なのたろう、昼寝観音がある。

落針の観音堂(昼寝観音)。昼寝観音とは滑稽な異名である。昼寝をしていたがため、三十三観音霊場に入る機会を逸したという伝説が。親近感たっぷりの観音様。

落針集落を行く旧東海道。落針という地名は平家の落武者がこの地に住み着き、落逃村等と呼ばれたものが変化したと伝わる。明治8年(1875年)落針村と野尻村が合併し布気村が成立した。

落針の古民家ギャラリー。

神辺簡易郵便局。古民家郵便局の名がふさわしい感じ。

布気皇舘太神社前を行く旧東海道。神社斜向かいに元禄3年(1690年)開店の能古(のんこ)茶屋があった。茶屋の主人は道心坊能古という禅僧で、松尾芭蕉の親友だったという。芭蕉は旅の途次で能古茶屋に逗留し、「枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮」の句を作ったと伝わる。

神辺七郷の総社、布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社。神辺七郷とは中世におけるこの地域一帯の総称で、野尻村(現 亀山市布気町)、落針村(現 亀山市布気町)、大岡寺村(現 亀山市大岡寺町)、山下村(現 亀山市山下町)、木下村(現 亀山市木下町)、小野村(現 亀山市小野町)、鷲山村(現 亀山市関町鷲山)の七ヶ村を指す。

野尻集落で旧東海道は鍵の手に左へ。

野尻集落を行く旧東海道。

大庄屋 打田権四郎昌克宅跡。江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めた。寛永19年(1642)に生まれた権四郎昌克は、打田家17代当主の時に亀山藩領86ヶ村を見聞し、地誌「九々五集」を著した。

野村一里塚と旧東海道。野村一里塚は江戸日本橋から105里目(約412km)、京三条大橋からは20番目(実測で約83km地点)となる一里塚。片塚だけになってしまったが、風格あるすばらしい佇まい。

野村一里塚。

多くの旅人がこの椋の大木の下で日や雨を避け、腰を下ろし休んだことだろう。

野村一里塚の隣接して木平製菓。旧街道らしい情景。

野村集落と一里塚。

焼肉長治郎。旧東海道沿いにあっては焼肉屋も古民家風。

野村集落にて。ごく普通の民家の縁側に雛飾りの展示。これまで見てきた華やかな雛飾りとは対照的に地味だが、こういった展示もちょとした目っけた感があって嬉しくなる。

神亀5年(728年)行基がここ野村に創建した薬師寺(長福寺)に始まりがあると伝わる慈恩寺。本尊の木造阿弥陀如来立像は作風から平安時代初期の作と考えられている国指定重要文化財。

野村を行く旧東海道。

光明寺鐘楼門。

森家住宅主屋。明治後期の建築で、かつては”おもや”の屋号を名のった。野村集落に残る旧東海道の町並みを伝える貴重な建物。平成23年に国の有形文化財に指定。現在は骨董カフェとして利用され、旧東海道歩きの際にはひと休みがてらくず湯や栗ぜんざい、伊勢うどんでも食べたいところ。朝早くだったため開店前…残念。

野村集落東側の町並み。この先で亀山城下京方出入口にあたる京口坂の上りに。

京口坂の上り口にある照光寺。かつての東海道はこの門前を通り、竜川を渡ってつづら折れに京口坂を上っていた。その雪景色を歌川広重は浮世絵「東海道五十三次之内 亀山」に描いており、亀山城下の象徴とも言える場所だった。現在の状況は…、次の記事に譲ろう。
【2014年3月9日(日)旧東海道 関宿→亀山宿】
宿泊先のホテルルートイン第2亀山インターで朝食をとり朝8時に出立、旧東海道の大岡寺畷(たいこうじなわて)から歩みを戻す。天気は雲が所々にかかるものの前日に引き続き晴れ。寒くも暑くも無い絶好のウォーキング日和だ。大岡寺畷とは関宿と亀山宿の間、鈴鹿川左岸の土手上を通る東海道を指し、その距離18町(約2km)にも及ぶ東海道随一の長さを誇る直線道。往時は見事な松並木だったらしく、太田南畝(蜀山人)は改元紀行に「松の並木両行に立てり 此間十八町にて大岡寺縄手といふ」と記している。大岡寺という名は、かつて付近にあった”六門山四王院大岡寺”(廃寺)に由来すると伝わるが、調べてみてもその大岡寺がどこにあったのかがはっきりしない。現在は松並木に代わって桜並木となり、桜の名所として知られる。
大岡寺畷の旧東海道は東端で関西本線に分断される形で終わり、その先の観音坂を上れば落針・野尻集落の家並みが続く。野尻集落を抜けて家がとぎれとぎれになると、遠く左手に椋の大木が見えてくる。これが野村集落の西端に現存する野村一里塚である。大正3年(1914年)南側の塚は撤去されたが、どういった経緯なのか北側の塚は撤去を免れた。三重県下にあった旧東海道の一里塚12基のうち、現存するのは野村一里塚だけ。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る一里塚らしい一里塚だけに、貴重な旧東海道の街道遺構である。
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かつては18町(約2km)にも及ぶ松並木の直線道だった大岡寺畷。現在は松に代わって桜が植えられている。桜の枝にはつぼみが見られたが、少々時期が早かった。美しい満開の桜並木を想像することにしよう。

大岡寺畷の東端で旧東海道は関西本線に分断。

関西本線を越えて間もなく、Y字路に。左方向が観音坂の旧東海道。この分岐点にひっそりと常夜燈がある。

観音坂上り口にある常夜燈。安政6年(1859年)建立。元々は落針の日原にあった”やけ八幡”と呼ばれる八幡祠の常夜燈。明治41年(1908年)に”やけ八幡”は布気神社に合祀されており、その際に役目を終えた常夜燈がここへ移設されたのか。

旧東海道観音坂。

観音坂上には坂名の由来なのたろう、昼寝観音がある。

落針の観音堂(昼寝観音)。昼寝観音とは滑稽な異名である。昼寝をしていたがため、三十三観音霊場に入る機会を逸したという伝説が。親近感たっぷりの観音様。

落針集落を行く旧東海道。落針という地名は平家の落武者がこの地に住み着き、落逃村等と呼ばれたものが変化したと伝わる。明治8年(1875年)落針村と野尻村が合併し布気村が成立した。

落針の古民家ギャラリー。

神辺簡易郵便局。古民家郵便局の名がふさわしい感じ。

布気皇舘太神社前を行く旧東海道。神社斜向かいに元禄3年(1690年)開店の能古(のんこ)茶屋があった。茶屋の主人は道心坊能古という禅僧で、松尾芭蕉の親友だったという。芭蕉は旅の途次で能古茶屋に逗留し、「枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮」の句を作ったと伝わる。

神辺七郷の総社、布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社。神辺七郷とは中世におけるこの地域一帯の総称で、野尻村(現 亀山市布気町)、落針村(現 亀山市布気町)、大岡寺村(現 亀山市大岡寺町)、山下村(現 亀山市山下町)、木下村(現 亀山市木下町)、小野村(現 亀山市小野町)、鷲山村(現 亀山市関町鷲山)の七ヶ村を指す。

野尻集落で旧東海道は鍵の手に左へ。

野尻集落を行く旧東海道。

大庄屋 打田権四郎昌克宅跡。江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めた。寛永19年(1642)に生まれた権四郎昌克は、打田家17代当主の時に亀山藩領86ヶ村を見聞し、地誌「九々五集」を著した。

野村一里塚と旧東海道。野村一里塚は江戸日本橋から105里目(約412km)、京三条大橋からは20番目(実測で約83km地点)となる一里塚。片塚だけになってしまったが、風格あるすばらしい佇まい。

野村一里塚。

多くの旅人がこの椋の大木の下で日や雨を避け、腰を下ろし休んだことだろう。

野村一里塚の隣接して木平製菓。旧街道らしい情景。

野村集落と一里塚。

焼肉長治郎。旧東海道沿いにあっては焼肉屋も古民家風。

野村集落にて。ごく普通の民家の縁側に雛飾りの展示。これまで見てきた華やかな雛飾りとは対照的に地味だが、こういった展示もちょとした目っけた感があって嬉しくなる。

神亀5年(728年)行基がここ野村に創建した薬師寺(長福寺)に始まりがあると伝わる慈恩寺。本尊の木造阿弥陀如来立像は作風から平安時代初期の作と考えられている国指定重要文化財。

野村を行く旧東海道。

光明寺鐘楼門。

森家住宅主屋。明治後期の建築で、かつては”おもや”の屋号を名のった。野村集落に残る旧東海道の町並みを伝える貴重な建物。平成23年に国の有形文化財に指定。現在は骨董カフェとして利用され、旧東海道歩きの際にはひと休みがてらくず湯や栗ぜんざい、伊勢うどんでも食べたいところ。朝早くだったため開店前…残念。

野村集落東側の町並み。この先で亀山城下京方出入口にあたる京口坂の上りに。

京口坂の上り口にある照光寺。かつての東海道はこの門前を通り、竜川を渡ってつづら折れに京口坂を上っていた。その雪景色を歌川広重は浮世絵「東海道五十三次之内 亀山」に描いており、亀山城下の象徴とも言える場所だった。現在の状況は…、次の記事に譲ろう。

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