四日市宿
【旧東海道歩き 第9日目】近鉄四日市駅→四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡→JR桑名駅
【2014年5月4日(日)旧東海道 四日市宿】
前日は四日市宿まで歩いたところで終了。ゴールデンウィーク中のため四日市駅周辺に宿泊予約ができず、僅かに空室があったJR津駅前のホテルサンルート津に宿を取った。三重県の県庁所在地であり、日本で一番短い市名で知られる津市、この地にある津駅は当然ながら日本一短い駅名。JR紀勢本線と近鉄名古屋線が乗り入れ、三重県の中心部といえる駅前なのだが、人もまばらでそれほど栄えていない。繁華街は津駅から少々離れた津観音周辺の大門にあるようだが、近年は他の地方都市と同様、郊外のショッピングモール等に客足を取られ衰微しているらしい。そんな津市で一夜を過ごしてホテルサンルート津を出発、津駅から近鉄四日市駅へ移動し旧東海道の歩き旅を再開する。前日に引き続き天気は上々、絶好のウォーキング日和になりそうだ。
四日市は室町時代末期から毎月4の付く日に市が立ち、隣接する四日市湊は廻船の母港として発達、市場町と港町の両面を併せ持ち、その相乗効果で発展してきた。当時は四日市場村と称したが、慶長6年(1601年)徳川家康により東海道に宿駅伝馬制度が敷かれると、宿駅に定められ宿場町としての性格を強めてゆく。京方外れの日永追分で東海道から伊勢街道が分岐、江戸期に流行した伊勢参りの旅人が多く往来し、宿場は大変な賑わいをみせた。明暦年間(1655年~1658年)に約700軒だった家数は、天和3年(1683年)872軒、元禄12年(1699年)1178軒、享保9年(1724年)1272軒、享和元年(1801年)1580軒、弘化4年(1847年)1839軒と江戸期を通して町は発展を続け、東海道を代表する大宿となる。天保14年(1843年)当時の人口7114人、家数1811軒、本陣2、脇本陣1、旅籠98軒。東海道に面する北町・南町と、浜往還沿いの竪町(立町)・中町・浜町が町の中心をなし、一番本陣は北町の清水太兵衛家が江戸期を通して務め、二番本陣は変遷あって江戸後期には南町の黒川彦兵衛家が務めた。四日市は江戸期のほとんどを幕府直轄領とされ、堅町に四日市陣屋(現 中部西小学校)が設けられていたのも特徴の一つ。名物・名産は日永うちわ、なが餅等。
より大きな地図で 四日市宿 を表示

津駅から近鉄名古屋線の電車に乗車し四日市駅へ移動。

近代的な駅舎ビルの近鉄四日市駅。

表参道スワ栄の入口から旧東海道歩きを再開。

人通りもまばらに静かな朝を迎える表参道スワ栄。アーケード商店街と化した旧東海道は、諏訪神社の表参道でもある。

表参道スワマエ。表参道スワ栄・スワマエの旧東海道筋は旧新田町にあたる。元は浜田村の一部で、江戸時代初期には松並木の縄手だったが、四日市宿の発展に伴って町場化し、宝永年間(1704年~1711年)頃には町として成立していたという。

建仁2年(1202年)信州諏訪大社の御分霊を勧請して創建したと伝わる諏訪神社。四日市開拓以来の産土神。

諏訪栄町、国道1号付近の旧東海道。この先、直線に旧東海道は延びて四日市宿の南町に入っていたが、国道1号に分断されたうえ、一部宅地化して消失。

諏訪栄町の国道1号から旧東海道が京方面に分岐する地点。その分岐点中央にある八宝ビル1階の”八ちゃん”で朝食をとることに。

何だか懐かしい感じがする”八ちゃん”店内。ご主人に話を伺ったところ43年間この店をやってるとか。高校生の頃、しばしば帰宅途中に寄り道し、焼きそばを食べていた店を思い出す。

モーニングをいただきました。なんと270円!

四日市市中部(旧南町)の旧東海道消失地点。写真右奥(京方)から左手前にかけて旧東海道が通っていた。

中部側(江戸方)から旧東海道消失地点を望む。旧東海道は写真中央部を進み八宝ビル横に通じていた。この辺りが旧南町の京方入口にあたる。

旧南町京方入口付近、旧東海道消失地点に残る文化7年(1810年)建立の道標。「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と刻む。元は東海道と浜街道が交差する札の辻にあったらしい。

旧南町の町並み。この辺りは室町時代に四日市庭浦(州浜・四日市湊)へ通じる浜往還と、東海道が交差する四つ辻の南側に発達した市場町で南市場と称す。江戸時代になって四日市宿が成立し、寛文3年(1663年)南町と改称、江戸後期には二番本陣の黒川彦兵衛家をはじめ、定飛脚の黒川彦左衛門家、問屋場や脇本陣があった。南町と北町に旅籠が集中していたことから、両町は旅籠屋町とも通称された。

旧南町の東海道筋西側、二番本陣の黒川本陣跡(黒川農薬商会)。文化8年(1811年)二番本陣の太田家が没落し、代わって脇本陣だった黒川彦兵衛家が二番本陣へ格上げされた。ここから西方向近くの薬師寺に本陣門が移築されている。

四日市宿札の辻から旧南町方面を望む。直進方向が旧東海道、左右に交差する道が浜往還旧道。室町期にこの四つ辻を中心に南市場・北市場・竪市場が開設され市場町として発展、後に四日市宿が大宿となって繁栄する起源ともいうべき場所だ。宿場の中心をなす南町と北町の境にあたり、北西角に清水本陣(右手前角)、南西角に帯屋脇本陣(右奥角)、北東角(左手前角)に高札場があって、北東一帯(現 中部西小学校)には四日市陣屋が設けられていた。

札の辻から北町方面を望む。写真左奥角の一帯が清水本陣跡で、出入口の本陣門は浜往還に面して建てられていた。

清水本陣跡の北側、東海道筋にある福生医院。様々な東海道関連のホームページ等に福生医院が問屋場跡の記述があるが、その根拠となる資料が見当たらない。角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。」との記述があり、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれている。脇本陣の位置については両資料で合致しているが、問屋場の位置が合致しない。宿場の拡大に伴い問屋場の場所も移り変わったのだろうか。

福生医院と同じく、様々な東海道関連のホームページ等に脇本陣の帯屋跡と記述されている近藤建材店(写真右手前)。こちらもその根拠となる資料が見当たらず、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。」の記述を信用したい。そもそも、四日市宿の本陣・脇本陣・問屋場をはじめとする旧跡に解説板等が設置されていないことが問題、旧宿場を感じさせる建物も残っておらず、せめて訪れた人のためにもう少し配慮があってもいいように思う。

北町の北端付近、三滝橋南詰にある笹井屋。天文19年(1550年)創業。元は日永の鹿化川南側にあり、その地名に因んで名付けられた”なが餅”を製造販売する。
なが餅 笹井屋
http://www.nagamochi.co.jp/menu.htm

昔からの四日市名物”なが餅”。小豆餡を包んだ餅を平たく長くのばしているのが特徴。表面が軽く焼かれており、噛みごたえと口に含んだ後の柔らかなモチモチ感が絶妙、小豆餡の甘さも適度でいくらでも食べられる感じ。文句なしに星三つ。

四日市宿北町の北端に架かる三滝橋。昔は”すへつち橋”

諏訪神社境内の解説板より。広重の浮世絵、保永堂版の東海道五十三次・四日市は「三重川」の副題を付け、強風が吹きつける中、三重川(三滝川)の木橋を渡る旅人の様子を描く。浮世絵に描かれる橋は簡素な木橋、当時の東海道は人馬の往来が激しく、しっかりとした木橋が架かっていたはず。構図の場所は東海道ではないとの説が有力のようだ。

三滝橋から三瀧川左岸の川原町を望む。角川日本地名大辞典(旧地名編)の「川原町(近世~近代)」から要約すると、川原町は江戸時代に末永村の一部で戸数9軒っだことから九軒町と称し、四日市町の発展に伴って町場化、四日市町の1町として扱われたとあり、寛文年間(1661年~1672年)の絵図にその町名が見えるという。ただし、元禄16年(1703年)の東海道分間絵図の川原町辺りを見ると、”七つや”という地名が記されている。

三滝橋北詰にある三瀧屋。元禄年間(1688年~1703年)の創業、”文藏餅”で有名なようだが、店が開いておらずその味を知ることはできなかった。

三瀧屋から旧東海道を少々北へ行ったところに嶋小餅店。こちらは文政年間(1818年~1830年)創業という。

嶋小のだんご。柔らかな醤油の香ばしい焼団子。

モンパー洋菓子店と宝来軒本店。洋菓子店と和菓子店が同居する珍しい形態。ここで”大入道せんべい”が目に留まり、思わず購入。

これが”大入道せんべい”。大入道は古来より日本各地に伝わる妖怪、江戸時代には草双紙等に描かれ庶民に親しまれた。かつて諏訪神社の例祭、四日市祭では各町30基もの山車や屋台が曳き出され、その1基に桶之町(現 中納屋町)の大入道山車があった。この山車は文化2年(1805年)名古屋のからくり人形師による制作と伝わり、首を伸ばしたり、舌を出して目を剥く等の仕掛けが施され、祭りに訪れた人々を楽しませたという。戦災によって山車・屋台のほとんどが焼失する中、大入道山車は焼失を免れ、現在は県指定有形民俗文化財として保存。毎年8月第1日曜日に行われる”大四日市まつり”の郷土文化財行列で見ることができる。

四日市市川原町から京町へ。

四日市市京町にある法泉寺。明治元年(1868年)鳥羽伏見の戦いで幕府方の桑名藩は敗れて恭順を決め、先代桑名藩主松平定猷(さだみち)の嫡子万之助(後の松平定教)は家老を引き連れて四日市の新政府軍陣営に出頭、ここ法泉寺に幽閉された。当時の遺品が残り寺宝となっている。

海蔵川右岸、浜一色町を行く旧東海道。

浜一色町の北端で海蔵川に突き当たる。旧東海道筋に橋が無いので、少し上流部の海蔵橋へ迂回。

国道1号が通る海蔵橋。
【2014年5月4日(日)旧東海道 四日市宿】
前日は四日市宿まで歩いたところで終了。ゴールデンウィーク中のため四日市駅周辺に宿泊予約ができず、僅かに空室があったJR津駅前のホテルサンルート津に宿を取った。三重県の県庁所在地であり、日本で一番短い市名で知られる津市、この地にある津駅は当然ながら日本一短い駅名。JR紀勢本線と近鉄名古屋線が乗り入れ、三重県の中心部といえる駅前なのだが、人もまばらでそれほど栄えていない。繁華街は津駅から少々離れた津観音周辺の大門にあるようだが、近年は他の地方都市と同様、郊外のショッピングモール等に客足を取られ衰微しているらしい。そんな津市で一夜を過ごしてホテルサンルート津を出発、津駅から近鉄四日市駅へ移動し旧東海道の歩き旅を再開する。前日に引き続き天気は上々、絶好のウォーキング日和になりそうだ。
四日市は室町時代末期から毎月4の付く日に市が立ち、隣接する四日市湊は廻船の母港として発達、市場町と港町の両面を併せ持ち、その相乗効果で発展してきた。当時は四日市場村と称したが、慶長6年(1601年)徳川家康により東海道に宿駅伝馬制度が敷かれると、宿駅に定められ宿場町としての性格を強めてゆく。京方外れの日永追分で東海道から伊勢街道が分岐、江戸期に流行した伊勢参りの旅人が多く往来し、宿場は大変な賑わいをみせた。明暦年間(1655年~1658年)に約700軒だった家数は、天和3年(1683年)872軒、元禄12年(1699年)1178軒、享保9年(1724年)1272軒、享和元年(1801年)1580軒、弘化4年(1847年)1839軒と江戸期を通して町は発展を続け、東海道を代表する大宿となる。天保14年(1843年)当時の人口7114人、家数1811軒、本陣2、脇本陣1、旅籠98軒。東海道に面する北町・南町と、浜往還沿いの竪町(立町)・中町・浜町が町の中心をなし、一番本陣は北町の清水太兵衛家が江戸期を通して務め、二番本陣は変遷あって江戸後期には南町の黒川彦兵衛家が務めた。四日市は江戸期のほとんどを幕府直轄領とされ、堅町に四日市陣屋(現 中部西小学校)が設けられていたのも特徴の一つ。名物・名産は日永うちわ、なが餅等。
より大きな地図で 四日市宿 を表示

津駅から近鉄名古屋線の電車に乗車し四日市駅へ移動。

近代的な駅舎ビルの近鉄四日市駅。

表参道スワ栄の入口から旧東海道歩きを再開。

人通りもまばらに静かな朝を迎える表参道スワ栄。アーケード商店街と化した旧東海道は、諏訪神社の表参道でもある。

表参道スワマエ。表参道スワ栄・スワマエの旧東海道筋は旧新田町にあたる。元は浜田村の一部で、江戸時代初期には松並木の縄手だったが、四日市宿の発展に伴って町場化し、宝永年間(1704年~1711年)頃には町として成立していたという。

建仁2年(1202年)信州諏訪大社の御分霊を勧請して創建したと伝わる諏訪神社。四日市開拓以来の産土神。

諏訪栄町、国道1号付近の旧東海道。この先、直線に旧東海道は延びて四日市宿の南町に入っていたが、国道1号に分断されたうえ、一部宅地化して消失。

諏訪栄町の国道1号から旧東海道が京方面に分岐する地点。その分岐点中央にある八宝ビル1階の”八ちゃん”で朝食をとることに。

何だか懐かしい感じがする”八ちゃん”店内。ご主人に話を伺ったところ43年間この店をやってるとか。高校生の頃、しばしば帰宅途中に寄り道し、焼きそばを食べていた店を思い出す。

モーニングをいただきました。なんと270円!

四日市市中部(旧南町)の旧東海道消失地点。写真右奥(京方)から左手前にかけて旧東海道が通っていた。

中部側(江戸方)から旧東海道消失地点を望む。旧東海道は写真中央部を進み八宝ビル横に通じていた。この辺りが旧南町の京方入口にあたる。

旧南町京方入口付近、旧東海道消失地点に残る文化7年(1810年)建立の道標。「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と刻む。元は東海道と浜街道が交差する札の辻にあったらしい。

旧南町の町並み。この辺りは室町時代に四日市庭浦(州浜・四日市湊)へ通じる浜往還と、東海道が交差する四つ辻の南側に発達した市場町で南市場と称す。江戸時代になって四日市宿が成立し、寛文3年(1663年)南町と改称、江戸後期には二番本陣の黒川彦兵衛家をはじめ、定飛脚の黒川彦左衛門家、問屋場や脇本陣があった。南町と北町に旅籠が集中していたことから、両町は旅籠屋町とも通称された。

旧南町の東海道筋西側、二番本陣の黒川本陣跡(黒川農薬商会)。文化8年(1811年)二番本陣の太田家が没落し、代わって脇本陣だった黒川彦兵衛家が二番本陣へ格上げされた。ここから西方向近くの薬師寺に本陣門が移築されている。

四日市宿札の辻から旧南町方面を望む。直進方向が旧東海道、左右に交差する道が浜往還旧道。室町期にこの四つ辻を中心に南市場・北市場・竪市場が開設され市場町として発展、後に四日市宿が大宿となって繁栄する起源ともいうべき場所だ。宿場の中心をなす南町と北町の境にあたり、北西角に清水本陣(右手前角)、南西角に帯屋脇本陣(右奥角)、北東角(左手前角)に高札場があって、北東一帯(現 中部西小学校)には四日市陣屋が設けられていた。

札の辻から北町方面を望む。写真左奥角の一帯が清水本陣跡で、出入口の本陣門は浜往還に面して建てられていた。

清水本陣跡の北側、東海道筋にある福生医院。様々な東海道関連のホームページ等に福生医院が問屋場跡の記述があるが、その根拠となる資料が見当たらない。角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。」との記述があり、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれている。脇本陣の位置については両資料で合致しているが、問屋場の位置が合致しない。宿場の拡大に伴い問屋場の場所も移り変わったのだろうか。

福生医院と同じく、様々な東海道関連のホームページ等に脇本陣の帯屋跡と記述されている近藤建材店(写真右手前)。こちらもその根拠となる資料が見当たらず、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。」の記述を信用したい。そもそも、四日市宿の本陣・脇本陣・問屋場をはじめとする旧跡に解説板等が設置されていないことが問題、旧宿場を感じさせる建物も残っておらず、せめて訪れた人のためにもう少し配慮があってもいいように思う。

北町の北端付近、三滝橋南詰にある笹井屋。天文19年(1550年)創業。元は日永の鹿化川南側にあり、その地名に因んで名付けられた”なが餅”を製造販売する。
なが餅 笹井屋
http://www.nagamochi.co.jp/menu.htm

昔からの四日市名物”なが餅”。小豆餡を包んだ餅を平たく長くのばしているのが特徴。表面が軽く焼かれており、噛みごたえと口に含んだ後の柔らかなモチモチ感が絶妙、小豆餡の甘さも適度でいくらでも食べられる感じ。文句なしに星三つ。

四日市宿北町の北端に架かる三滝橋。昔は”すへつち橋”

諏訪神社境内の解説板より。広重の浮世絵、保永堂版の東海道五十三次・四日市は「三重川」の副題を付け、強風が吹きつける中、三重川(三滝川)の木橋を渡る旅人の様子を描く。浮世絵に描かれる橋は簡素な木橋、当時の東海道は人馬の往来が激しく、しっかりとした木橋が架かっていたはず。構図の場所は東海道ではないとの説が有力のようだ。

三滝橋から三瀧川左岸の川原町を望む。角川日本地名大辞典(旧地名編)の「川原町(近世~近代)」から要約すると、川原町は江戸時代に末永村の一部で戸数9軒っだことから九軒町と称し、四日市町の発展に伴って町場化、四日市町の1町として扱われたとあり、寛文年間(1661年~1672年)の絵図にその町名が見えるという。ただし、元禄16年(1703年)の東海道分間絵図の川原町辺りを見ると、”七つや”という地名が記されている。

三滝橋北詰にある三瀧屋。元禄年間(1688年~1703年)の創業、”文藏餅”で有名なようだが、店が開いておらずその味を知ることはできなかった。

三瀧屋から旧東海道を少々北へ行ったところに嶋小餅店。こちらは文政年間(1818年~1830年)創業という。

嶋小のだんご。柔らかな醤油の香ばしい焼団子。

モンパー洋菓子店と宝来軒本店。洋菓子店と和菓子店が同居する珍しい形態。ここで”大入道せんべい”が目に留まり、思わず購入。

これが”大入道せんべい”。大入道は古来より日本各地に伝わる妖怪、江戸時代には草双紙等に描かれ庶民に親しまれた。かつて諏訪神社の例祭、四日市祭では各町30基もの山車や屋台が曳き出され、その1基に桶之町(現 中納屋町)の大入道山車があった。この山車は文化2年(1805年)名古屋のからくり人形師による制作と伝わり、首を伸ばしたり、舌を出して目を剥く等の仕掛けが施され、祭りに訪れた人々を楽しませたという。戦災によって山車・屋台のほとんどが焼失する中、大入道山車は焼失を免れ、現在は県指定有形民俗文化財として保存。毎年8月第1日曜日に行われる”大四日市まつり”の郷土文化財行列で見ることができる。

四日市市川原町から京町へ。

四日市市京町にある法泉寺。明治元年(1868年)鳥羽伏見の戦いで幕府方の桑名藩は敗れて恭順を決め、先代桑名藩主松平定猷(さだみち)の嫡子万之助(後の松平定教)は家老を引き連れて四日市の新政府軍陣営に出頭、ここ法泉寺に幽閉された。当時の遺品が残り寺宝となっている。

海蔵川右岸、浜一色町を行く旧東海道。

浜一色町の北端で海蔵川に突き当たる。旧東海道筋に橋が無いので、少し上流部の海蔵橋へ迂回。

国道1号が通る海蔵橋。

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