宮(熱田)宿
【旧東海道歩き 第10日目】エクセルイン名古屋熱田→七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿→名鉄有松駅
【2014年6月8日(日)旧東海道 宮宿】
前日に桑名城址の散策を終えて桑名駅からJRに乗車、名古屋駅で名鉄本線に乗り換え神宮前駅へ。つまり七里の渡しは電車で迂回したということ。船が無ければ電車での移動となるのは必然、いつの日か七里の渡しに定期航路が復活することを願いつつ…泣く泣くの移動である。熱田駅から夜な夜な熱田神宮に参拝し、宿泊先のエクセルイン名古屋熱田に着く。一晩の宿をとった翌朝、宮宿側の七里の渡し渡船場跡を見学するため、宮宿を通り抜けて旧東海道を京方面へ向かう。桑名宿・宮宿ともにすばらしい渡船場があるにも関わらず、ここに定期航路が無いことは勿体ないと言うか、残念と言うべきか、渡し船があれば観光資源としては一級品であることを改めて実感。船に乗りながら宮重大根の切干を食べたり、土産に買ったりできれば尚更である。歴史的価値を鑑みて七里の渡しの定期航路の復活を切に願う。
七里の渡しの渡船場(宮の渡し)を抱え、熱田神宮の門前町として発展した宮(熱田)宿は、東海道にあって最大級の規模を誇った宿場町。熱田神宮の門前町だたことから宮宿の呼称が一般的であったが、幕府や尾張藩の公文書には熱田宿と表記される。天保14年(1843年)当時の人口10342人、家数2924軒、本陣は南部新五左衛門家(赤本陣)と森田八郎右衛門家(白本陣)の2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒。七里の渡しを挟んで隣の桑名宿と比較して旅籠の数が約2倍あるうえ、脇本陣格の旅籠が10余軒もあったというから、その繁栄ぶりが数字からも想像できよう。慶安4年(1651年)倒幕を図る由井正雪の乱(慶安の変)が発覚し、その影響で承応3年(1654年)以後は暮六つ(夕方6時前後)から明六つ(朝6時前後)までの夜間は渡船の出航が禁じられ旅客の宿泊が激増、宮宿の旅籠が他に抜きんでて多い理由である。
尾張藩は将軍をはじめ大名や公家等を迎え入れて接遇するため、渡船場付近に東浜御殿・西浜御殿を設け、西浜御殿に隣接させて熱田奉行所と舟奉行所を置いた。宿場東南側には加藤図書助の大きな屋敷地があり、天文16年(1547年)加藤順盛が当主のとき、織田家の人質となった6歳の松平竹千代(後の徳川家康)を預かりこの屋敷に幽居させた。かつては東西百八間五尺、南北五十六間ニ尺の屋敷地周囲に水堀と土塁を廻らせ、城郭を彷彿させる豪壮な屋敷で羽城とも称される。いつ頃まで加藤図書助屋敷が存在していたのかはっきりしないが、文化3年(1806)完成の「東海道分間延絵図」に見られることから、江戸期を通して存在していたのだろう。現在は宅地化されて遺構は残っておらず、僅かに羽城町・図書町の地名にその存在を留めていたが、昭和56年(1981年)両町は伝馬2丁目に統一されて消滅した。
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尾張名所図会 七里渡船着(現地解説板より)
絵中央部の様々な船を係留する港に熱田常夜燈が見える。ここが七里の渡しの渡船場(宮の渡し)。右端に東浜御殿、中央左のなまこ壁を持つ長屋門らしき建物の左側一帯が西浜御殿。その門前の東海道上に熱田浜の鳥居が立つ。

エクセルイン名古屋熱田を出発。東海道宮宿散策にはもってこいの立地。

宿泊先のエクセルイン名古屋熱田から内田橋北袂へ移動。ここから宮の渡し公園を歩いて七里の渡しの宮宿渡船場跡へ向かおう。

内田橋より新堀川上流を望む。右岸がかつての東浜御殿跡。かつてこの地は神戸(ごうど)の浜と呼ばれた海岸で、寛永元年(1624年)尾張藩はこの浜を埋め立てて東浜御殿を造営、三代将軍徳川家光が上洛の折、宿泊に利用した。

東浜御殿跡の奥に宮の渡し場跡。

宮の渡し公園の一部と化した東浜御殿跡。埋立地の出島に造営された西浜御殿だが、現在は周辺部も埋め立てられ地形も変貌し、往時の面影は留めていない。

宮の渡し場跡。写真に見える鐘楼は、昭和20年(1945年)戦災で焼失した蔵福寺(名古屋市熱田区神宮2丁目)の”時の鐘”を偲び、昭和58年(1983年)に復元されたもの。

尾張名所図会にも見える熱田湊常夜燈。寛永2年(1625年)尾張藩家老、犬山城主の成瀬正房が父の遺命を受けて須賀浦太子堂(現 聖徳寺・名古屋市熱田区大瀬子町)の隣地に常夜燈を建立。承応3年(1654年)現在地へ移され、渡し船の目標物となっていた。寛政3年(1791年)火災により焼失して同年中に再建、七里の渡しの航路が廃されて後は存在意義を失い長らく荒廃していたようだ。名古屋市教育委員会設置の解説板によると、この常夜燈は昭和30年(1955年)の復元、名古屋市の解説板によれば戦災で焼失し昭和58年(1983年)に復元したとあり、どちらが本当なのか定かではない。

宮の渡し場跡の前にある丹羽家は伊勢久と称した脇本陣格の旧旅籠。正面の破風付玄関にらしさを残す。名古屋市有形文化財指定。

丹羽家住宅と同じく宮の渡し場跡の前には熱田荘。この建物は明治29年(1896年)に”魚半”の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用される。名古屋市有形文化財指定。

渡船場跡より宮宿内の旧東海道へ。かつては写真左手に道が広がりその奥に西浜御殿、右手は神戸の浜で東浜御殿が見えていたはず。熱田浜の鳥居が立っていたのは尾関新聞店(写真左手前)前の路上辺りか。

西浜御殿跡。承応3年(1654年)尾張藩二代藩主の徳川光友により造営された御殿で、正殿は安政年間(1854年~60年)常楽寺(半田市東郷町2丁目)に移築、他の建築物も明治初期に売却され、現在ここに往時の遺構は見れない。東西36間(約65m)、南北33間(59m)の敷地を有する豪壮なものだったという。

西山浄土宗、蓬寿山宝勝院。承応3年(1654年)から明治24年(1891年)まで熱田湊常夜燈を管理した。

南部新五左衛門家(赤本陣)跡。かつてはここに236坪の建坪、間口約16間(約29m)、奥行21間(約38m)の本陣屋敷が構えられていた。現在は戦災により遺構は全く残っておらず、解説板が立つのみ。

神戸町と伝馬1丁目の境、国道247号に分断される旧東海道。写真右斜めの小道が江戸方の旧東海道。

旧熱田伝馬町(現 名古屋市熱田区伝馬1丁目)の西北端、旧東海道から旧美濃路・佐屋街道が分岐。丁字路角に寛政2年(1790年)建立の道標が残り、その向かいには”ほうろく地蔵”が安置さていれる。

旧東海道と美濃路・佐屋街道の分岐点に残る道標。東は江戸街道、北が熱田神宮・美濃路・名古屋木曽道・佐屋津島道、南に行けば京伊勢七里の渡し方面であることを示す。

熱田伝馬町の追分に安置される”ほうろく地蔵”。この地蔵は三河国重原村(現 愛知県知立市)で野原に倒れていたところ、焙烙売りに拾われ荷物の片方の重石としてここまで運ばれてきた。焙烙を売り尽くしたことで重石が不要になり、地蔵は海辺に捨てられていたという。住民が不憫に思って拾い上げようとしたが動かず、その下を掘ってみると台石が埋もれており、皆が不思議に思って台石を掘り出し地蔵を置いてここに安置したという。上知麻我神社(源太夫社、現在は熱田神宮境内に遷座)旧地にあたる。

追分から美濃・佐屋路を進み熱田神宮へ参拝に。正門(南門)から境内に入ろう。

熱田神宮の大楠。弘法大師お手植えで樹齢千年以上と伝わる。

熱田神宮で最も見たかったのが、この信長塀。桶狭間合戦の当日、清州城を出陣した織田信長は熱田神宮に寄り戦勝祈願。多勢に無勢ながら奇襲戦により大将今川義元の首級を挙げたことは誰もが知る話。その御礼に奉納したのがこの信長塀で、三十三間堂の太閤塀・西宮神社の大練塀と共に日本三大土塀の一つに数えられるという。

信長塀の奥に西楽所と神楽殿。

写真左の西楽所は貞享3年(1686年)5代将軍徳川綱吉による再建。毎年5月1日に舞楽神事があり、ここで楽が奏される。相対してあった東楽所は昭和20年(1945年)戦災で焼失した。写真奥の神楽殿は平成21年(2009年)創祀千九百年の記念事業で造営、建物が真新しく、築300年以上の西楽所とは対照的な佇まい。

熱田神宮は景行天皇43年(113年)、 日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)にて薨去(こうきょ)され、宮簀媛命(みやすひめのみこと)が三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を熱田の地へ祀ったことに創祀。草薙神剣を御神体とする熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神に祀る。

多くの人が参拝に訪れる熱田神宮。

境内にある”宮きしめん”に寄る。神宮の森の中にある開放型店舗、清々しい空気を感じながら名古屋名物のきしめんを頂こうではないか。

赤つゆの”宮きしめん”。ほうれん草とネギに鰹節がたっぷりとのっかる。見た目と味が想像通りの美味しさ。

板石が25枚並んでいるいることから二十五丁橋と称し、名古屋最古の石橋とされる。尾張名所図会に紹介され、西行法師がここで休んだとの伝説も。

二十五丁橋の西側に南神池。ここで池を眺めつつ、しばしくつろぐ。心休まる贅沢なひと時。

熱田伝馬町の追分に戻って江戸方面へ。追分から江戸方に向かってすぐ、左手沿道に脇本陣の小出太兵衛家があったようだ。「熱田駅之図」(文政年間作成と推定)にその名が見られ、「東海道分間延絵図」にも同場所に脇本陣の記載がある。シティコーポ宮の東隣辺りか。

宮宿伝馬町を行く旧東海道。

愛知県道225号と旧東海道の交差点南東角辺り(写真左手前)が森田八郎右衛門家(白本陣)跡と思われる。「尾張国町村絵図」から実相院との位置関係でそう推定するのだが、もしかすると県道上なのかもしれない。解説板等が無く詳細が不明。

白本陣跡から旧東海道を江戸方に約100m程行けば右に姥堂を見る。延文3年(1358年)の創建、本尊姥像は熱田神宮にあったものここに移したと伝わるが、昭和20年(1945年)戦災により堂宇もろとも本尊も焼失。近代的に再建された堂宇には、平成5年(1993年)残っていた写真を元に復元された姥像を本尊に祀る。古くから地元では”おんばこさん”と呼び親しみ、安産や子育てにご利益がある家内安全の仏として信仰された。

姥堂に保存される旧裁断橋桁石。かつて姥堂の東側横には精進川が流れ、東海道の通行人は裁断橋で渡河した。この橋には我が子を戦で亡くした母親の思いが込められている。天正18年(1590年)小田原征伐の陣中で我が子堀尾金助を亡くした母親は、その菩提を弔うため裁断橋を架け替えした。33回忌に再び橋の架け替えを計画したが志半ばで亡くなり、養子が母親の意思を継いで元和8年(1622年)に完成させたという。橋の擬宝珠には母親の思いが込められた銘文があり、通行する多くの人々はその銘文を読んで胸を打った。現在は旧地の姥堂に桁石が残るのみで、擬宝珠は腐食が進んだため名古屋市博物館に保管されている。

裁断橋が架けられていた精進川は、明治43年(1910年)川筋を付け替えて新堀川となり、旧川筋は大正15年(1926年)に埋め立てられた。写真手前辺りが裁断橋跡で、左側手前から2軒めが姥堂。

姥堂から少し東側に進んだところに伝馬街園がある。現地解説板によれば、ここが江戸日本橋から89里目(約350km)、京三条大橋からは29番目(実測で約152km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる伝馬町一里塚のあった場所とされるが、これは間違い。歩いている時には認識していなかったが、伝馬街園のある地点は連続する鉤の手の枡形道跡で、南東側に熱田神宮の築出鳥居が立てられていた。その北東側(現 名古屋市熱田区神宮4丁目辺り)が正林寺(現 名古屋市天白区土原1丁目)の旧地、そこから東海道を江戸方へ少し行った所に一里塚があり、その跡地は国道1号の新熱田橋西詰辺りと推定される。一里塚跡は宮宿東端の旧築出町にあたり、築出町一里塚と言った方が正しい。

伝馬街園から熱田橋に向けて延びる旧東海道。ただしこの区間の旧道は明治期に新設されたと思われる旧東海道で、国道1号の新熱田橋ルートが江戸期の旧東海道にあたる。

国道1号の新熱田橋西詰に鎮座する神明社。この神社境内には明治21年(1888年)建立の「右知多郡新道」と刻む道標があり、これは現在の伝馬街園から熱田橋を通る明治期の新道を指し示しているのかもしれない。だとすると、新堀川開削の20年以上前に熱田橋ルートが確立していたことになる。

新堀川に架かる熱田橋。その上流部を渡る国道1号ルートが江戸期の旧東海道とは知らず、何の疑問も持たずに熱田橋で新堀川を渡河する。かつては築出町一里塚の東側、現在の新堀川辺りで宮宿の町並みは途切れ、八町畷と呼ばれる松並木道が東へ延びていた。

熱田橋より新堀川を望む。新堀川は舟運利用の便を図るため、精進川の曲がりくねった川筋を改修し付け替えられた河川。昔は多くの船が往来していたのだろうなあ。
【2014年6月8日(日)旧東海道 宮宿】
前日に桑名城址の散策を終えて桑名駅からJRに乗車、名古屋駅で名鉄本線に乗り換え神宮前駅へ。つまり七里の渡しは電車で迂回したということ。船が無ければ電車での移動となるのは必然、いつの日か七里の渡しに定期航路が復活することを願いつつ…泣く泣くの移動である。熱田駅から夜な夜な熱田神宮に参拝し、宿泊先のエクセルイン名古屋熱田に着く。一晩の宿をとった翌朝、宮宿側の七里の渡し渡船場跡を見学するため、宮宿を通り抜けて旧東海道を京方面へ向かう。桑名宿・宮宿ともにすばらしい渡船場があるにも関わらず、ここに定期航路が無いことは勿体ないと言うか、残念と言うべきか、渡し船があれば観光資源としては一級品であることを改めて実感。船に乗りながら宮重大根の切干を食べたり、土産に買ったりできれば尚更である。歴史的価値を鑑みて七里の渡しの定期航路の復活を切に願う。
七里の渡しの渡船場(宮の渡し)を抱え、熱田神宮の門前町として発展した宮(熱田)宿は、東海道にあって最大級の規模を誇った宿場町。熱田神宮の門前町だたことから宮宿の呼称が一般的であったが、幕府や尾張藩の公文書には熱田宿と表記される。天保14年(1843年)当時の人口10342人、家数2924軒、本陣は南部新五左衛門家(赤本陣)と森田八郎右衛門家(白本陣)の2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒。七里の渡しを挟んで隣の桑名宿と比較して旅籠の数が約2倍あるうえ、脇本陣格の旅籠が10余軒もあったというから、その繁栄ぶりが数字からも想像できよう。慶安4年(1651年)倒幕を図る由井正雪の乱(慶安の変)が発覚し、その影響で承応3年(1654年)以後は暮六つ(夕方6時前後)から明六つ(朝6時前後)までの夜間は渡船の出航が禁じられ旅客の宿泊が激増、宮宿の旅籠が他に抜きんでて多い理由である。
尾張藩は将軍をはじめ大名や公家等を迎え入れて接遇するため、渡船場付近に東浜御殿・西浜御殿を設け、西浜御殿に隣接させて熱田奉行所と舟奉行所を置いた。宿場東南側には加藤図書助の大きな屋敷地があり、天文16年(1547年)加藤順盛が当主のとき、織田家の人質となった6歳の松平竹千代(後の徳川家康)を預かりこの屋敷に幽居させた。かつては東西百八間五尺、南北五十六間ニ尺の屋敷地周囲に水堀と土塁を廻らせ、城郭を彷彿させる豪壮な屋敷で羽城とも称される。いつ頃まで加藤図書助屋敷が存在していたのかはっきりしないが、文化3年(1806)完成の「東海道分間延絵図」に見られることから、江戸期を通して存在していたのだろう。現在は宅地化されて遺構は残っておらず、僅かに羽城町・図書町の地名にその存在を留めていたが、昭和56年(1981年)両町は伝馬2丁目に統一されて消滅した。
より大きな地図で 宮(熱田)宿 を表示

尾張名所図会 七里渡船着(現地解説板より)
絵中央部の様々な船を係留する港に熱田常夜燈が見える。ここが七里の渡しの渡船場(宮の渡し)。右端に東浜御殿、中央左のなまこ壁を持つ長屋門らしき建物の左側一帯が西浜御殿。その門前の東海道上に熱田浜の鳥居が立つ。

エクセルイン名古屋熱田を出発。東海道宮宿散策にはもってこいの立地。

宿泊先のエクセルイン名古屋熱田から内田橋北袂へ移動。ここから宮の渡し公園を歩いて七里の渡しの宮宿渡船場跡へ向かおう。

内田橋より新堀川上流を望む。右岸がかつての東浜御殿跡。かつてこの地は神戸(ごうど)の浜と呼ばれた海岸で、寛永元年(1624年)尾張藩はこの浜を埋め立てて東浜御殿を造営、三代将軍徳川家光が上洛の折、宿泊に利用した。

東浜御殿跡の奥に宮の渡し場跡。

宮の渡し公園の一部と化した東浜御殿跡。埋立地の出島に造営された西浜御殿だが、現在は周辺部も埋め立てられ地形も変貌し、往時の面影は留めていない。

宮の渡し場跡。写真に見える鐘楼は、昭和20年(1945年)戦災で焼失した蔵福寺(名古屋市熱田区神宮2丁目)の”時の鐘”を偲び、昭和58年(1983年)に復元されたもの。

尾張名所図会にも見える熱田湊常夜燈。寛永2年(1625年)尾張藩家老、犬山城主の成瀬正房が父の遺命を受けて須賀浦太子堂(現 聖徳寺・名古屋市熱田区大瀬子町)の隣地に常夜燈を建立。承応3年(1654年)現在地へ移され、渡し船の目標物となっていた。寛政3年(1791年)火災により焼失して同年中に再建、七里の渡しの航路が廃されて後は存在意義を失い長らく荒廃していたようだ。名古屋市教育委員会設置の解説板によると、この常夜燈は昭和30年(1955年)の復元、名古屋市の解説板によれば戦災で焼失し昭和58年(1983年)に復元したとあり、どちらが本当なのか定かではない。

宮の渡し場跡の前にある丹羽家は伊勢久と称した脇本陣格の旧旅籠。正面の破風付玄関にらしさを残す。名古屋市有形文化財指定。

丹羽家住宅と同じく宮の渡し場跡の前には熱田荘。この建物は明治29年(1896年)に”魚半”の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用される。名古屋市有形文化財指定。

渡船場跡より宮宿内の旧東海道へ。かつては写真左手に道が広がりその奥に西浜御殿、右手は神戸の浜で東浜御殿が見えていたはず。熱田浜の鳥居が立っていたのは尾関新聞店(写真左手前)前の路上辺りか。

西浜御殿跡。承応3年(1654年)尾張藩二代藩主の徳川光友により造営された御殿で、正殿は安政年間(1854年~60年)常楽寺(半田市東郷町2丁目)に移築、他の建築物も明治初期に売却され、現在ここに往時の遺構は見れない。東西36間(約65m)、南北33間(59m)の敷地を有する豪壮なものだったという。

西山浄土宗、蓬寿山宝勝院。承応3年(1654年)から明治24年(1891年)まで熱田湊常夜燈を管理した。

南部新五左衛門家(赤本陣)跡。かつてはここに236坪の建坪、間口約16間(約29m)、奥行21間(約38m)の本陣屋敷が構えられていた。現在は戦災により遺構は全く残っておらず、解説板が立つのみ。

神戸町と伝馬1丁目の境、国道247号に分断される旧東海道。写真右斜めの小道が江戸方の旧東海道。

旧熱田伝馬町(現 名古屋市熱田区伝馬1丁目)の西北端、旧東海道から旧美濃路・佐屋街道が分岐。丁字路角に寛政2年(1790年)建立の道標が残り、その向かいには”ほうろく地蔵”が安置さていれる。

旧東海道と美濃路・佐屋街道の分岐点に残る道標。東は江戸街道、北が熱田神宮・美濃路・名古屋木曽道・佐屋津島道、南に行けば京伊勢七里の渡し方面であることを示す。

熱田伝馬町の追分に安置される”ほうろく地蔵”。この地蔵は三河国重原村(現 愛知県知立市)で野原に倒れていたところ、焙烙売りに拾われ荷物の片方の重石としてここまで運ばれてきた。焙烙を売り尽くしたことで重石が不要になり、地蔵は海辺に捨てられていたという。住民が不憫に思って拾い上げようとしたが動かず、その下を掘ってみると台石が埋もれており、皆が不思議に思って台石を掘り出し地蔵を置いてここに安置したという。上知麻我神社(源太夫社、現在は熱田神宮境内に遷座)旧地にあたる。

追分から美濃・佐屋路を進み熱田神宮へ参拝に。正門(南門)から境内に入ろう。

熱田神宮の大楠。弘法大師お手植えで樹齢千年以上と伝わる。

熱田神宮で最も見たかったのが、この信長塀。桶狭間合戦の当日、清州城を出陣した織田信長は熱田神宮に寄り戦勝祈願。多勢に無勢ながら奇襲戦により大将今川義元の首級を挙げたことは誰もが知る話。その御礼に奉納したのがこの信長塀で、三十三間堂の太閤塀・西宮神社の大練塀と共に日本三大土塀の一つに数えられるという。

信長塀の奥に西楽所と神楽殿。

写真左の西楽所は貞享3年(1686年)5代将軍徳川綱吉による再建。毎年5月1日に舞楽神事があり、ここで楽が奏される。相対してあった東楽所は昭和20年(1945年)戦災で焼失した。写真奥の神楽殿は平成21年(2009年)創祀千九百年の記念事業で造営、建物が真新しく、築300年以上の西楽所とは対照的な佇まい。

熱田神宮は景行天皇43年(113年)、 日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)にて薨去(こうきょ)され、宮簀媛命(みやすひめのみこと)が三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を熱田の地へ祀ったことに創祀。草薙神剣を御神体とする熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神に祀る。

多くの人が参拝に訪れる熱田神宮。

境内にある”宮きしめん”に寄る。神宮の森の中にある開放型店舗、清々しい空気を感じながら名古屋名物のきしめんを頂こうではないか。

赤つゆの”宮きしめん”。ほうれん草とネギに鰹節がたっぷりとのっかる。見た目と味が想像通りの美味しさ。

板石が25枚並んでいるいることから二十五丁橋と称し、名古屋最古の石橋とされる。尾張名所図会に紹介され、西行法師がここで休んだとの伝説も。

二十五丁橋の西側に南神池。ここで池を眺めつつ、しばしくつろぐ。心休まる贅沢なひと時。

熱田伝馬町の追分に戻って江戸方面へ。追分から江戸方に向かってすぐ、左手沿道に脇本陣の小出太兵衛家があったようだ。「熱田駅之図」(文政年間作成と推定)にその名が見られ、「東海道分間延絵図」にも同場所に脇本陣の記載がある。シティコーポ宮の東隣辺りか。

宮宿伝馬町を行く旧東海道。

愛知県道225号と旧東海道の交差点南東角辺り(写真左手前)が森田八郎右衛門家(白本陣)跡と思われる。「尾張国町村絵図」から実相院との位置関係でそう推定するのだが、もしかすると県道上なのかもしれない。解説板等が無く詳細が不明。

白本陣跡から旧東海道を江戸方に約100m程行けば右に姥堂を見る。延文3年(1358年)の創建、本尊姥像は熱田神宮にあったものここに移したと伝わるが、昭和20年(1945年)戦災により堂宇もろとも本尊も焼失。近代的に再建された堂宇には、平成5年(1993年)残っていた写真を元に復元された姥像を本尊に祀る。古くから地元では”おんばこさん”と呼び親しみ、安産や子育てにご利益がある家内安全の仏として信仰された。

姥堂に保存される旧裁断橋桁石。かつて姥堂の東側横には精進川が流れ、東海道の通行人は裁断橋で渡河した。この橋には我が子を戦で亡くした母親の思いが込められている。天正18年(1590年)小田原征伐の陣中で我が子堀尾金助を亡くした母親は、その菩提を弔うため裁断橋を架け替えした。33回忌に再び橋の架け替えを計画したが志半ばで亡くなり、養子が母親の意思を継いで元和8年(1622年)に完成させたという。橋の擬宝珠には母親の思いが込められた銘文があり、通行する多くの人々はその銘文を読んで胸を打った。現在は旧地の姥堂に桁石が残るのみで、擬宝珠は腐食が進んだため名古屋市博物館に保管されている。

裁断橋が架けられていた精進川は、明治43年(1910年)川筋を付け替えて新堀川となり、旧川筋は大正15年(1926年)に埋め立てられた。写真手前辺りが裁断橋跡で、左側手前から2軒めが姥堂。

姥堂から少し東側に進んだところに伝馬街園がある。現地解説板によれば、ここが江戸日本橋から89里目(約350km)、京三条大橋からは29番目(実測で約152km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる伝馬町一里塚のあった場所とされるが、これは間違い。歩いている時には認識していなかったが、伝馬街園のある地点は連続する鉤の手の枡形道跡で、南東側に熱田神宮の築出鳥居が立てられていた。その北東側(現 名古屋市熱田区神宮4丁目辺り)が正林寺(現 名古屋市天白区土原1丁目)の旧地、そこから東海道を江戸方へ少し行った所に一里塚があり、その跡地は国道1号の新熱田橋西詰辺りと推定される。一里塚跡は宮宿東端の旧築出町にあたり、築出町一里塚と言った方が正しい。

伝馬街園から熱田橋に向けて延びる旧東海道。ただしこの区間の旧道は明治期に新設されたと思われる旧東海道で、国道1号の新熱田橋ルートが江戸期の旧東海道にあたる。

国道1号の新熱田橋西詰に鎮座する神明社。この神社境内には明治21年(1888年)建立の「右知多郡新道」と刻む道標があり、これは現在の伝馬街園から熱田橋を通る明治期の新道を指し示しているのかもしれない。だとすると、新堀川開削の20年以上前に熱田橋ルートが確立していたことになる。

新堀川に架かる熱田橋。その上流部を渡る国道1号ルートが江戸期の旧東海道とは知らず、何の疑問も持たずに熱田橋で新堀川を渡河する。かつては築出町一里塚の東側、現在の新堀川辺りで宮宿の町並みは途切れ、八町畷と呼ばれる松並木道が東へ延びていた。

熱田橋より新堀川を望む。新堀川は舟運利用の便を図るため、精進川の曲がりくねった川筋を改修し付け替えられた河川。昔は多くの船が往来していたのだろうなあ。

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