尾張と三河の国境に
【旧東海道歩き 第11日目】名鉄有松駅→桶狭間古戦場→池鯉鮒宿→名鉄知立駅
【2014年11月2日(日)旧東海道 鳴海宿→池鯉鮒宿 道中】
旧東海道を有松から次の池鯉鮒宿へ向けて歩こう。と言っても、今回は2日間の旅程を組んだが、11月1日(土)と翌日の午前中は桶狭間古戦場を散策する時間にあて、その桶狭間めぐりを終えた後の午後だけ旧東海道を歩いた。季節はすっかり日が短くなった11月だったこともあり、池鯉鮒宿(現 愛知県知立市)に辿り着いたころにはすっかり日が暮れ、桶狭間古戦場ついでに歩いたといった感じに。つぶさに歩いて回った桶狭間古戦場については次の記事に譲るとして、先に有松から池鯉鮒宿間の旧東海道歩きを記事に書くことにする。
かつて有松から東海道を東へ向かへば、有松の東外れに桶狭間古戦場を見て、落合村・前後村(阿野坂村・坂部村)・阿野村を過ぎたところで尾張と三河の国境をなした境川を渡り、立場の置かれる今川村(芋川村)・今岡村・一里山村を経て池鯉鮒宿に着く。江戸期に東海道の境川に架けられていた境橋は、尾張側が板橋、三河側が土橋の継ぎ橋だったといい、度々の洪水で流される度に修復されたという。そのうちに一続きの土橋になり、明治になって欄干付きの橋が架けられた。

前の記事に書いた有松から歩き旅を再開。

有松絞りで繁栄した有松を今に伝える旧絞問屋の竹田家住宅。

旧絞問屋の岡家住宅。

旧絞問屋の小塚家住宅。

有松・鳴海絞会館。有松絞りの展示販売はもちろんのこと、実演を見たり絞り染めの体験ができ、有松を訪れた際には足を延ばしたい施設。記念に有松絞りのハンカチを2枚購入、日本の伝統工芸はすばらしい。

有松・鳴海絞会館前の服部家住宅。

有松の東端付近、山中歯科医院の立派な塀と土蔵。

有松の江戸方入口に流れる手越川。旧東海道には松野根橋が架かる。

有松の東外れにある絞里堂。有松絞りを商っているようだ。

大将ケ根交差点から国道1号に合流して東へ。

国道1号を200m程行くと右手に旧東海道が出現。

名古屋市から豊明市へ。

旧東海道は再び国道1号に合流、「桶狭間古戦場」の道路標識が見える。

中京競馬場前駅。ここはJRA中京競馬場の最寄駅。

中京競馬場前駅のプラットホーム下にある「よろいかけの松の旧地」碑。「桶狭間合戦縁起」(安政年間に古戦場で売られていた案内図)には「信長公鎧掛松名木也」とある一方、今川義元が鎧を掛けたと書く明治期の絵葉書もある。いずれにしても桶狭間合戦時には存在していた松の名木がここにあったが、大正12年に枯死。残骸が昭和30年頃まで残っていたようだ。現在はひっそりとこの碑があるだけで往時を偲びようもないが、その松を描いたとされる襖絵が大阪府堺市の大安寺に現存。寺伝によれば狩野永徳の筆、永徳が鎧掛けの松を描き終えた後、東国への旅中に再びこの松を見て枝を描き忘れていることに気づき、引き返して枝を描き足したとされ、”枝添えの松”とも称される。

豊明市栄町歩道橋より国道1号有松方面(京方)を望む。左手一帯が豐明市の桶狭間古戦場跡。1日半かけてじっくりと踏査してきたので次の記事に。

豊明市栄町歩道橋から国道1号知立方面(江戸方)を望む。名鉄名古屋本線の高架橋が国道1号上に架かる。中京競馬場駅前から旧落合村(現 豊明市新栄町)にかけての旧東海道は、国道1号が通されたことで一部消失。

現在の新栄町1丁目の旧東海道沿いに旧落合村の町家が並んでいた。

旧東海道から少し北に外れて国道1号沿いに鎮座する前後神明社。

前後神明社の東側台地上に桶狭間合戦の戦死者を埋葬供養したと伝わる戦人塚がある。塚上にある”戦人塚”と刻む碑は、元文4年(1739年)百八十回忌の供養祭で建立されたものと云う。

旧落合村と旧阿野坂村の中間、前後町五軒屋を行く旧東海道。

豊明市前後町大代の旧東海道は緩やかな上り坂に。江戸時代に阿野坂村の町家が並んでいた辺りだろう。

前後駅前交差点。阿野坂村と坂部村に属する旧東海道沿いの町家は、明治元年に成立した前後村に含まれた。

前後駅前交差点から豊明郵便局辺りにかけての旧東海道沿いが旧坂部村の町家と思われる。

旧坂部村の東外れにある阿野一里塚。江戸日本橋から86里目(約338km)、京三条大橋からは32番目(実測で約165km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚、風雨に長年晒されて往時の規模は保っていないが、両塚が現存する。

愛知県道57号線の下を通る旧東海道。この辺りは旧坂部村と旧阿野村の間にあたり、かつては松並木の街道。この先で国道1号に合流する。

国道1号沿いにある”ヒロセ合金”。桑名宿にあった広瀬鋳物工場を前身とする企業。
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桑名宿

正戸川を渡って。

豊明駅の北側一帯が旧阿野村の中心部。正戸川と境川に挟まれた地で、現在の豊明市阿野町の行政区域が旧阿野村の村域と思われる。阿野坂村や坂部村も阿野村の一部にあたり、通行量が増大した東海道沿いに町家を発展させたようだ。同じ知多郡内に同名の村があり、区別するために東を付けて東阿野村と称した。

かつての尾張国と三河国の国境、境川に架かる境橋。江戸時代には中洲を境に尾張側が板橋、三河側が土橋の継ぎ橋が架けられていた。

うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん
詠み手は江戸時代前期の公卿で歌人だった烏丸光広。古くから接着剤に使われた膠(にかわ)に”三河”をかけているようで、同盟関係にあった織田領尾張と徳川領三河の境を繋いでいたのがここなのだと、感慨に浸りながら境橋を渡ったのだろう。

境橋を渡れば豊明市から刈谷市へ。旧東海道沿道には若松が並ぶ。

旧東海道は今川町交差点で国道1号と交差し、旧今川村へ。

刈谷市今川町を行く旧東海道。

今川町は元は泉田村(現 刈谷市泉田町)の出郷で芋川村(一説には現在の今岡町)とも称したようだ。江戸時代中期から幕末にかけて東海道の茶屋町として発展、東隣の今岡村と共に東海道の立場が置かれた。江戸時代には”芋川うどん”が名物で、現代の名古屋名物”きしめん”の起源とも云われる。明治11年(1878年)今岡村と共に逢見村の一部に。

今岡町の旧東海道筋にある洞隣寺。天正8年(1580年)の開山、開基は刈谷城主水野忠重と伝わる。写真左に見える常夜灯は寛政8年(1796年)の建立。この寺の北側に芋川うどん発祥地の碑があるらしいが未確認。

国道1号に合流して一里山町新屋敷交差点を行く。

国道1号に架かる一里山歩道橋辺りが一里山一里塚跡。国道が通ってしまったことで一里塚は失われ、街道の面影も残っていない。江戸日本橋から85里目(約334km)、京三条大橋からは33番目(実測で約169km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。

逢妻川に架かる逢妻橋を渡って池鯉鮒宿へ。

逢妻川から池鯉鮒宿内に入る旧東海道。

暗闇の旧東海道筋に店内の灯りが眩しい恵比寿屋陶器店。

知立古城址。築城年代は不明、知立神社の神主だった永見氏が築いた居館に始まりがあるとされる。桶狭間合戦時には今川方の城だったが、今川義元を討ち取って勢いづいた織田勢の攻撃により落城。天正年間(1573年~93年)その城跡に刈谷城主水野忠重が御殿を建造し、後に徳川将軍上洛時の宿泊施設に利用されたが、元禄12年(1699年)大地震があり倒壊した。

知立古城址に物憂げな様子で黒猫が佇む。

池鯉鮒宿内の都築屋菓子舗まで歩いたところで本日の旧東海道歩きは終わり。

知立駅から帰途につく。
【旧東海道歩き 第11日目】名鉄有松駅→桶狭間古戦場→池鯉鮒宿→名鉄知立駅 歩行距離約21km
【2014年11月2日(日)旧東海道 鳴海宿→池鯉鮒宿 道中】
旧東海道を有松から次の池鯉鮒宿へ向けて歩こう。と言っても、今回は2日間の旅程を組んだが、11月1日(土)と翌日の午前中は桶狭間古戦場を散策する時間にあて、その桶狭間めぐりを終えた後の午後だけ旧東海道を歩いた。季節はすっかり日が短くなった11月だったこともあり、池鯉鮒宿(現 愛知県知立市)に辿り着いたころにはすっかり日が暮れ、桶狭間古戦場ついでに歩いたといった感じに。つぶさに歩いて回った桶狭間古戦場については次の記事に譲るとして、先に有松から池鯉鮒宿間の旧東海道歩きを記事に書くことにする。
かつて有松から東海道を東へ向かへば、有松の東外れに桶狭間古戦場を見て、落合村・前後村(阿野坂村・坂部村)・阿野村を過ぎたところで尾張と三河の国境をなした境川を渡り、立場の置かれる今川村(芋川村)・今岡村・一里山村を経て池鯉鮒宿に着く。江戸期に東海道の境川に架けられていた境橋は、尾張側が板橋、三河側が土橋の継ぎ橋だったといい、度々の洪水で流される度に修復されたという。そのうちに一続きの土橋になり、明治になって欄干付きの橋が架けられた。

前の記事に書いた有松から歩き旅を再開。

有松絞りで繁栄した有松を今に伝える旧絞問屋の竹田家住宅。

旧絞問屋の岡家住宅。

旧絞問屋の小塚家住宅。

有松・鳴海絞会館。有松絞りの展示販売はもちろんのこと、実演を見たり絞り染めの体験ができ、有松を訪れた際には足を延ばしたい施設。記念に有松絞りのハンカチを2枚購入、日本の伝統工芸はすばらしい。

有松・鳴海絞会館前の服部家住宅。

有松の東端付近、山中歯科医院の立派な塀と土蔵。

有松の江戸方入口に流れる手越川。旧東海道には松野根橋が架かる。

有松の東外れにある絞里堂。有松絞りを商っているようだ。

大将ケ根交差点から国道1号に合流して東へ。

国道1号を200m程行くと右手に旧東海道が出現。

名古屋市から豊明市へ。

旧東海道は再び国道1号に合流、「桶狭間古戦場」の道路標識が見える。

中京競馬場前駅。ここはJRA中京競馬場の最寄駅。

中京競馬場前駅のプラットホーム下にある「よろいかけの松の旧地」碑。「桶狭間合戦縁起」(安政年間に古戦場で売られていた案内図)には「信長公鎧掛松名木也」とある一方、今川義元が鎧を掛けたと書く明治期の絵葉書もある。いずれにしても桶狭間合戦時には存在していた松の名木がここにあったが、大正12年に枯死。残骸が昭和30年頃まで残っていたようだ。現在はひっそりとこの碑があるだけで往時を偲びようもないが、その松を描いたとされる襖絵が大阪府堺市の大安寺に現存。寺伝によれば狩野永徳の筆、永徳が鎧掛けの松を描き終えた後、東国への旅中に再びこの松を見て枝を描き忘れていることに気づき、引き返して枝を描き足したとされ、”枝添えの松”とも称される。

豊明市栄町歩道橋より国道1号有松方面(京方)を望む。左手一帯が豐明市の桶狭間古戦場跡。1日半かけてじっくりと踏査してきたので次の記事に。

豊明市栄町歩道橋から国道1号知立方面(江戸方)を望む。名鉄名古屋本線の高架橋が国道1号上に架かる。中京競馬場駅前から旧落合村(現 豊明市新栄町)にかけての旧東海道は、国道1号が通されたことで一部消失。

現在の新栄町1丁目の旧東海道沿いに旧落合村の町家が並んでいた。

旧東海道から少し北に外れて国道1号沿いに鎮座する前後神明社。

前後神明社の東側台地上に桶狭間合戦の戦死者を埋葬供養したと伝わる戦人塚がある。塚上にある”戦人塚”と刻む碑は、元文4年(1739年)百八十回忌の供養祭で建立されたものと云う。

旧落合村と旧阿野坂村の中間、前後町五軒屋を行く旧東海道。

豊明市前後町大代の旧東海道は緩やかな上り坂に。江戸時代に阿野坂村の町家が並んでいた辺りだろう。

前後駅前交差点。阿野坂村と坂部村に属する旧東海道沿いの町家は、明治元年に成立した前後村に含まれた。

前後駅前交差点から豊明郵便局辺りにかけての旧東海道沿いが旧坂部村の町家と思われる。

旧坂部村の東外れにある阿野一里塚。江戸日本橋から86里目(約338km)、京三条大橋からは32番目(実測で約165km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚、風雨に長年晒されて往時の規模は保っていないが、両塚が現存する。

愛知県道57号線の下を通る旧東海道。この辺りは旧坂部村と旧阿野村の間にあたり、かつては松並木の街道。この先で国道1号に合流する。

国道1号沿いにある”ヒロセ合金”。桑名宿にあった広瀬鋳物工場を前身とする企業。
関連記事
桑名宿

正戸川を渡って。

豊明駅の北側一帯が旧阿野村の中心部。正戸川と境川に挟まれた地で、現在の豊明市阿野町の行政区域が旧阿野村の村域と思われる。阿野坂村や坂部村も阿野村の一部にあたり、通行量が増大した東海道沿いに町家を発展させたようだ。同じ知多郡内に同名の村があり、区別するために東を付けて東阿野村と称した。

かつての尾張国と三河国の国境、境川に架かる境橋。江戸時代には中洲を境に尾張側が板橋、三河側が土橋の継ぎ橋が架けられていた。

うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん
詠み手は江戸時代前期の公卿で歌人だった烏丸光広。古くから接着剤に使われた膠(にかわ)に”三河”をかけているようで、同盟関係にあった織田領尾張と徳川領三河の境を繋いでいたのがここなのだと、感慨に浸りながら境橋を渡ったのだろう。

境橋を渡れば豊明市から刈谷市へ。旧東海道沿道には若松が並ぶ。

旧東海道は今川町交差点で国道1号と交差し、旧今川村へ。

刈谷市今川町を行く旧東海道。

今川町は元は泉田村(現 刈谷市泉田町)の出郷で芋川村(一説には現在の今岡町)とも称したようだ。江戸時代中期から幕末にかけて東海道の茶屋町として発展、東隣の今岡村と共に東海道の立場が置かれた。江戸時代には”芋川うどん”が名物で、現代の名古屋名物”きしめん”の起源とも云われる。明治11年(1878年)今岡村と共に逢見村の一部に。

今岡町の旧東海道筋にある洞隣寺。天正8年(1580年)の開山、開基は刈谷城主水野忠重と伝わる。写真左に見える常夜灯は寛政8年(1796年)の建立。この寺の北側に芋川うどん発祥地の碑があるらしいが未確認。

国道1号に合流して一里山町新屋敷交差点を行く。

国道1号に架かる一里山歩道橋辺りが一里山一里塚跡。国道が通ってしまったことで一里塚は失われ、街道の面影も残っていない。江戸日本橋から85里目(約334km)、京三条大橋からは33番目(実測で約169km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。

逢妻川に架かる逢妻橋を渡って池鯉鮒宿へ。

逢妻川から池鯉鮒宿内に入る旧東海道。

暗闇の旧東海道筋に店内の灯りが眩しい恵比寿屋陶器店。

知立古城址。築城年代は不明、知立神社の神主だった永見氏が築いた居館に始まりがあるとされる。桶狭間合戦時には今川方の城だったが、今川義元を討ち取って勢いづいた織田勢の攻撃により落城。天正年間(1573年~93年)その城跡に刈谷城主水野忠重が御殿を建造し、後に徳川将軍上洛時の宿泊施設に利用されたが、元禄12年(1699年)大地震があり倒壊した。

知立古城址に物憂げな様子で黒猫が佇む。

池鯉鮒宿内の都築屋菓子舗まで歩いたところで本日の旧東海道歩きは終わり。

知立駅から帰途につく。
【旧東海道歩き 第11日目】名鉄有松駅→桶狭間古戦場→池鯉鮒宿→名鉄知立駅 歩行距離約21km

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